カテゴリ:都市( 26 )

大宮駅は土木遺産

四条通の地下を走るのが阪急電車、昭和38年に河原町駅まで延伸された
それまで京都の終着駅だったのが今の阪急大宮駅
西院駅から大宮駅までの地下線路は昭和6年に開通
近畿地方最初の地下線路であり、2000年選定の土木遺産(土木学会)として認定されている
大宮駅は四条大宮、四条通と大宮通(実際は後院通)との交差点にある
繁華街としての地位は烏丸駅・河原町駅に譲ったもの、今も京福電鉄嵐山線や京都市内各方面のバスの乗換駅としての性格が強い
京都市の東西南北の地形的に中心に位置する
余談ながら特別な店構えではないが餃子の王将の1号店が駅前にある
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昭和3年に大阪の天六から今の西院まで走らせたのは京阪電鉄系の新京阪電鉄
その後京阪電鉄に吸収され昭和6年に今の大宮駅まで延伸された
開業の時の大宮駅は「京阪京都駅」と言った
昭和18年に京阪電鉄と阪急系が合併京阪神急行電鉄となるが、
戦後昭和49年に京阪神急行電鉄から京阪電鉄が分離
しかしながら京阪が作った新京阪線は京阪神急行(阪急のこと)に残り、これが今の阪急京都線となっているわけである
大宮までは京阪電鉄、大宮から河原町までの地下線路は阪急電鉄の仕事
鯵庵(29.11.19)

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by ajiankyoto | 2017-11-19 20:07 | 都市 | Comments(0)

妙心寺/花園界隈

平安京は東西に約4.5キロ、南北に約5.3キロ
平安京の中心朱雀大路は今の千本通りに当たる
概ねJRの山陰線が南北に走っているあたりと思えばいい
平安京は羅城(城壁で囲まれた都)ではないがその街並みは中国の都、洛陽や長安をまねている
右京を長安城と言い左京を洛陽城といった
都の中でも朱雀大路の西の方(右京)は早くから廃れた
ということもあって京の都の代名詞が洛陽に擬され、
京洛・洛中・洛外・上洛などというようになったわけである
今でも〝洛″といえば京都を意味している
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大昔は平安京の西の郊外はむしろ山城文明の地である
平安遷都の前には山背(やましろ)の国の国府のおかれたところでもある
太秦(うずまさ)の名は古代の豪族秦氏の本拠地でもある
聖徳太子の広隆寺(こうりゅうじ)も目と鼻の先である
妙心寺の北は一条通、北の端だった
JR花園駅のあたりが平安京西京極(にしきょうごく)大路、都の西の端だった
この妙心寺あたりが当初の平安京区域の西北の端(コーナー)にあたることが分かる
妙心寺が西の御所と呼ばれた意味が分かる

花園上皇(95代天皇)の院(仙洞御所)を寺に改めたのが臨済宗の妙心寺だからだ
開祖以来禅の修行を重んじる禅風で多くの塔頭(たっちゅう)を抱えているのは誰でも知るところ
本山の中、数十の塔頭寺院で大町内をなして、妙心寺内の道路は通行が自由である
ジョギングする人、自転車で通り抜ける人、車でお参りに来る人
しかし、特にシーズンになると狭い石畳を人の後ろから車が迫ってくる
お寺の中までどこまででもマイカーで行こうとする人は京都には似合わないのだが・・
北門からでも南門からでも西へ都を出れば、隣は太秦(うずまさ)、もう嵯峨(さが)
嵐山も意外と近かったことが分る
まさに花園の地は都の内庭だ
鯵庵(11.4)



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by ajiankyoto | 2017-11-04 08:50 | 都市 | Comments(0)

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国際観光都市などと言われることはほとんどの市民が嫌ってます
それでも国際的にはまだ知名度が低いなどと観光協会や市役所が煽ってます
京都のいいものが全部なくなっていきます
京都に暮らしていることが嫌になる日が増えてきてます

春・秋のシーズンはバスもタクシーも一杯です
渋滞ははなはだ激しいし、そんなところに車自慢のマイカーがどこまででも入ってきます
歩くのも難しいのにそこを時代錯誤の人力車までがうろうろします
こちらは静かに歩いているつもりなのに頭の上であの外国語会話が飛び交ってます
あの国の旅行者のことを時々悪く言いますが、京都では我が国の人も皆、あの国の人のマネをします

