錦市場は商店街

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鯵庵の京都事情、実は地元商店街もテーマだ
商店街の行く末を占うことは都市についての考えるチャンスでもある
小生、大阪の天神橋筋商店街なら馴染みがある
実は商店街のその中にこそっと風俗系繁華街としての顔があった
そちらの方は随分廃れたようではあるが、天満の天神さんの参道であることは強い
大阪を代表する商店街として残るだろう

京都に目を向ければ七条はもはや見る影もない、人通りがなくなってしまった
西陣の北野はまだそれでもであるが、市電も繁華街も消滅しているわけだから時間の問題だろう
三条は長い、一部活気はあるが、土日に半分ぐらいの商店が休みだした、千本側の肉屋だけが目立つ
大宮通は近隣の生活を支える範囲内で数軒ががんばっている
伏見大手筋は納屋町込みで伏見の中心だからまだいけるだろう
四条大橋から東の四条通は祇園さんの参道であるし、観光京都の目抜き通りでもある
参道土産物商店街に徹すればいい

さて、錦商店街であるが・・・
錦は市場であったはずである
市場という言葉は歴史が古すぎる、生活文明である
川魚店というのはウナギ・コイ・フナ・鮎・エビ・モロコ・シジミなど
その加工品、例えばウナギのかば焼きやエビ豆などの加工品を扱っている
生きたドジョウやフナもナマズも手に入る、季節によるがスッポンも店先で売っているしかも専門店のことである
錦市場には川魚の専門店が3あるいは4店ある
錦市場の店は両側で130ほど、これほどの数がないと川魚を専門として扱うのは難しい

京都の生活文化を見る時、川魚店の存在はいい目安になる
川魚のレパートリーは食生活では結構広い・・
ただ、川魚というのは外国人観光客には遠いところにあることだ
観光客立ち食い用串に刺すにしても、川魚系では工夫が難しい
小さな川魚店が閉店したりしているのは先にあげた商店街での例もある
その上での、錦では外国人観光客の喧騒がある
川魚店は京都の生活市場の顔であったが、国際観光の波はどう襲ってくるのだろうか?
地元の市民食文化をも破壊する力を持った観光客のことである
写真は元旦早朝の錦通
鯵庵(30.1.7)



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by ajiankyoto | 2018-01-07 09:00 | 京都の水 | Comments(2)

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京都市内は盆地の北端、〝どこから見ても山が見えるのは安心感がある″と続く
この安心感はまず狭さなんだろう
関東平野にある東京では山が見えないとも言う
それに比べて京都は狭い盆地であるのは述べたところ・・、多くはそういう意味で語られる
安心感の本当の理由は、それは街割りが碁盤の目のような条坊制の名残りにある
通りが直線に通っているから道の向こうの屋根の上に山が見えるわけである
山の形は東西南北で違うし、今自分がどちらの方角で山にどれだけの距離にいるかということが理解できるわけである
本当は南には山が見えない、市中で山が見えなければ南に向いている訳である
四方本当に山が見えたら値打ちがなかったろう
だから、〇〇通〇〇下ると言われたら山の見えない方に歩いていけばいい
東入ル、西入ルと言うことが成立する

と言いながら、実は碁盤の目の街割りは相当に崩れている
大きな通りでしかそれも感じられなくなって来ている
分かった人が京都に来てなお驚くことは、不思議なほど微妙に崩れていることだ
京都の1200年の歴史はこの碁盤の目(条坊制)の崩れ方にある
平安京の道路は今より数倍も広かった
政権が乱れるたびに実は公道が侵されていった
市街地は左京(東)半分になったし、御所も東へ大きくずれた
その上秀吉は時の市街地を洪水防止のために"お土居”を築き大改造を行った
お土居の中の京都は3分の1の大きさになった
今の京都の街中の通りはそれがベースになっている
平安京の姿はもはや消えてしまって、お土居の外は一面の田園だった
徳川体制になってお土居は壊たれたが、京都には覇権がなく街の発展は終わっていた
それが維新の時まで続いた

