終活アドバイザー


お盆のちょっと前のことである、いつものことながら暇つぶしにテレビを見ていた
お盆に家族が寄る機会を互いに大事にして・・就活をしておけというのだ
一は預金のありかと額(遺産のこと)
二は誰が介護をするかということ
三は葬儀の仕方のこと、あえて追加すれば誰まで呼べばいいかということ
自分の仕舞いを子供たちと決めておくことこそトラブルを防ぐ方法だとのたまう訳である
うっとおしいものを見てしまった

そもそもお盆にしか会えないのは家族ではない
こんな話に土俵も行司もない
昔は何かとオジキが出てきてくれて欲に突っ張った奴を叱りながら納めてくれたものだが今時の欲張りはこんな時にも理屈を言って人の話を聞かない
せめて人の話を聞けるならそもそも問題が起きない

子供に預金の話をあからさまに出来る親は今は1割もいないだろう
そんなことをする人は生きてる間に地獄を見る
介護のことを子供や嫁にあらかじめ頼んだとて何の保証もない
それどころかなんやかんや言って前金取られる
葬儀に誰を呼ぶかなんて言ったって、そもそも思惑がずれている
来てほしい人は来てくれないことになる
子供にとっては連絡先もわからなければかえって免罪符になる

誰かが言っていた、今の年寄りは隠居さんではないのである
そもそも、相続とは正に子供らに譲らなかったもののことである
親も子もそれぞれ別々の世帯でまるっきり違う家計を営んでいるのである
たまたま法律は家族や家庭に入ってこない
自分の持っているもので施設でも入ってくれ
そうでなければずっと入院してほしい
そうでなければ元気な時に死んでほしい
そこまで言われれば親としては幸福の部である
隠居どころか息子の扶養家族になるわけにはいかん

自分の仕舞いを自分流に出来たとしたら僥倖だろう
それよりも先に老後破産だってあり得る訳である
僅かな年金を頼りに大人になっても離れない大人子供が沢山いるらしい
さっきの話はそんな人の話ではないかという
ボケてしまいたいという人が多い
なおさら、就活アドバイザーに言われるとけったくそが悪い
やりたい人にやれるのは生命保険だけらしい
生命保険はボケる前に入っとくべきだというのはいいアドバイスだった
やはりスポンサーに保険会社が入っていた
現世(うつしよ)は一人旅である
五山の送り火を遠く眺めながら思ったことである
鯵庵(8.17)


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by ajiankyoto | 2017-08-17 09:00 | 後生 | Comments(4)

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京都の地の人は″おしょうらい(お招霊)”さんと発音のする人が多い
いかに招いた霊であっても所詮一緒に長い間暮らすことは叶わない
16日にはまたあの世に送り返す訳であり、それを精霊送り(しょうりょうおくり)と言う
今は音頭の声が聞こえなくなったけど盆踊りも精霊送りでもある
お供えと一緒に川に流したり、松明の火で現世の穢れを清める行事が行われる
各家庭・各町内やお寺や墓地でも精霊送りの行事が行われる
大量に供物を川に流す精霊流しは問題がありとのことで、代わりに京都市ではお供えの処分もしてくれる
それを大がかりにしたのがおそらく室町時代にはあったとされる「送り火」である
送り火が見えるところでは、も一度各家庭のご精霊さんもまとめて送ってもらえる
その上、旅の人も参加できる観光にも都合のいい送り火である

今は京都のお盆の観光は「五山の送り火」が代表する形になった
午後8時に東山銀閣寺の上の如意が岳の大文字が点火される
「妙法」「船形」「左大文字」続いて、一番西の奥嵯峨野の「鳥居形」が点火されるのが8時20分ごろになる
そのころはもう最初の大文字は消えかかっている
小生が初めて送り火を見たのは、親に手を引かれ田舎から京都駅に帰ってきた列車の中だった
東海道線はその時まだ蒸気機関車だった、列車が鴨川鉄橋を渡るころだったかな
眠たいのに起こされたように記憶している
京都駅のあの辺りからも大文字は見えたように思う
ただ、大文字が見えるのはいつも一瞬なのだ

昔(旧暦の頃)の送り火は天気がよければ必ず満月とセットである
山の陰の黒と群青の空の色は明らかに違う
月と大文字と精霊流しの灯りを一緒に見ることのできた昔の人の感慨は想像できない
月遅れで行われるお盆の行事では毎年8月16日の月齢は変わる
この時間に東山に上手く月がかかることの方が珍しくなった
それでも、鴨川堤防から見る大文字は絵になりやすい
今出川橋や丸太町橋あたりまで行けばよく見えるかもしれないが
わざわざ出かけていく大人は少ない
実は燃えているのは15分にも満たないからだ