そうでなくても皆が修学旅行生のようです
「京都で暮らしていると毎日が旅行みたいでイイですね」
と女学生が言ってくれました
これぞディスカバージャパンですね
もちろんハイと答えました
皆さんは見ることのない路地のサクラもモミジも見ることが出来ます
素直な可愛い人には優しく答えます
"大人の女"になったらもう一度京都に来て下さいね、と
違った京都が見えてきます
出来れば京都でお暮らしなさい、とも・・

あの国の人は神社の裏まででもどこまででも入ってきます
我らは路地で暮らしています
ただ、路地の裏までいつか入ってこられるかもしれません
それが怖い日々です
鯵庵(10.14)


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by ajiankyoto | 2017-10-14 22:17 | 都市 | Comments(0)

消費地が都である


400年前から東京が首都であるに続く

江戸を中心として見た場合でも三都と称されるのは大坂・京都である
時代が変わって政権が江戸へ行っても当時京都の人口は58万人もあった
それは西陣織などの繊維業が興隆を極め、呉服商や両替商などの繁栄が京都を一つの都市として支えるものであった
江戸の武家政権に対抗しうる力は実は京都の工業力とそれに伴う商業力(資本力)にあった
この工業力と資本力がいずれ政権の都に吸収されていくのは消費の力であり、消費地に向かって資本が擦り寄って行くというのが当然であった
元禄時代以降100年後の江戸の繁栄はそれが都であるということをむしろ如実に語っている
幕末の頃、一時薩摩藩が京都で政権を担うという幻想的バブルがあったが、廃藩置県により京都府(京都裁判所)となった頃の京都はおよそ25万にまで半減していた、という
そこから新しい京都が始まったという人が多い
鯵庵(10.9)



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by ajiankyoto | 2017-10-09 07:05 | 都市 | Comments(0)

古都というのは一地方都市であるに続く

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徳川体制は武家の社会である
もう一つの特色は身分社会であったこと
戦国時代のように身分がひっくり返らないことが武家政権の安定の基盤
それがひっくりかえったのが明治維新
だが、ひっくり返した人はまたひっくり返らない仕組みを考えなければならなかった
最後は外国という大敵にひっくり返されてしまった
大都市であればあるほど大きな影響があった
それが首都である
栄えた歴史は滅んだ歴史でもある
ハッキリ言って、首都である東京で起こったことから比べると京都の震度は地方都市らしいことだったと思う
ただ日本全国多くの都市のように、この一地方都市でも多くの家が栄え多くの家が滅んだ
首都から大都市へ、大都市から地方都市へ、都市から田舎へ、震度を落としながら波は伝わっていく
改めて言うが・・400年前から東京がこの国の首都である
鯵庵(10.4)

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by ajiankyoto | 2017-10-04 21:14 | 都市 | Comments(0)

" 古都というのは一地方都市という意味である"に続く
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そういう一地方都市としての京都を忘れてはならない
古都または古都だったということは歴史という年月だけでなく多くのことを包含している
政治・経済だけで見るから間違うのである
文化・文学・美術・芸能・風俗・医学・武術・染色・工芸・繊維・工学そして何よりも都市作りの土木・建築・造園など、様々なことが幾重にも積み重ねられた地層を持っている
都あるところには必ず争いがあり、その地層の中に何代もの人の骨が地層ごとに埋まっている
発掘調査やボーリング調査でも見れない、けどせめて断面的に見る目は必要ではないか
長い歴史とは記憶である
だがしかし、古都もまた今生きている都市でもある
遺産とは生きてるものに残された財産ではある
が、遺産は選択できないもの
どれほどの値打ちがあるのかはこれからもゆっくり勉強してからでないと言えないと思う
鯵庵(10.1)



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by ajiankyoto | 2017-10-01 14:05 | 都市 | Comments(0)

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三条カルチャーで室町芸能史の講座を持つスーパー講師が講座の最初にいつも言う

覇権が京都を去って、もう400年
安土桃山時代は京都の最後の花だった
天下を分けた関ヶ原(1600)は、徳川の覇権を固め江戸を都にした
新しい権威を打ち立てていくには自分の地盤のある関東の方がいい
大坂夏の陣(1615)から20年、参勤交代の制度(1635)は徳川の覇権がゆるぎないことと、
江戸が都ですよと日本全国に教えたことになる
それから300年、庶民は京都が都であるということも都があったということも知らなかった
かって都のあったという意味では、その時京都は奈良と同じく古都となった
古都というのは首都でなくなったという意味である
でも、それが今の京都の原型なのだ
応仁の乱の後の京都が今の京都の原型なのだ
京都は平安絵巻ではないのだ
また、わびさびの都市ではないのだ
戦国時代に日本にただ一つだけの都市機能を有した町だった
結局そのまま哀愁のある一地方都市になったのだ

