油掛地蔵と伏見の酒


松尾芭蕉が京都に寄ったのは江戸期の5代将軍綱吉の時代(貞享年間1685)のこと
俳諧で馴染みの西岸寺の住職であった上人との邂逅を果たした
この寺なり、俳諧集「野ざらし紀行」に記述がある
「我衣(わがきぬに)に ふしみの桃の しずくせよ」という句碑もここにある

伏見城も無き江戸期の伏見の街はこのあたりが中心だったと思われる
北は大手筋、南は伏見港、ここは油掛(あぶらかけ)通りと言われる
その京からの街道(竹田街道)の交差点に駿河屋という和菓子屋がある
明治・大正・・そこらが日本最初の営業電車・京電の終点だった
その隣が西岸寺だ、油掛け地蔵がある
大坂へ下る伏見港を目の前にして伏見最大の繁華街であったはずだ
伏見の町は江戸政権の誕生で直轄領として大坂に並ぶ最大の商業都市であった
伏見は桃山である
小生らは今でも伏見城のことを桃山城と呼ぶ
安土に継いだ時代は桃山時代である
それが、大阪へも行かず、京にも戻らず、江戸へ行ったのである

それでも京の洛中・洛外には数百軒の酒蔵があった
伏見は洛外でもあったが、この地そのものが渡来人秦氏の持っていた酒造りの技術がベースになっている
伏見の港は京の酒を大阪や江戸に積み出す港でもあった
特に江戸期は伏見港と豊富な地下水で酒造りが盛んになった・・とある
伏見城のあった山は桃山と呼ばれる
今は、桓武天皇と明治天皇、平安京ゆかりの帝の御陵でもある

小生、俳句も芭蕉も詳しくはないが・・話を芭蕉に戻す
「桃の滴(もものしずく)」という銘の酒がある
その名は先ほどの芭蕉の句によるという訳だ
伏見城が廃城になって後に桃の木を多く植えたから桃山というと書いてあるものがある
が、小生、後先が違うような気がする
むしろ、秀吉は桃の木の山に城を築いたのではないだろうか
それは、都を望む桃山の桓武帝の御陵であった
秀吉は桓武帝の御陵に重ねて自分の京都支配の城を築いた、というと個人的仮説を持っている
都から見て御陵の山は桃の山であったのではないだろうか・・
あわせて「桃の滴」はずーっと後に単に伏見の一酒造会社の銘柄に用いられたが
芭蕉が伏見へ来たのは晩春であった、桃の花盛りを目にしたのだろう
伏見は桃山からの地下水で酒造りをしている
季語は桃であり、時期は新酒の美味しいころである
伏見の酒のことを”桃の花のしずく”と詠んだのではないだろうか
という二つの個人的仮説(?)を信じている
鯵庵(2.19)

by ajiankyoto | 2017-02-19 09:17 | Comments(0)