墓の行方/樹木葬⑤

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あくまでも彼の研究の範囲ではあるが、
今、家に墓あり80%、が自分の墓無し15%、残り5%がその他・・らしい
その他には墓に興味がないということも含まれる、30%くらいはそうだという
合計したら125%になる変な100分率であるが・・
小生の友人が言うのは間違いなくこの10~20年で〝その他″が5%から30%になるという
何故なら墓を持っている人もさることながら、墓に興味のなかった人も参入して来る
これからは自分で自分の(死後の)形を決めることになってくると言うのがその根拠である
しかも、これから10年20年は団塊の世代の動向に左右される

これからは何々家の墓と墓名が書いてあるのが虚しくなる
〝自分の墓を守りしてくれる人がいないことの方が本当にはかない″ことだと言うのが、彼の話である
彼とは、京都市内のお寺の副住職をしながら教団関係の寺務所にも詰めている
若手の僧侶たちにはこれからの葬儀と経営のあり方が一番の関心事であるのは当然だ

"仏事とは本当は辛いことなのだ、もっと言えば心の痛みを伴うものなのだ、僧侶はそのことを前提に檀家と付き合う修業をしてきた"と親は(現住職)はいまでもそう言う、と言っていた
彼はしてみれば、それならなお、これからの檀家の変化について行けるか不安である、とも言う
自分の骨の行くへが見えることが大事だということらしい
そのためには今以上にしっかりお寺とつながっておくことは大事なことだと言うのが論である
言い換えれば・・・現況でも30%は浮動票で、「家に墓あり」の70%に食い込んできて・・・
今までの墓を引き続き守れる保守派が過半数を割り込むようになれば死活問題らしい
まるで選挙みたいな話である

"死に方は自分で決められないけど、自分の骨が納まる形を決めておく必要はある、そうでなければそれまでの生き方も決まらない、自分の残された生き方を決めるのが終活だ"と言う
それでも、将来住職を継ぐまでの説教には使えそうな話やなぁとは言うておいた
墓もさることながら今生きている人を大事にできる住職にはなれそうな気はする
鯵庵(7.17)

素うどんの会
この項、一応終わる




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by ajiankyoto | 2017-07-17 17:02 | 後生 | Comments(0)


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ある墓地の宣伝で、〝自分のお墓のないことははかないことです″と言うのがあった
ジョークにしてはインパクトがある名文句だと思う
また、一方ある宗教グループは「お墓は無くてもいい」という運動をしたりしている

肉体は火葬したら、それで終わる
各地の自治体の条例では、もちろん火葬後すぐに遺骨は引き取られるものとなっている
前回に述べたが、わが京都市も慣習は部分収骨である
実際、火葬場に残された灰は丁寧に処理される
そのことではなく、全ての遺骨を受け取らないという運動だ
形としては火葬場で遺骨を受け取らない・・ということになる

その実現にはおそらく遺家族で大きな悶着となる
それが故人の明確な哲学であったとしても、それを実行する遺族には多大な負担がかかる
だが、世間は広い、一方でお骨を引き取った人がそれで困るというのもの現実である
所によっては大きな骨壺にすべての骨を引き取らされることもある

ずっと骨壺と一緒に暮らしているというのも心なき行為と言われる
遺骨でお地蔵さんやアクセサリーにしてくれる業者もいる
ここで言いたいのは、遺骨はそれぞれのお墓におさめられなければならないということになればである
行くべきところに行かない遺骨こそ成仏できない遺骨となる
だから、石屋が言うように「墓がないとはかない」ということにもなるのだが、
しかし、墓がなければその悩ましき束縛から逃れられるというのも本当だと思う

たしかに「墓がなくても」人間の生存の証に不足はないという考え方もあってもいい
人間が死を前にして生きる苦しさを救うのも宗教だろうし、
そのために形式を決め淡々と儀式を行うのも宗教である
一昼夜休むことなく多くの人が薪をくべながら荼毘に付した時代もある
50年前は土葬だったのが、貴賤の区別なく焼却炉で火葬という埋葬方法がやっと定着したのである
数十分で苦しむことなく、肉体(有機物)が灰(無機物)になるということを受け入れられるのなら・・
灰は既に土と同じである
既に成仏していると考える方が自然である

