カテゴリ:都市( 39 )

b0355451_20244230.jpg
今は妙法院や智積院や京都国立博物館などもあるが
大和大路七条から東・北のこの一帯の地は秀吉(豊国大明神)や豊臣家の菩提寺であり聖地であった
豊臣家としては秀吉の発願になる大仏を完成させたかった訳であるが、豊臣家滅んでも大仏と鐘が残ることになった
が、巨大な銅の大仏は地震で倒壊
この大仏が徳川体制を支えることになる
豊臣家の銅は全て徳川の銅になった
貨幣経済は金・銀・銅の経済であるが、今日流通しているコインと同じである
日常は銅銭で暮らしている
銅銭は中国から輸入した貨幣では不足する
これを寛永通宝という徳川貨幣にしたわけである
家光の時代だという

250年間江戸時代と言われる期間を庶民の経済を支えた
権力の証になんぼ大仏作っても役に立たなかったけど一分銭(いちもんせん)にしたら250年もったということになる
それ以上に豊臣の蓄えた金と銀はそっくり徳川体制に引き継がれていくことになる
それが革命であり、それが政治だと今では分かる
徳川政権は豊国大明神の神号をはく奪した後、天台宗の妙法院などに土地を与え聖地の分断を図ってきた
前政権の聖地は破壊しなければならない
それが、この地の宿命であり正面通の不幸の始まりである
それでも大仏は何度か再建を試みられ、天保時代の大仏も昭和48年(1973)火災で焼失するまであった
だから、今でも京都の人は大仏と言う
鯵庵(30.1.16)



[PR]
by ajiankyoto | 2018-01-16 12:00 | 都市 | Comments(0)

b0355451_20045939.jpg
農耕技術だけでなく養蚕・機織りでも同じである
確かに今は機械化によって生産性は上がってはいるが・・
文化としては渡来人たちによって開墾され、教わった技術そのままの形だと気付く
水を張った田に苗を筋のように植えてのち水を切らさない・・・田植え一つ、平安京が出来た当時のままなんです
ご神田のお田植え祭の通り、変ったのは機械、例えば化学肥料など
品種の改良など関係技術は進歩したが、稲作の技術と精神文化は古代のままです
稲作に頼る文化と米を主食とする文化は日本の全ての文化の土台になっているのだ
それは、日本人の持つ宗教感の本(もと)にもなっている筈である
それからの日本人というのは渡来人と完全に同化していったからである

だからと言って、いきなり水利というのはありえない
農作だけのことを考えて欲しいだけの水を欲しいときに欲しいだけ得ることが出来ればそれに越したことはないが、自然を相手にそんなことが叶うはずがない
天候と川の水は元々制御の外のこと
そこに技術と言うものが必要
技術的に言えば不必要な洪水は出来るだけ影響少なく速やかに下って欲しい
稲作文化が氾濫の無いところに育ったことはない
大きく言えば氾濫の無いところに文明が育ったことがない
稲作にしろ治水しろその技術は都、言い換えれば都市を構築する技術だったのだと思う
京都の大土木工事は、秦氏の最初の葛野大堰(かどのおおい)から始まり、桓武天皇による都城建設を大舞台とし、豊臣政権の京都大改造につながっていく
利水と治水の歴史でもある
土木と言うのは都市になるための技術である
このあたりは大堰川(おおいがわ)という
鯵庵(30.1.14)



[PR]
by ajiankyoto | 2018-01-14 08:00 | 都市 | Comments(0)

豊国廟と七条通

b0355451_17391286.jpg
七条通の東の端(はて)、てっぺんといった方がいいのが豊国廟である
てっぺんとは阿弥陀が峰(標高196メートル)に祀られたのが正一位豊国大明神(とよくにだいみょうじん)
慶長3年(1598)に死んだ秀吉の墓所だ、秀吉死後豊臣政権は秀吉を神として祀った
阿弥陀が峰中腹に豊国社を立て、吉田兼見(よしだかねみ/吉田神道の宗家)が取り仕切ったとされる
が、豊臣家を滅ぼした家康は、豊国大明神の神号を剥奪、豊国神社は廃絶
豊臣家にまつわるものは江戸期を通じてほぼ打ち捨てられていた

今の豊国廟は明治になって、明治天皇の布告によって再興されたもの
また、明治30年には阿弥陀が峰頂上に五輪塔を建てた
この時、秀吉の遺骸(素焼きの壷に)が発見されたという
300年の時期を経てまた阿弥陀が峰の頂上から京都の街を見下ろこととなった
京都の東を守る青龍は秀吉であることになる