明治以降の大膨張は、市電を走らすことが都市計画だった
それが京都の町割りを決めた、それが道幅を決めた
市電が通る道でも平安京の道路の広さに及ばない
細い道が微妙に曲がっていて山が見えなくなっている
山が見えても屋根より低い
そんな街でも京都は盆地
山が見えれば、おおよその天候の予測がつく
夏の夕立もそうであるが、この頃の冬の時雨も山の方を見ていれば当たる
それだけでも知っておれば旅行者の安心にはなるかもしれない
鯵庵(30.1.4②)

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by ajiankyoto | 2018-01-05 08:47 | 京都の水 | Comments(3)

錦小路の屋台

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錦小路(にしきこうじ)というのは四条より一筋北になる
平安時代には具足小路(ぐそくこうじ)と言っていたが、後、錦小路に改められる
具足が訛って"くそ小路"とも言われた、とある
四条より一筋南が綾小路(あやのこうじ)と言っていたのでそれに因んで錦になったという
秀吉の都市計画の時に寺町に歓喜寺(かんきじ)が移され、その鎮守社として天神を祀る社が建てられた
それが錦天満宮である
お寺の方は明治の神仏分離の時に東山五条に移転、天満宮だけが残った
街中の神社であるが、この境内に「錦の水」が湧いている

錦天満宮から西へ続くのが錦市場
錦市場は市場ではなく商店街である
錦市場のホームページによると、錦市場は開業以来400年になるという
大阪夏の陣の年である
江戸幕府が名実もに全国を支配した年である
元和元年(1615)徳川幕府から魚問屋の称号を許される
この地下水と直接的にかかわっている
江戸期から昭和に至るまで京都の中央市場の役割を担ってきた
約390メートル、幅3メートルでほぼ大丸百貨店まで続く
鮮魚・肉・鳥・野菜・漬物・乾物と食材を扱う店が多い
実は、それ以上に多いのが外国人観光客
国内旅行の観光客を大事にしていたら、ここのところ外国人観光客で歩けなくなってきた
今やアジアを代表する観光屋台商店街になってしまった気がする
商店街の人は本当にどう思ってるのだろうか?

ようく見れば毎年少しずつ店舗が入れ替わっている
修学旅行生に優しい京都の町ではあった・・
修学旅行の女子があそこの焼いたイカが美味しそうだったと友達につぶやきながら歩いてた
今は歩き食いの外国人グループが大きな荷物と子供連れで追い上げてきている

京都には行儀という言葉がなくなってきた、伏見稲荷門前と錦市場はそのストレスのメーターである
小遣いに限りある修学旅行生にとっても波が荒い商店街になってしまった
市民も波が荒いのと活気とはずいぶん違うと気付きだした
特に彼の国の人たちは他国の文化を破棄する力を持っている
その内錦小路は"くそ小路"に戻るかもしれない
でも、今のうちに一度は覗いてやってください
鯵庵(29.1.3)


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by ajiankyoto | 2018-01-03 15:00 | 京都の水 | Comments(0)

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明治30年、京都鉄道が二条・嵯峨間で開業した
この後3年後には京都・園部間が開通した
京都鉄道会社は民営鉄道、二条駅舎が本社を兼ねていた
今は梅小路公園にある旧二条駅舎として残っている

時の社長は田中源太郎、亀岡の生まれ
今観光客がトロッコ列車として楽しんでいるのがこの京都鉄道が難工事の上に建設した線路
決してトロッコのための線路ではない
この線が国鉄になったのは明治42年(1907)のことだ
この区間保津峡の新線複線化は開業から100年たった平成元年のことである
100年もの間、京都から丹波への山陰本線として活躍したことを思えば、
当時の行政・経済界と鉄道土木の意気と技術の高さの方に驚く

が、まだ旧の山陰本線を走っているとき、この嵐山渓谷嵯峨第2隧道(トンネル)付近の鉄橋上で大惨事が起こった
大正11年(1922)4月3日午後5時過ぎ園部発京都行き(機関車1両・貨車9両・客車7両の編成)が脱線
多くの死傷者を出した

