大仏始末/大仏の正面通(続)

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今は妙法院や智積院や京都国立博物館などもあるが
大和大路七条から東・北のこの一帯の地は秀吉(豊国大明神)や豊臣家の菩提寺であり聖地であった
豊臣家としては秀吉の発願になる大仏を完成させたかった訳であるが、豊臣家滅んでも大仏と鐘が残ることになった
が、巨大な銅の大仏は地震で倒壊
この大仏が徳川体制を支えることになる
豊臣家の銅は全て徳川の銅になった
貨幣経済は金・銀・銅の経済であるが、今日流通しているコインと同じである
日常は銅銭で暮らしている
銅銭は中国から輸入した貨幣では不足する
これを寛永通宝という徳川貨幣にしたわけである
家光の時代だという

250年間江戸時代と言われる期間を庶民の経済を支えた
権力の証になんぼ大仏作っても役に立たなかったけど一分銭(いちもんせん)にしたら250年もったということになる
それ以上に豊臣の蓄えた金と銀はそっくり徳川体制に引き継がれていくことになる
それが革命であり、それが政治だと今では分かる
徳川政権は豊国大明神の神号をはく奪した後、天台宗の妙法院などに土地を与え聖地の分断を図ってきた
前政権の聖地は破壊しなければならない
それが、この地の宿命であり正面通の不幸の始まりである
それでも大仏は何度か再建を試みられ、天保時代の大仏も昭和48年(1973)火災で焼失するまであった
だから、今でも京都の人は大仏と言う
鯵庵(30.1.16)



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by ajiankyoto | 2018-01-16 12:00 | 都市 | Comments(0)