この一瞬の静寂ゆえに、俗っぽい京都のお盆もこの日だけは侘しさを感じさせられる
五山の火を全て楽しめるのは難しいが、それでも数十分だ
テレビ中継ではそれぞれの火床の周りの人が映し出される
その人たちにとっては行(ぎょう)なんだと思う
そうなんだ、それもまた精霊を送る送り火なんだと思わされる
全ての火が消えてしまって京都のお盆が終わる
地上には現に生きている人だけのまた迷い多き生活が始まる
これで盆が終わるのかと思いきや、京都の夏は24日の地蔵盆に向けての準備がはじまる
鯵庵(29.8.14改

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by ajiankyoto | 2017-08-14 07:25 | 後生 | Comments(0)

墓掃除する人

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テレビドラマの墓参りのシーンはスマートだ
墓前に花と線香をたむける
人間の善やあるいは後悔を描くいいシチュエーションだ
ドラマだから墓の周りが草ぼうぼうということはない
都会で霊園墓地を買った人はそんな善なる場面に憧れる

小生の大阪郊外の墓地は親が買ったものだ
もう30年になる
あれから長男が死んで親父が死んだ
それぞれの名を刻んである
陽当たりにいい墓である
し、親父も自分でしつらえた墓に入るのだから満足していると思う
その親父の墓を守るために今日は30キロ走ってきて
炎天下、地面をはいつくばって小鎌で草の根を切る
それからやっと墓石を洗って線香に火をつけるころには汗だくだ

帰りに家内が"小生が先に死んだら霊園の墓地の始末をする"と言い出した
一人では墓参りも出来ないし、なおさら墓掃除に30キロも年寄りが走ってくることなど出来る筈がない
我が家は既に、長男も親父も東大谷の御廟に納骨してある
我らもそこであれば困らない
それなら、歩ける限り毎日でもくることは出来る
墓地があるからと言って大阪郊外まで持って行く必要はない

丹波の家内の里では盆前に檀家総出で墓掃除をする
掃除は家を守る婆(ばば)ばかりだ
しかし、お盆には賑やかに家族でお参りする墓であれば報われる
誰も来ない墓が増えている、そんな噂話ばかりだ
うちだって、もうすぐ墓掃除に出る人がいなくなるだろう

テレビドラマとそこが違うのだ
墓掃除する人と墓参りする人とは違うのだ・・?
鯵庵(8.12)




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by ajiankyoto | 2017-08-12 07:20 | 後生 | Comments(0)

墓の行方/樹木葬⑤

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あくまでも彼の研究の範囲ではあるが、
今、家に墓あり80%、が自分の墓無し15%、残り5%がその他・・らしい
その他には墓に興味がないということも含まれる、30%くらいはそうだという
合計したら125%になる変な100分率であるが・・
小生の友人が言うのは間違いなくこの10~20年で〝その他″が5%から30%になるという
何故なら墓を持っている人もさることながら、墓に興味のなかった人も参入して来る
これからは自分で自分の(死後の)形を決めることになってくると言うのがその根拠である
しかも、これから10年20年は団塊の世代の動向に左右される

これからは何々家の墓と墓名が書いてあるのが虚しくなる
〝自分の墓を守りしてくれる人がいないことの方が本当にはかない″ことだと言うのが、彼の話である
彼とは、京都市内のお寺の副住職をしながら教団関係の寺務所にも詰めている
若手の僧侶たちにはこれからの葬儀と経営のあり方が一番の関心事であるのは当然だ

"仏事とは本当は辛いことなのだ、もっと言えば心の痛みを伴うものなのだ、僧侶はそのことを前提に檀家と付き合う修業をしてきた"と親は(現住職)はいまでもそう言う、と言っていた
彼はしてみれば、それならなお、これからの檀家の変化について行けるか不安である、とも言う
自分の骨の行くへが見えることが大事だということらしい
そのためには今以上にしっかりお寺とつながっておくことは大事なことだと言うのが論である
言い換えれば・・・現況でも30%は浮動票で、「家に墓あり」の70%に食い込んできて・・・
今までの墓を引き続き守れる保守派が過半数を割り込むようになれば死活問題らしい
まるで選挙みたいな話である

"死に方は自分で決められないけど、自分の骨が納まる形を決めておく必要はある、そうでなければそれまでの生き方も決まらない、自分の残された生き方を決めるのが終活だ"と言う
それでも、将来住職を継ぐまでの説教には使えそうな話やなぁとは言うておいた
墓もさることながら今生きている人を大事にできる住職にはなれそうな気はする
鯵庵(7.17)