根来寺智積院から新日吉神宮(いまひえじんぐう)と脇を通り抜けながら参道が続く
が、今は京都女子大学の女坂(おんなざか)と言うほうが分かり易くなっている
女坂をまだ登ると京女を超えて豊国廟(とよくにびょう)
女学生もいなくなるが上る人もほとんどいない
赤いバスだけがたむろしている
ここからまだ山上までの石段が秀吉のご廟の本当の参道
が、そこまで行くと神主さんが声をかけてくれるかも
鯵庵(29.1.12)



[PR]
by ajiankyoto | 2018-01-12 15:41 | 都市 | Comments(0)

リニアと新幹線

b0355451_21243772.jpg
近頃の京都本には自虐的なネタが多い
亀岡は京都か?宇治は京都か?とか宇治市と滋賀県大津市とではどちらが都会かと言うようなことがテーマになったりする
リニア新幹線の計画があった
名古屋~大阪のルートは奈良の方を通るようだ
京都としては何とか京都市を通過させたいという運動をまだしている
京都は既に日本列島の軸が通っている
今更、トンネルばかりのリニアが街中に入ってこられても困る
何度も言うが京都は都市である、観光地ではない、観光で一番になる必要はない
奈良より京都だと主張する根拠が分からない
それどころかここはしっかり先輩古都を立てるべきところだ

北陸新幹線のルートも決まった
京都からは南周りで大阪へ行くという
新幹線などどこを通っても同じであるが、駅が出来るということなら話は別である
何んと京都から京田辺を超えて大阪府域の松井山手へぬけてから大阪へ行くという
奈良線から学研都市線ルートへワープする
京都府は学研都市の開発に失敗したともいえる
JRも学研都市線の伸びが悩みになっている
街を作るのはJRではないが、鉄道以外にインパクトのある手段がない
・・のでは仕方がない
その代わりと言う訳でもないが、リニアのことはもう言わないというのが京都の生き方かな
鯵庵(29.12.25)



[PR]
by ajiankyoto | 2017-12-25 09:38 | 都市 | Comments(0)

b0355451_17513541.jpg
鴨川正面橋界隈に続く

このあたり平安時代には河原院のあったところである
河原院と言うと源融(みなもととおる)の屋敷だとされている
源融は嵯峨天皇の皇子であり、源姓を名乗った、
嵯峨源氏融流、摂津(大坂)の大豪族渡辺氏の祖である
全国の渡辺さんのルーツでもある
源氏物語の光源氏のモデルであるという方が分かりやすいかもしれない

今度は、正面通(極めて細い)を高瀬川を渡って細い道をさらに西に進むと、河原町通りに出る
そこが河原町正面で、正面通は早くも一旦はここで行き詰る
それが渉成園(しょうせいえん・枳殻邸(きこくてい)とも言う)、東本願寺の庭園である
だからと言って、入り口があるのではない
渉成園の裏塀(うらべい)にあたる
河原町通りを通っていて、ここはなんだとたずねる人が多い

この渉成園と、いわゆる東本願寺が(元は本願寺と言った、今は真宗本廟が正式な名称)
・・関ヶ原の戦いの後慶長7年(1602)に割り込む形で徳川体制になって建てられた
家康は京都の都市改造などには何も興味なかった
東本願寺に広大な寺所を与えることによって、正面通と本願寺勢力を分断した
政治的・戦略的な価値を京都という都市に感じなかったということだろう
鯵庵(29.12.17)

(鯵庵自註)
高瀬川に沿って少し北へ上がると簾の下がった京都らしい少し懐かしいそうな建物がぽつぽつと建っている
このあたりがかっての五条楽園の中心になる
京都の街のチョットした事情を思ったまま書こうとこのブログを始めているが
その記事の中でなんとなくアクセスが継続しているのが「五条楽園は休業中?」という記事である
五条楽園や風俗という言葉に興味を持つ人がいるとしたら実は予想外のことである
小生にとっては五条楽園もビッグネームの一つである





[PR]
by ajiankyoto | 2017-12-17 08:39 | 都市 | Comments(0)

