崇徳院の母



後白河院の父は74代の帝鳥羽院
母は藤原璋子(しょうし、たまことも、1101-1145)、待賢門院(たいけんもんいん)である
待賢門院の父は権大納言公実(きみざね)、母は光子、鳥羽院の乳母だった
7歳の時に父を失い、白河院を父がわり、祇園女御を母がわりとして育つ
やがて白河院の孫、鳥羽帝に入内、約1年半の後皇子生む
それが第一皇子であり、すぐに崇徳帝となす
8年後雅仁皇子を、それが後の後白河である
それまでの世は養父白河院の治める時代だった
白河院がなくなって鳥羽院が治天の君となって廷臣を統率
崇徳帝の人生が暗転する
鳥羽院は美福門院(びふくもんいん・とくこ、)を寵愛し、その3歳の皇子に帝位を譲らせた、それが近衛帝である
権勢を失った待賢門院は西ノ京、双ヶ岡(ならびがおか)の寺に入って落飾する
それが法金剛院の再建につながる
数年を経ずして40余歳で亡くなった
今は花園駅の前、関西花の寺、蓮の花咲く時期には境内が一杯になる

その後10年の後、近衛帝が17歳で崩御する
鳥羽院は最後に、後白河を帝位につけて崩御する
院は崇徳院、帝は後白河、母を同じくする兄弟が並び立ったのである
崇徳は自らの皇子を帝位につかせたかったが、鳥羽院はそれだけは許さなかった
崇徳院は自らの院政の継続も期待したかもしれないが、後白河はすでに壮年、しかも弟である
母を同じくする兄弟、しかし父(鳥羽帝)は最後まで自分の子として認めなかった
祖父と待賢門院の子である?そうであったら父系の系統から言えば遠い、その疑念をはらしようがなかった
帝位は時の絶対権力者鳥羽院の血筋でなければならなかったとすれば当然のことだったのかもしれない
この後、すぐに始まるのが保元の乱である
乱は帝位だけでなく、藤原氏の宇治の長者また台頭してきた武士の覇権争いも一緒になっての始まるのである
崇徳院は弟後白河対して「文なく武なく・・」と帝位に相応しくないと明らかに苦々しく思っていた節がある
その「・・武なく・・」と評した後白河帝に、一日の闘いで負けてしまうことになる
物語を読み、歴史の流れを知る我々には分かることだった
崇徳院には分らなかったのは仕方がない
10年前に亡くなった待賢門院は知らなかった方がいいのかもしれない
待賢門院は法金剛院の五位山の背中、花園西陵に鳥羽の皇后璋子として眠る
璋子が生きたのは今から900年も前の話である
写真は法金剛院にて
鯵庵(3.2)





by ajiankyoto | 2017-03-02 07:18 | Comments(0)