素うどんの会
この項、一応終わる




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by ajiankyoto | 2017-07-17 17:02 | 後生 | Comments(0)


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ある墓地の宣伝で、〝自分のお墓のないことははかないことです″と言うのがあった
ジョークにしてはインパクトがある名文句だと思う
また、一方ある宗教グループは「お墓は無くてもいい」という運動をしたりしている

肉体は火葬したら、それで終わる
各地の自治体の条例では、もちろん火葬後すぐに遺骨は引き取られるものとなっている
前回に述べたが、わが京都市も慣習は部分収骨である
実際、火葬場に残された灰は丁寧に処理される
そのことではなく、全ての遺骨を受け取らないという運動だ
形としては火葬場で遺骨を受け取らない・・ということになる

その実現にはおそらく遺家族で大きな悶着となる
それが故人の明確な哲学であったとしても、それを実行する遺族には多大な負担がかかる
だが、世間は広い、一方でお骨を引き取った人がそれで困るというのもの現実である
所によっては大きな骨壺にすべての骨を引き取らされることもある

ずっと骨壺と一緒に暮らしているというのも心なき行為と言われる
遺骨でお地蔵さんやアクセサリーにしてくれる業者もいる
ここで言いたいのは、遺骨はそれぞれのお墓におさめられなければならないということになればである
行くべきところに行かない遺骨こそ成仏できない遺骨となる
だから、石屋が言うように「墓がないとはかない」ということにもなるのだが、
しかし、墓がなければその悩ましき束縛から逃れられるというのも本当だと思う

たしかに「墓がなくても」人間の生存の証に不足はないという考え方もあってもいい
人間が死を前にして生きる苦しさを救うのも宗教だろうし、
そのために形式を決め淡々と儀式を行うのも宗教である
一昼夜休むことなく多くの人が薪をくべながら荼毘に付した時代もある
50年前は土葬だったのが、貴賤の区別なく焼却炉で火葬という埋葬方法がやっと定着したのである
数十分で苦しむことなく、肉体(有機物)が灰(無機物)になるということを受け入れられるのなら・・
灰は既に土と同じである
既に成仏していると考える方が自然である

肉体と灰の間に自分を
置いてこそ、魂のことを考えられるかもしれない
最後に残された儀式の場が墓である
それがただの儀式なのかどうかはあなた自身が考えればいいことだと思う
この項続く
鯵庵(7.15)



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by ajiankyoto | 2017-07-15 08:00 | 後生 | Comments(0)



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庶民が立派な石の墓を持てるというのはそんなに古い話ではない
土葬から火葬への変化と重なる
それなのに今度は田舎の墓を打ち捨てて都会に新しい墓を建てだした
こちらの寺とつながらないから霊園墓地(れいえんぼち)などが売れ出した
それは今でも続いている
墓参りはしたいが田舎に帰るのは嫌な人もいる
自分の代の墓が欲しいという人もいる
田舎から都市への人口の移動に伴ってのものである
新たな都市住民(移民)としての証(あかし)を求めているようでもある
墓のあるところが故郷だというのも分かる
しかしながら、これからの家の寿命は墓石の寿命に比べて短すぎる
しかも、成功の証にしても立派すぎる

京都市が中央斎場の火葬件数の予想を立てている
市民のほぼ100%が火葬だから、市民の死者の数だと思えばいい
平成43年から47年の5年間ぐらいがピークになる
1日の火葬件数は(最大)138件になる、としている
中央斎場の1日の処理能力は120件(24基ある)程度らしい
やがて減少していくことが見えているので増設はしないということだ
平たく言うと、団塊の世代が85歳前後となる時期が死者のピークということだ
この間毎日18件分、1年で約6500件が生焼けになる(?)という計算だ

団塊の世代は最後の最後まで生きる競争だ、それどころか死ぬタイミングも・・
"阪神淡路"の時に経験したことであるが、焼き場を求めて役場と遺族がさまようこともあり得るわけである
立派な墓を用意して準備したからとて優先してくれるわけではない
だが、他人の墓に居候は出来ないのも事実だ
もう一つ京都市中央斎場が困ってることがあるという噂だ
京都(近畿圏)は部分収骨である
残りは火葬場で処理してくれる
灰の大部分を土に帰えすのであるが、果たして生焼け(?)ではうまく処理出来るかだ
当事者になればジョークでなくなる可能性はある
やはり、遺骨(焼却灰)は土に返すことが本当だと思う
その処理槽を丁寧に「聖土槽」と言ったりする
それがそのころには満杯になっている?
気にせず東山の樹林の土にしてもらっていい、と市民は思った
それが樹木葬に関心を持った小生の動機でもある
と言えば、くそ生意気かな