肉体と灰の間に自分を
置いてこそ、魂のことを考えられるかもしれない
最後に残された儀式の場が墓である
それがただの儀式なのかどうかはあなた自身が考えればいいことだと思う
この項続く
鯵庵(7.15)



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by ajiankyoto | 2017-07-15 08:00 | 後生 | Comments(0)



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庶民が立派な石の墓を持てるというのはそんなに古い話ではない
土葬から火葬への変化と重なる
それなのに今度は田舎の墓を打ち捨てて都会に新しい墓を建てだした
こちらの寺とつながらないから霊園墓地(れいえんぼち)などが売れ出した
それは今でも続いている
墓参りはしたいが田舎に帰るのは嫌な人もいる
自分の代の墓が欲しいという人もいる
田舎から都市への人口の移動に伴ってのものである
新たな都市住民(移民)としての証(あかし)を求めているようでもある
墓のあるところが故郷だというのも分かる
しかしながら、これからの家の寿命は墓石の寿命に比べて短すぎる
しかも、成功の証にしても立派すぎる

京都市が中央斎場の火葬件数の予想を立てている
市民のほぼ100%が火葬だから、市民の死者の数だと思えばいい
平成43年から47年の5年間ぐらいがピークになる
1日の火葬件数は(最大)138件になる、としている
中央斎場の1日の処理能力は120件(24基ある)程度らしい
やがて減少していくことが見えているので増設はしないということだ
平たく言うと、団塊の世代が85歳前後となる時期が死者のピークということだ
この間毎日18件分、1年で約6500件が生焼けになる(?)という計算だ

団塊の世代は最後の最後まで生きる競争だ、それどころか死ぬタイミングも・・
"阪神淡路"の時に経験したことであるが、焼き場を求めて役場と遺族がさまようこともあり得るわけである
立派な墓を用意して準備したからとて優先してくれるわけではない
だが、他人の墓に居候は出来ないのも事実だ
もう一つ京都市中央斎場が困ってることがあるという噂だ
京都(近畿圏)は部分収骨である
残りは火葬場で処理してくれる
灰の大部分を土に帰えすのであるが、果たして生焼け(?)ではうまく処理出来るかだ
当事者になればジョークでなくなる可能性はある
やはり、遺骨(焼却灰)は土に返すことが本当だと思う
その処理槽を丁寧に「聖土槽」と言ったりする
それがそのころには満杯になっている?
気にせず東山の樹林の土にしてもらっていい、と市民は思った
それが樹木葬に関心を持った小生の動機でもある
と言えば、くそ生意気かな

この項まだ続く
鯵庵(7.12)


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by ajiankyoto | 2017-07-12 06:46 | 後生 | Comments(0)

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往古、京都に都が出来たころ庶民の多くは自然葬(風葬)であった
京都に火葬場が運営されたのは明治になってからで東西両本願寺の運営であった
それが市営の火葬場の前身である
現代は都市では人の屍(しかばね)は焼却しなければならない
従って、焼却してからの措置を埋葬(まいそう)と言う、埋葬は墓地でなくてはならない
今の自然葬(しぜんそう)と言えば散骨(さんこつ)のことを言うのが多い
墓地以外のところへの埋葬(散骨)することも、秩序的・衛生的であれば宗教的儀式として許される
ただし、遺骨を細かく砕くなどの配慮が必要である
何よりも、散骨には明確な動機がなければ後ろめたいことになる
そんなことから、自然葬としては散骨より樹木葬(じゅもくそう)が増えそうだ
お寺が墓地として許可を得る、墓石の代わりに樹木をシンボルとする、土中に埋葬するのだから、そのまま現代の法体系に合う方法でもある

小生の長男は東山花山で灰になり、そのふもと、いつもたむろしていた円山公園に隣する東大谷で、親鸞の廟の土の一部になった
世に何もなさぬままの命を石碑に名を刻むまでのことはない
が、その代わり毎日、全国から墓参りに来た人が息子の分も祈ってくれる
長男のいない辛さは齢とともに深まってくるが、哀しむのは我々夫婦だけのことだ
立派な御廟の樹林の土の一部であればむしろ永遠だと思える
小生らには樹木葬も今始まった話ではない