大仏の正面通

b0355451_17143836.jpg
正面通は東西の通、七条通(しちじょうとおり)の二筋ほど北へ
河原町正面(かわらまちしょうめん)というバス停がある(南行のバス停は六条通より北へ、随分離れているので注意)
例によって京都の街の河原町通と正面通の交わったところです
正面通の正面とは何の正面か?と言うと、豊臣時代に方広寺(方広寺は現存する)にあった大仏の正面と言う意味である
と言ったが、今は豊国(とよくに・ほうこくとも)神社の鳥居が立っている
正面通は豊国神社の前からスタートする
鳥居の前は参道然として広い通りである
正面橋は鴨川にかかる橋としては五条通(国道1号線)の南に架かる

この大仏と言うのが現存していれば話が早いわけであるが、
残念ながら豊臣家に似て数奇な運命を辿る
文禄4年(1593)三十三間堂の北、大和大路に西を向いて大仏殿が完成
大仏は木造漆喰(しっくい)ながら高さ19m、奈良の大仏より大きかったが、
不幸にも完成の翌年の慶長伏見大地震により倒壊した
大仏再興できぬ間に秀吉が没した
関ヶ原の役(1600)により徳川の覇権が成立したのちも
慶長7年(1602)秀頼と豊臣家は銅製の大仏に着手するが、流し込む銅で大仏も大仏殿も焼失
慶長17年(1608)再度再建に着手
ほぼ完成まじかで、徳川家の不興を買う
ご存知の方広寺鐘銘事件(慶長16年・1614)である
大大名豊臣家の財を傾け終わった時期を待って、豊臣家の始末にかかったわけである
約400年前のことである
鯵庵(29.12.15)



[PR]
by ajiankyoto | 2017-12-15 17:43 | 都市 | Comments(0)

b0355451_10062911.jpg
秀吉の街づくりで築いたお土居の七口の一つが五条口
伏見街道につながる
伏見街道は京と新しい町伏見をつなぐ街道として整備された
今の五条口、五条通を起点として南へ伸びる道である
本町1丁目から東福寺の前を通って墨染まで道なり、京阪電車が疎水をはさんで並行して進む
京阪電車は粟田口、五条口から伏見の町・大坂天満橋までいわゆる京都・大坂街道に沿って走る電車
五条口から大坂までの最短距離(*京橋駅まで44.7キロメートル)を走っていることになる

この伏見街道、東山区内では〝本町通"という
北行き一方通行の道ながらビッグな名前をもらっている
当時洛外ながら伏見街道であったからか?
五条通の当たる北端が本町1丁目、七条の交差点が6丁目、本町館がある塩小路通が8丁目、JR線をくぐるのが9丁目、東福寺の正面が18丁目というふうに22丁目まである

途中本町5丁目と6丁目の境を東に行くのが正面通
これまたビッグな名前と思えば、正面は当時大仏のあった方広寺の正面のこと
この道は大仏の前を通る
京都と伏見の二大都市を往来する限り秀吉の威勢を見せ付けられる仕組みか
もちろん京都市内で本町通といえばここだけで、本町の地名もここだけのこと
鯵庵(29.12.13)



[PR]
by ajiankyoto | 2017-12-13 10:14 | 都市 | Comments(0)

鴨川正面橋界隈

b0355451_14523306.jpg
豊国神社の鳥居を背にして西へ進むと鴨川を渡る
この通りを正面通と言う
現に鴨川に正面橋と言う橋が架かっている
桃山時代の秀吉の京都政策は鴨川治水と方広寺の大仏が目玉の役割をしている
正面通は大仏門前から本願寺(いわゆる西本願寺・(註)天正11年(1583)秀吉から寺地を与えられる)の門を結ぶ道であったである
その名残のビッグネームがこのあたりに多い

正面橋を渡って暫く進むと、右手(北側)に石造りのモダンな建物が見えてくる
初代の山内氏がこの地において花札やトランプの製造を始めた(明治22年(1889))
看板によると丸福かるた・NAPOLEONトランプの製造元「山内任天堂」とある
ここが京都の企業、「任天堂(にんてんどう)」の発祥の地であるということだ
戦後㈱丸福に山内(山内博)氏が社長に、後、社名を任天堂に変える

平成14年(2002)から岩田氏が社長に、今は本社は南区上鳥羽鉾立町にある
資本金100億円の大企業である
だが、平成27年(2015)任天堂をご存知の大会社にした岩田社長が病死
暫く社長空席であったが、27年9月に常務取締役の君島氏(65)が昇格、5代目社長になった
ゲームや株にも興味がないが、今後の任天堂の行く先は?
鯵庵(29.12.11)