この項まだ続く
鯵庵(7.12)


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by ajiankyoto | 2017-07-12 06:46 | 後生 | Comments(0)

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往古、京都に都が出来たころ庶民の多くは自然葬(風葬)であった
京都に火葬場が運営されたのは明治になってからで東西両本願寺の運営であった
それが市営の火葬場の前身である
現代は都市では人の屍(しかばね)は焼却しなければならない
従って、焼却してからの措置を埋葬(まいそう)と言う、埋葬は墓地でなくてはならない
今の自然葬(しぜんそう)と言えば散骨(さんこつ)のことを言うのが多い
墓地以外のところへの埋葬(散骨)することも、秩序的・衛生的であれば宗教的儀式として許される
ただし、遺骨を細かく砕くなどの配慮が必要である
何よりも、散骨には明確な動機がなければ後ろめたいことになる
そんなことから、自然葬としては散骨より樹木葬(じゅもくそう)が増えそうだ
お寺が墓地として許可を得る、墓石の代わりに樹木をシンボルとする、土中に埋葬するのだから、そのまま現代の法体系に合う方法でもある

小生の長男は東山花山で灰になり、そのふもと、いつもたむろしていた円山公園に隣する東大谷で、親鸞の廟の土の一部になった
世に何もなさぬままの命を石碑に名を刻むまでのことはない
が、その代わり毎日、全国から墓参りに来た人が息子の分も祈ってくれる
長男のいない辛さは齢とともに深まってくるが、哀しむのは我々夫婦だけのことだ
立派な御廟の樹林の土の一部であればむしろ永遠だと思える
小生らには樹木葬も今始まった話ではない

いかな京都でも観光寺院としてやっていける寺院は少ない
土地を売ったり、幼稚園を経営したり、墓地や駐車場の経営をしている
新たに納骨堂を建てて墓地のマンションと言うのもあるが、
インターネットで墓参りが出来るなんてついつい世間と同じで無機化しすぎてしまう
それほどの土地も持たない寺院も樹木葬なら墓地の経営は出来る
樹木葬と言うのは合同墓地だから、庭の一角を整備すれば出来る
お寺の庭を墓地として樹木葬を進めていこうというのは有効な戦略だと思う
これからは大きな霊園を作って、これ以上石屋ばかりに儲けさせることはない
その気になればお寺そのものが経営出来る手法なのだ

本来は経営の問題と捕らまえるものではない
しかし、各宗派の本山は京都に集中している
拝観謝絶ながらある寺院では既にペットの霊園を営んだりしている
本山であってもそれぞれの塔頭寺院や寺内寺は独自の宗教経営をしていかなければならない
合同墓地や樹木葬と言うことになれば新しい檀家(固定客のこと)を持つことと同じである
しかも、拝観謝絶(拝観すべきものもない?)の寺院で(合同)法要に参加できるなら、京都観光に優越感を感じることも出来る
それなら息子も娘も孫も来てくれるかもしれないと思えば自分の墓作りに希望が出る
なんたって京都(みやこ)ブランドは有利でもある
京都ブランドが現代の都市移民である世代の役に立つかもしれない言う訳である
写真はシオカラトンボ


(場合によっては続く)
鯵庵(29.7.10再掲)




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by ajiankyoto | 2017-07-10 18:32 | 後生 | Comments(0)

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墓守の仕事に興味を持ったのは、第3の仕事を求めての話であった
実はハローワークを通じて初めての面接だった、樹木葬の企画会社だった
面接の後すぐに丁寧に断られた、1年も前の話である
詮無いながらもそういうことにも勉強させていただいた
埋葬(納骨)の形は様々であるが、ここの遺骨はお寺の庭で手厚く祀られる
大きな石の墓標はないが、寺の中である、本物感?はある

一番いいことに、墓の将来(死後の姿)を容易に想像することが出来る
だから、自分用に生前に購入する人が増えている
墓参りもしてもらえない墓が、全国に何十万基いや何百万基とある
今でこれなら、我らの世代の次の世代になれば先祖代々の墓はほぼ無縁仏状態になるかも
ならば、負担にならない墓でないと子孫に恨まれるということになる

本山の塔頭寺院だから、年に何回かは厳かに法要も営んでくれるし、友の会もある
そうでなくとも新しい住人が増えてくることは事実だ
しかも、観光客では入れない・・ブランド志向にも対応できるわけである
それはさておき、もし採用されておれば私の仕事は何だったのかと言うと・・
お客の案内をする運転手と墓掃除である
古風に言うと墓守(はかもり)だった
小生の自分ことは既に心に決めている
だから、自分の墓の守をしようと言うのではない
人の墓を守するというそのことに憧れて応募したのに・・
・・である