この列車に乗り合わせた初代社長で羽織袴白足袋をはいて二等車に乗っていた田中源太郎も列車ともども渓谷に転落投げ出された
と当時の新聞にある
保津川の船頭が嵐山から救援に向かったが流れが逆で難航したという話が当時の新聞ものっている
これが嵐渓列車転覆事件の一部である

田中源太郎は旧亀岡藩時代の名家に生まれ・・彼の生家が今亀岡の「楽々荘」になっている
明治の京都の経済界で活躍した実業家である
政治家としても京都府会議員や衆・参の両議院も勤めた
70歳を前に因縁の鉄道事故に遭遇した
その後暫く下流で水死体が発見された
が、袂に石が入れられていたという怪情報がある
これもまた100年近く前の事件である
鯵庵(29.12.29)

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by ajiankyoto | 2017-12-29 16:49 | 京都の水 | Comments(2)

山城の国葛野郡秦氏


秦(はた)氏は開拓技術に優れ桂川の水利土木技術で農業や養蚕、機織、酒造など中国大陸の文明技術を持っていた
松尾社(まつのおしゃ)や伏見の稲荷社(いなり)を氏神とし、広隆寺(推古11年、603)をも建てた
政治的にも京都派朝廷とのかかわりは極めて密接であり、それが平城京から平安京への遷都という大事業を支えた
秦氏の山城での文化が、平安京の中で磨かれ普及し日本の文化の基(もと)となった
多くの京都の地の人のルーツであるだけでなく、日本人の血のルーツにも深く関わっている
一説によれば当時の日本現住民の2倍もの色んな民族が弥生期の日本列島に渡来したともある
古代史が好きな人にとってはまだ多くの興味深い謎がある

日本の農業は弥生時代に稲作が始まって飛躍的に進展する
生産は自らの消費のためだがやがて蓄積となり貨幣制度が発展するとそれが富の差となる
渡来人の大集団秦氏は桂川に堰を作り流域の田畑に水を配り、村落に定着していった
その時代に大規模耕地整理の技術がすでにあった
そこは渡来人の文化だった
この地に都が出来てもそのままの形がそれから続くことになる
むしろ、それが都の経営を支えていたと思うべきである

支配する権力が多くの富を持てば水利技術もなお活用できる
言い換えればそれから日本全国、土地を得て開墾することが富につながるという稲作農業を本とした国土経営の形が出来た
その後時代がいくら変わろうとも、政権がいくら変わろうと米作高による富(土地の支配)を基本として日本人の意識が生まれてきたのだと思える・・のだ
鯵庵(29.12.27)



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by ajiankyoto | 2017-12-27 01:00 | 京都の水 | Comments(0)

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「がんもどき」は「雁擬き」と書くが、あまりしっくりこない
近畿地方では”ひろうす”と言うとあるが、これも同じである、インパクトがない
何んとしても語源の意味を説明したいようだが、何を聞いてもしっくりこない
嵯峨の釈迦堂近くの有名豆腐屋は観光の客も多い
店前で豆腐を手で食っていた食通も時々見られるが、それならがんもどきの方がいい
「油はいいのを使ってます」とちゃんと広告している
一つ200円(スーパーの倍ぐらい)ほどで買える、京都豆腐の″がんも″ならいい土産になるのと違ぃまっか
京都は粗食文化の町である、歴史的にも公家も武家も商家も庶人もずっと食事は粗末だった
精進料理も懐石料理も粗食文化である、その粗食の味を古い京都の人は知っていた

一方、実は日本全国、豆腐の国であった
そんな中で考え出されたものが、がんもどきでもある
豆腐に・・人参・牛蒡・木耳・かじめ・山芋・百合根・銀杏などが入っている
全て、主要食材である、それを油で揚げる、それをまた煮て食えばまさに一等賞である
粗食と言えば貧しいと思うのは貧しさしか知らない心である