[PR]
by ajiankyoto | 2017-12-11 14:55 | 都市 | Comments(0)

毘沙門堂のふるさと


山科にある有名寺院毘沙門堂(びしゃもんどう)へ行くとシーズンにはお寺の案内をしてくれる
この毘沙門堂、天台宗の門跡寺院、奈良時代(703)に行基によって・・といわれる
というだけでなく、このお寺の正式寺号は「出雲寺(いずもじ)」ですと教えてくれる
出雲氏の氏寺下出雲寺だと言う
平安時代の前期に天台宗の伝教大師が作った毘沙門天を本尊とするゆえに毘沙門堂ともよばれていた
平安遷都以前からあるお寺である
その後荒廃していたのを徳川家の援助で江戸時代に山科に再建した出雲寺が毘沙門堂門跡である
と、説明される。

鞍馬口というのは鎌倉時代から室町時代に整理された京の街道の出入り口で、
例の豊臣太閤の街づくりの「京の七口」の一つでもある
少しひねって言うと、このあたり正しくは出雲路(いずもじ)という
鞍馬の先は丹波だけれどその先は山陰道の出雲に通じる、というし
このあたり平安京が出来る前の山城盆地の古代豪族出雲(いずも)氏の本拠地でもある
賀茂川のほとりには鴨氏・出雲氏が定住し開墾していた
ここにある怨念の御霊(上御霊・ごりょう)神社も出雲氏の元は氏神であったとするのも定説である

この鞍馬口通が賀茂川を渡る橋が出雲路橋(いずもじばし)という
賀茂川を昔はトントン跳んで渡れた
それからおおむね北に、深泥池(みどろがいけ)の傍(かたわら)を北上して岩倉を経て京都精華大学から二軒茶屋へと通ずるのが鞍馬街道である
今でも鞍馬への道は花脊から丹波の美山から若狭への道でもあるが、実は静原から分かれて大原へ行く別の道でもある

通りの名としてこの鞍馬口(場合によっては関所)が設置されたところに由来する東西の通りのことでもある
京都の地下鉄は烏丸通を通っているが、それはいいんだけど烏丸通と鞍馬口通の交差点に駅を作ったときに「烏丸通鞍馬口」を略して「鞍馬口」と名付けた
〝何とか口″は〝遠いけれどそこへ行ける″という意味でつける
〝京の七口という歴史的符牒″を知らなければつい鞍馬寺観光にはここから行けば便利だろうと思ってしまう
ここで降りたのでは鞍馬へは行けません(直接の交通手段がない旨を)と地下鉄で案内しなければならないことになる
そういう意地の悪さが京都にはある
歴史(正しくは地史)を知らなければ理解できない
難解地名を楽しむのと同じ感覚である
実はそれは人を煙に巻くのではなく歴史に近づく鍵のつもりである
鯵庵(29.11.26)


[PR]
by ajiankyoto | 2017-11-26 06:00 | 都市 | Comments(0)

大宮駅は土木遺産

四条通の地下を走るのが阪急電車、昭和38年に河原町駅まで延伸された
それまで京都の終着駅だったのが今の阪急大宮駅
西院駅から大宮駅までの地下線路は昭和6年に開通
近畿地方最初の地下線路であり、2000年選定の土木遺産(土木学会)として認定されている
大宮駅は四条大宮、四条通と大宮通(実際は後院通)との交差点にある
繁華街としての地位は烏丸駅・河原町駅に譲ったもの、今も京福電鉄嵐山線や京都市内各方面のバスの乗換駅としての性格が強い
京都市の東西南北の地形的に中心に位置する
余談ながら特別な店構えではないが餃子の王将の1号店が駅前にある
b0355451_20105761.jpg
昭和3年に大阪の天六から今の西院まで走らせたのは京阪電鉄系の新京阪電鉄
その後京阪電鉄に吸収され昭和6年に今の大宮駅まで延伸された
開業の時の大宮駅は「京阪京都駅」と言った
昭和18年に京阪電鉄と阪急系が合併、京阪神急行電鉄となるが、
戦後昭和49年に京阪神急行電鉄から京阪電鉄が分離
しかしながら京阪が作った新京阪線は京阪神急行(阪急のこと)に残り、これが今の阪急京都線となっているわけである
大宮までは京阪電鉄、大宮から河原町までの地下線路は阪急電鉄の仕事
鯵庵(29.11.19)

[PR]
by ajiankyoto | 2017-11-19 20:07 | 都市 | Comments(0)