いかな京都でも観光寺院としてやっていける寺院は少ない
土地を売ったり、幼稚園を経営したり、墓地や駐車場の経営をしている
新たに納骨堂を建てて墓地のマンションと言うのもあるが、
インターネットで墓参りが出来るなんてついつい世間と同じで無機化しすぎてしまう
それほどの土地も持たない寺院も樹木葬なら墓地の経営は出来る
樹木葬と言うのは合同墓地だから、庭の一角を整備すれば出来る
お寺の庭を墓地として樹木葬を進めていこうというのは有効な戦略だと思う
これからは大きな霊園を作って、これ以上石屋ばかりに儲けさせることはない
その気になればお寺そのものが経営出来る手法なのだ

本来は経営の問題と捕らまえるものではない
しかし、各宗派の本山は京都に集中している
拝観謝絶ながらある寺院では既にペットの霊園を営んだりしている
本山であってもそれぞれの塔頭寺院や寺内寺は独自の宗教経営をしていかなければならない
合同墓地や樹木葬と言うことになれば新しい檀家(固定客のこと)を持つことと同じである
しかも、拝観謝絶(拝観すべきものもない?)の寺院で(合同)法要に参加できるなら、京都観光に優越感を感じることも出来る
それなら息子も娘も孫も来てくれるかもしれないと思えば自分の墓作りに希望が出る
なんたって京都(みやこ)ブランドは有利でもある
京都ブランドが現代の都市移民である世代の役に立つかもしれない言う訳である
写真はシオカラトンボ


(場合によっては続く)
鯵庵(29.7.10再掲)




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by ajiankyoto | 2017-07-10 18:32 | 後生 | Comments(0)

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墓守の仕事に興味を持ったのは、第3の仕事を求めての話であった
実はハローワークを通じて初めての面接だった、樹木葬の企画会社だった
面接の後すぐに丁寧に断られた、1年も前の話である
詮無いながらもそういうことにも勉強させていただいた
埋葬(納骨)の形は様々であるが、ここの遺骨はお寺の庭で手厚く祀られる
大きな石の墓標はないが、寺の中である、本物感?はある

一番いいことに、墓の将来(死後の姿)を容易に想像することが出来る
だから、自分用に生前に購入する人が増えている
墓参りもしてもらえない墓が、全国に何十万基いや何百万基とある
今でこれなら、我らの世代の次の世代になれば先祖代々の墓はほぼ無縁仏状態になるかも
ならば、負担にならない墓でないと子孫に恨まれるということになる

本山の塔頭寺院だから、年に何回かは厳かに法要も営んでくれるし、友の会もある
そうでなくとも新しい住人が増えてくることは事実だ
しかも、観光客では入れない・・ブランド志向にも対応できるわけである
それはさておき、もし採用されておれば私の仕事は何だったのかと言うと・・
お客の案内をする運転手と墓掃除である
古風に言うと墓守(はかもり)だった
小生の自分ことは既に心に決めている
だから、自分の墓の守をしようと言うのではない
人の墓を守するというそのことに憧れて応募したのに・・
・・である

採用されることはなかったけど、いい企画だと思っている
京都の寺院型の樹木葬は都市移民の我々の世代にとっていい落ち着きどころになる
どのような状態であっても、骨は自然のバクテリアのおかげで数十年で土と水となる
樹木の栄養となってもいいとさえ思えば、死後落ち着ける環境である
樹木の栄養になってもいいとさえ思えば、死ぬまで落ち着けることもある
小生も落ち着いて営業と墓守をしていれば、いい罪滅ぼしになったのにと、今でも残念に思っている

(この項続く)
鯵庵(29.7.8再携)

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by ajiankyoto | 2017-07-08 20:08 | 後生 | Comments(0)

49日の迷い

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あの世などあり得ないと言うことは簡単である
その通りかもしれないが、それでは皆、救われない
あの世もあってほしいと思う人も多いだろう
あの世を見て来た人が少ないのだから仕方がないが・・
日常そんなことばかり考えているわけにはいかない

今、生きているのを今生という
死後生まれ変わるのを後生という
人が死んで次の生を受けるまでの49日間を中陰という
その間、ことである
安心してはいけない・・生前の善悪はまだ定まっていない
善悪のまだ定まってない者は7日ごとに転生し、7度の49日を経て必ず他所に生まれる説かれてる
悪趣に行く者も、仏の導きにより善所に生まれることを念じて法事を務めるのである
古くから一般庶民にも広がった死後感である