粗食でいいんだと思えば、料理は工夫次第なのだ
そうして発展したのが料理文化なのだ
がんもどきは粗食の中でもぜいたく品であるのかもしれない
京都の人はだから”がんも”と言った方に愛着を感じている

豆腐やがんもどきを買いに嵯峨まで行く人はいない、町内の豆腐屋のが一番旨い
世の中”もどき”ばかりのこの世の中で裏切らない”もどき”が”がんもどき”である
がんもどきの”もどき”は謙遜語の”もどき”である、これがもどきの擬きたるゆえんである
と言うのが小生の論である
これとは反対に、選挙が終わっても世の中の"もどき"はまだ続く
鯵庵(10.22)


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by ajiankyoto | 2017-10-22 09:58 | 京都の水 | Comments(0)

敗者の歴史


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昔、ある偉い人(官僚)の京都案内をしたことがある
観光地案内に加えて歴史の話をしたら・・
京都の歴史は中学校で習ったからいいと言われた・・
大学の受験勉強をちゃんとした人はさすがに京都の歴史くらいは今でもそらんじてると・・
観光と歴史は別のものだというガイドは要らなかったのだ
何故か悔しかった、けど・・あれからほぼ30年、やっぱり京都は彼の言うような京都になってきている

学校で習った歴史は、ほとんどが政治史、権力の推移をなぞってます
そういうことですので勝者の歴史、結果だけの世界
敗けたほうの歴史というものは埋没している
勝者の歴史はヒストリー、一方敗者の歴史はストーリー、物語という
hiがあるかないかと誰かが言っていた、これ受け売り

ただ、勝者の歴史は文字で残された
敗者は文字で残すことを許されなかった
語り継ぐことによってのみ許された、本来のそれが物語である
と小生は思っている

ただの物語であってもそこには表面の歴史に負けない理(ことわり)がある
理屈っぽいのも理(り)だけど、あなたに少しでも納得してもらえるのも理(り)
目が曇り耳が濁る世相にこそ、その理(り)というものが大事なのだ
そんなこと、東京の官僚やあの国の人たちに言って何になる?
人力車の兄ちゃんの解説の方が面白いって
そんな理屈っぽいガイド、今はなおさら無用である
鯵庵(9.27)

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by ajiankyoto | 2017-09-27 13:55 | 京都の水 | Comments(2)

豆腐と油揚げ

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豆腐は日本に伝わって後、室町時代の後半に広まったものと思われる
江戸時代に入って凍り豆腐(高野豆腐)なども現れる
江戸時代豆腐屋は職人分類では豆腐師と呼ばれた
作り置きに向かないので、種々職人の中でも朝が早いのがこの仕事である
それだけでなく庶民の日常に欠かせない栄養源でもある
江戸では豆腐は統制価格であったともある

もちろん現代も日本中で欠かせない食材であるが、遠くまで食いに行くほどのものではない
日本全国美味しい豆腐が存在する
町内の豆腐屋さんの応援をする方が文化的だ
京の町でも豆腐屋が町に売りに出るのももちろん残っている
種々の豆腐料理が普及した、もちろんおからも油揚げも豆腐である
小生はは少し肉厚の油揚げを炙ったものが大好物である
がんもどきのことは以前にも書いた

湯葉やおからの料理も京・大坂で栄えた
豆腐類は精進料理には不可欠なものである
寺院だけでなく公家や武士も必要な栄養を確保するものであったが、やがて庶民にまで広がって行ったのが懐石料理であるといわれる
昔から京都の寺院の中には参拝者を宿坊に泊める、この時寺院料理が提供される
寺院と料理屋(仕出し屋)との結びつきは歴史が古く、そんな謂れが豆腐料理店となった
それがまた観光と結びついたのが現代の現状である
紅葉のシーズンに向けて湯豆腐屋が手ぐすねを引いている
湯豆腐は茶店の始まりでもあった

今は、家で食うのが一番である
余談ながら、京阪地区の豆腐屋は〝とーふー″のラッパは使わなかった、鐘である
が、その区別も滅びつつあるように思う
鯵庵(29.9.23改)