採用されることはなかったけど、いい企画だと思っている
京都の寺院型の樹木葬は都市移民の我々の世代にとっていい落ち着きどころになる
どのような状態であっても、骨は自然のバクテリアのおかげで数十年で土と水となる
樹木の栄養となってもいいとさえ思えば、死後落ち着ける環境である
樹木の栄養になってもいいとさえ思えば、死ぬまで落ち着けることもある
小生も落ち着いて営業と墓守をしていれば、いい罪滅ぼしになったのにと、今でも残念に思っている

(この項続く)
鯵庵(29.7.8再携)

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by ajiankyoto | 2017-07-08 20:08 | 後生 | Comments(0)

49日の迷い

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あの世などあり得ないと言うことは簡単である
その通りかもしれないが、それでは皆、救われない
あの世もあってほしいと思う人も多いだろう
あの世を見て来た人が少ないのだから仕方がないが・・
日常そんなことばかり考えているわけにはいかない

今、生きているのを今生という
死後生まれ変わるのを後生という
人が死んで次の生を受けるまでの49日間を中陰という
その間、ことである
安心してはいけない・・生前の善悪はまだ定まっていない
善悪のまだ定まってない者は7日ごとに転生し、7度の49日を経て必ず他所に生まれる説かれてる
悪趣に行く者も、仏の導きにより善所に生まれることを念じて法事を務めるのである
古くから一般庶民にも広がった死後感である

ひょっとすればその間が地獄で閻魔大王に生前の罪を裁かれている時期かもしれない
地獄とは、死者の国であり、六道輪廻(ろくどうりんね)の国でもある
しかし、やがて、ともかくも地獄の「おつとめ」は終わる
人を裁くという閻魔大王は日に三度も灼熱の溶銅を飲んで悶絶するという
地獄で最も苦しんでいるのが実は閻魔大王である
閻魔の裁きは人の悪業の消滅を助けるものである
だからこそ、閻魔は裁きを終えると姿を変えて地蔵菩薩として人々を慰める・・
という

悪行をなした人がそのまま極楽へ行けるとすればそれはやはり不都合だろう
それでも、いずれ仏になれるのならそれは救いになる
悪行は正しく裁くものがあって初めて悪業となる
善をなしてきたとばかり思っていると意外なところで閻魔に暴かれるかもしれない
そういう人の方が多いからこその閻魔様である
だから、仏の導きにより善所に生まれることを念じて法事を務めるのである
してやれることはそれしかない
鯵庵(6.3)

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by ajiankyoto | 2017-06-03 09:00 | 後生 | Comments(1)

このブログにふさわしくない点もありますが、
この世とあの世のことです
仏教用語では此岸(しがん)・彼岸(ひがん)と言うのでしょうか
この世のことも説明されないまま、あの世のこと言われても困りますが・・、
この世からあの世は私らには見えてません
この世があるようにあの世があるのではないということは私にもわかります
だが、あの世からこの世がどう見えているかということは分らない

もし、あの世からはこの世があって見たければ見えますよと言われたら、
あの世の私はその後の残した妻のことは別にしても、子や孫の姿は見たいと思います
出来れば家が残っていてほしいです
それは私が本当に凡人だからです
しかし、姿は見えても心は見えません
凡人にはこの世で見えなかったものが見えるはずがありません

仮にですが、あの世からこの世は見えていると教えられたら
私だけでなくこの世の人の生き方は大きく変わっていたと思います
だが先祖が見ているわけでもなし、恨みあるものが見ているわけでもない
しかも、見ているとしても何のシグナルも送って来ないなら同じことです
と、自分で自分にうそぶいてきました
自分が行き詰ってるのは天罰ではなくまさに自分がまねいたことなんです

仮に本当に死んだ父親の今の言葉を本当に聞けたら、

間違いなくその霊媒師には畏怖の念でのめり込みます
本当の父ならきっと生きてる時と違うことを言うと思います

だから先祖の霊だって何もしないなら恐れることはありません
今までどおり生地(ハギレ)のまま生きていけばいいのです
実はあの世から私を見ているのは先祖でもな怨念でもなく恨みでもなく仏の目です
それは自分の目かもしれません
あの世のことは知りません

この世は今もこれからも狂宴つづきです・・今はだから良くも悪くも救われているのです
鯵庵(10.30)


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by ajiankyoto | 2016-10-30 17:43 | 後生 | Comments(0)