ひょっとすればその間が地獄で閻魔大王に生前の罪を裁かれている時期かもしれない
地獄とは、死者の国であり、六道輪廻(ろくどうりんね)の国でもある
しかし、やがて、ともかくも地獄の「おつとめ」は終わる
人を裁くという閻魔大王は日に三度も灼熱の溶銅を飲んで悶絶するという
地獄で最も苦しんでいるのが実は閻魔大王である
閻魔の裁きは人の悪業の消滅を助けるものである
だからこそ、閻魔は裁きを終えると姿を変えて地蔵菩薩として人々を慰める・・
という

悪行をなした人がそのまま極楽へ行けるとすればそれはやはり不都合だろう
それでも、いずれ仏になれるのならそれは救いになる
悪行は正しく裁くものがあって初めて悪業となる
善をなしてきたとばかり思っていると意外なところで閻魔に暴かれるかもしれない
そういう人の方が多いからこその閻魔様である
だから、仏の導きにより善所に生まれることを念じて法事を務めるのである
してやれることはそれしかない
鯵庵(6.3)

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by ajiankyoto | 2017-06-03 09:00 | 後生 | Comments(1)

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大学入試センター試験科目にも「倫理」ってあるらしい
随分前に親鸞聖人が語った(悪人正機あくにんしょうき)という問題が出たらしい
親鸞の著書歎異抄にある「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というこの言葉についての(選択)問題だった
答えは
『善人とは自力で善を行えるとおもっている人のことであり、悪人とは根深い煩悩を自覚し、どんな善をなそうと努めても、それが不可能と思っている人のことである』
に〇をつけると正解らしい
悪人こそは往生するにふさわしい機根があると歎異抄は説いていると解釈している
救いを求めているのは悪人である、と言うのは親鸞の気持ちに沿っているかもしれない
機根とは物事を理解できる力である
悪人はその機根を多く持った人であるというのが悪人正機ではないだろうか

そんな問題が出るということは倫理の教科書にそんなことが書いてあるはずだ
″どんな善をなそうと努めても、それが不可能と思っている人のことである″
と言うのは高校生に理解できる筈がない
選択といえど入試センター試験でも余りにもふさわしくない
それより先に色気むんむんの高校生にそんなこと教えてるのだろうか
教育効果があるのだろうか、それが倫理なのだろうか
鎌倉時代の法然や親鸞や日蓮の名も知らないのはようではおかしいが、
宗教家ですら悩むような問題がこんなところで出てくるのもおかしい
択一式で答えが合ったからと言って何が残るのだろう

世に悪をなす人は自分が善人だと思っている人ではないだろうか
極端に言えば・・そんな善人も悪人の一種である
阿弥陀如来は根深い煩悩を自覚出来れば善悪の区別などなく救ってやろうと言っているのだ
救われる方は善悪の区別の定義など今考えなくていい
それは宗教哲学者に任せればいい話である
親鸞に近しみを感じてあるいは学びたいと思って初めて親鸞が近づいてくるのである
それが機根である
親鸞が生きていた時代から800年・・
お寺に走らなくともよい、せめて、親鸞と名のつく小説でも読みたまえ
年々芥川賞も直木賞も下降気味だが、本来小説は青春と一体だ
大学に合格したら、どうせ勉強しないなら文学にでもなじむことだ
善人も悪人も、救いを求めてる人もそうでない人も・・
勝ち組も負け組も、大学生もそうでない人もみな同じ「悪人」だと気付けるだろう
救われる悪人であればいいのにね
鯵庵(1.24)




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by ajiankyoto | 2017-01-24 07:33 | 後生 | Comments(2)

このブログにふさわしくない点もありますが、
この世とあの世のことです
仏教用語では此岸(しがん)・彼岸(ひがん)と言うのでしょうか
この世のことも説明されないまま、あの世のこと言われても困りますが・・、
この世からあの世は私らには見えてません
この世があるようにあの世があるのではないということは私にもわかります
だが、あの世からこの世がどう見えているかということは分らない