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by ajiankyoto | 2017-09-23 13:55 | 京都の水 | Comments(0)

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地元新聞によると淀城址公園の地元(淀観光協会)が、外来種アカミミガメの駆除に乗り出したようだ
その心はというと、かって堀にあったハスの花を復活したいらしい
アカミミガメの食害が原因の一つだ
淀城は水城である
巨椋池の出口にあたりここから淀川となって大阪に下る
大阪へ下るその要の位置に当たる
秀吉の時代、巨椋池は伏見城の巨大な堀であり、その堀端に淀城が存在した

巨椋池には数十種の名のあるハスが咲いていたと言われ、その中でも「淀姫」と名づけられたハスがある
そのハスを淀城址公園に復活させたいという・・
巨椋池がほぼ干拓された姿しか知らない我々には、
淀城と淀城下が水面に浮かぶようにあったなどとは信じられないはずだ
それが、歴史というものの楽しみ方の一つである

アカミミガメは特定外来種である
繁殖力が強く、それゆえに影響が甚大である
以前、「寂しき淀城は今月また選挙」という題で不倫代議士が辞めた後のことを書いた
どこからか来た人が地元の期待を背負って代議士となる
しかもその妻もはるかなる東北の選挙区の代議士をしている
その中でたまに地元選挙区に帰ってくるのは不倫のためだという
何もせずに辞めてしまった
アカミミガメには悪いと思いつつ、このことをアカミミガメに例えたつもりだった

かっての水の都、淀・納所の街の水路は河川改修で水は動かないし吐けるところがない
日本中のハスが今、激減している中で、淀にハスの花の復活は嬉しいことだけど・・
ハスがアカミミガメを食うことはないのだから勝負はアカミミガメの方にある
だからまたぞろハスの下にアカミミガメがまた繁殖するのでは困る
代議士さんのことではないが、また同じようにはびこる
現に水の中は既に特定外来種ばかりになっている
鯵庵(6.7)

※6月11日の淀城に応援に行くつもりだ


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by ajiankyoto | 2017-06-07 21:33 | 京都の水 | Comments(3)

湖岸の観覧車


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10数年前まで琵琶湖大橋の西側に巨大な観覧車が回ってたことを覚えている人も多いと思う
びわ湖タワーという遊園地の、「イーゴス108」という名前だった
108というのは高さのことで、出来上がった時は世界一の高さだったようだ
高さは変わっていないが営業運転を止めてからは久しい
平成25年に解体工事が始まって、今はベトナムの遊園地で動いているようだ
今は115メートルある?少し台を上げたようだ

日本遺産というものがあるのを知っているだろうか
世界遺産の日本版みたいなものである
文化庁が定めている
平成27年の4月に「琵琶湖とその水辺環境ー祈りと暮らしの水遺産ー」が認定された
観覧車が無くなってからしばらくしたタイミングで認定された

琵琶湖岸堅田の地は古くから琵琶湖の要の地である
私は堅田の地形が好きだ、内湖のある風景こそが遺産に相当すると思っているが
その内湖も住宅に挟まれてかろうじて存在している
住宅のためなら何でも出来る、という行政姿勢の結果だと言える
そんなことだからか??
堅田の浮御堂も堅田の港の木造灯台も
「琵琶湖とその水辺環境ー祈りと暮らしの水遺産ー」の構成に含まれていない

そのことは残念なことである?
残念なのは滋賀県か大津市かはたまた堅田で暮らす人か?観光客か?それは知らない
琵琶湖と一緒に栄え、琵琶湖の水と一緒に暮らしてきた人の歴史が消えてしまったのは事実である
琵琶湖漁業が盛んな堅田の港も港は立派だけど廃てられた漁船だらけである
山やお寺ばかりが景色ではない
ならば、あの観覧車が残っておれば・・・
ひょっとしたら堅田湖岸が滋賀県の日本遺産に含まれていたかもしれないと思ったりする
今回は少し古い写真を使いました
鯵庵(5.11)


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by ajiankyoto | 2017-05-11 17:52 | 京都の水 | Comments(2)