もし、あの世からはこの世があって見たければ見えますよと言われたら、
あの世の私はその後の残した妻のことは別にしても、子や孫の姿は見たいと思います
出来れば家が残っていてほしいです
それは私が本当に凡人だからです
しかし、姿は見えても心は見えません
凡人にはこの世で見えなかったものが見えるはずがありません

仮にですが、あの世からこの世は見えていると教えられたら
私だけでなくこの世の人の生き方は大きく変わっていたと思います
だが先祖が見ているわけでもなし、恨みあるものが見ているわけでもない
しかも、見ているとしても何のシグナルも送って来ないなら同じことです
と、自分で自分にうそぶいてきました
自分が行き詰ってるのは天罰ではなくまさに自分がまねいたことなんです

仮に本当に死んだ父親の今の言葉を本当に聞けたら、

間違いなくその霊媒師には畏怖の念でのめり込みます
本当の父ならきっと生きてる時と違うことを言うと思います

だから先祖の霊だって何もしないなら恐れることはありません
今までどおり生地(ハギレ)のまま生きていけばいいのです
実はあの世から私を見ているのは先祖でもな怨念でもなく恨みでもなく仏の目です
それは自分の目かもしれません
あの世のことは知りません

この世は今もこれからも狂宴つづきです・・今はだから良くも悪くも救われているのです
鯵庵(10.30)


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by ajiankyoto | 2016-10-30 17:43 | 後生 | Comments(0)

墓との距離が問題だ

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田舎にある先祖の墓を何とか自分の近くに持って来たい
ところが墓を移転(※改葬)するということは結構大変なことである
親がいて正月や盆あるいは彼岸に帰省するところがあればありがたい
しかし、自分が田舎を捨てて親もいないとなれば田舎へ帰るのは墓参りと言えど辛いことである
先祖の墓と自宅との距離が問題になる
それゆえか無縁仏が増えている、墓参りしなくとも墓の所有者がはっきりしていれば無縁仏ではない
墓地の運営者が正式に無縁仏とするには改葬の公告をしなければならない
それも手間のかかることである

国の調査では出生地に住み続けてるいる人の割合は2割以下に減少している
もうこれ以上に下がらないかもしれないが、その大きな原因が都市移住と人口減少である
その残りの7割・8割の人の中で新しい墓を持つことがここ数十年続いてきた
墓地を分譲(土地は所有しない)する形の霊園が今までの主流であった
今でも条件のいい霊園墓地の競争率は高いけど、一方でそこでも無縁仏が増えている
評論家は都市移住の問題より今は未婚化の方が影響しているという
人間、子が出来て孫が出来てはじめて先祖のことに思いが至る訳である
でも残念ながらその子に墓参りする姿を見せていない
生きてるうちに自分の墓を作ったって同じである、そんな墓に参るのを子供に見せても感動はないだろう
人間の終わりは骨である
石の墓を持てる限りは生きた記念碑が欲しいというのが信仰になっている

田舎へ行って菩提寺にええかっこして墓地の改葬をしたい、と言ったら何百万も要求されることもある
何百年の清算と縁切り料である
そうでないと墓地管理者としての改葬の承認状を発行してくれない
改葬は法律に基づく手続きであるからだ
それならどうすればいいか?新しく自分の墓を作るのが手だろう
ただしそれは永久に改葬の必要のないところに・・
樹木葬については以前に何度か書いた参考にされたし

先祖の墓も守しないで自分の墓を持つのは先祖や親に大不孝だと思う人はやめたがいい、納得ができなければいくら作っても記念碑にならない
だから今あなたの心の隙間を埋めるように多くの自治体やお寺が合同葬を進めている
都市で子供のない人や未婚の人たちをターゲットにした営業戦略に変更をしている
自分の墓を守してくれるのは自分の子供達だという一番大きな信念が崩れつつある
そのことを知って選ぶべきである
守をしてもらうのでなく孫にも会いに来てもらえる墓を選ぶべきであると思うのだが・・
これからは結婚しない人にも優しい墓でないと流行らないと思う
いずれ魂は気化して残るのは土と水だ、都会の人は都会が墓場だ
写真はキク
鯵庵(9.18)

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by ajiankyoto | 2016-09-18 18:00 | 後生 | Comments(2)