古都というのは生きてる都市でもあるに続く
鯵庵(9.29)

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by ajiankyoto | 2017-09-29 20:16 | 都市 | Comments(0)

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大津城は水城であった
本丸が水上に浮かぶようにあった
浜大津は今も大津の中心であるが、大津城の跡というのが正しく分かりやすい

関ヶ原の戦いは慶長5年(1600)年9月、この城は東軍についた
その時の城主は京極高次
西軍に囲まれた大津城はろう城した
が、高次は9月14日に降伏開城した
関ヶ原の戦いは9月15日である、勝敗はその日に決まった
西軍の大津城攻撃の大軍は関ヶ原には間に合わなかったことになった
関ヶ原の勝敗が決まって、家康は京極高次に小浜8万石を与えた
もちろん密約があった
ただ(ひょっとしたら)もう1日でも2日でも開城がおくれていれば・・近江一国の大名になっていたかもしれない

京極家は室町時代は数国の守護でもあった
北近江の守護でもあったが、が戦国期は既に浅井家に国を奪われていた
高次の母は浅井長政の姉であった
本能寺の変では明智方にあった
秀吉に許されて秀吉に仕えた
浅井長政の二女初(はつ)を正室に迎えた
もともと高次と初は従妹同士であった

豊臣家は長女茶々(淀)、東軍の家康の長男秀忠の正室は初の妹三女の江(ごう)であった
西軍とも東軍とも血縁や姻戚の間柄だったのだ
浅井三姉妹は浅井家の血と織田家の血を豊臣家と徳川家につないでいる
並んで京極家とも姉妹の間柄である
浅井長政の子や孫たちの戦いだったと見ることも可能だ
その中の京極高次である

京極家は若狭の小浜へ行き、大津城は廃城となった
南近江の領地支配は瀬田唐橋に近い膳所に城が新しく普請されることとなる
そのことにかかわらず琵琶湖大津の戦略的価値はそのまま引き継がれる
大津は京に隣して東海道の最大の宿場町になっていくのである

結局、浅井家の血は大阪(秀頼)と江戸(家光)へ別れ、15年後の大坂の陣の決着につながっていく
京極家は、四国丸亀藩6万石で明治を迎える事となる
関ヶ原の後のことは皆さんの知ってる通りである
鯵庵(9.3)



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by ajiankyoto | 2017-09-03 08:11 | 都市 | Comments(0)

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(続)日本は土木国家である・・から続く

そんなことできるのは軍隊しかない?
だが、日本の自衛隊にそんなことさせることは出来ない
警察も消防もよく働く、一方人命救助が終わったら自衛隊は帰れと言われる
唯一危機管理の能力を持っているのに・・
後に残ったのは陸の孤島である
それからちまちまと災害復旧の調査をして、割り振りを決めて、設計をして見積もりをして、国の査定を受けて、予算措置をして、地元業者をよんで入札して、入札の調査をしてそれで契約する
そんなときの入札すら既定の平和ボケのままである
国も県も市も町も村も自分らの範囲で同じことをしている
でも、平和国家日本は土木で国土を守る土木国家なのである

日本は災害国である、少なくともそれに関しては十分な国力を持っている
自衛隊以外に自衛隊に匹敵する力を持っていて国土を守れるのはゼネコンだけである
長いこと民(みん)の中に国が培ってきたものである
今ゼネコンを働かすべきである
テレビで見れる範囲では地元の重機はいつも活躍しているように見える
しかし、(見る人が見れば)そんな時ですら空を切っている
人命救助に一番もどかしさを感じるときである
いい指揮者がいないからどうしたらいいのか分からない
それどころかテレビ局が行けないところこそ悲惨なのである
全てがそうだ、十分の一の能力も発揮できていない
被害は人命だけではない、作物被害の話にもなる
農協・漁協もこんな時こそ汗をかけ

日本には危機管理は育たないと言われる
少なくとも危機管理は平常心の訓練で出来るものではない
地元の土建屋しか相手にしたことのない地方の市長や町長に指揮を任せていては速やかな復旧は出来ない
いかな大都市でも同じことである
ともかく持ってるものを皆使うことだと皆が言うことだ
国土を守ることは国を守ることと同じなのだ・・
と思うことがあれから数年たった今も九州や各地でも同じことが起きてい
る鯵庵(29.8.9)


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by ajiankyoto | 2017-08-09 08:25 | 都市 | Comments(0)

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雨乞いしてるうちはよかったけどいったん降りだすと死者が出る
畑に一雨欲しいと毎日言うてた当方(うち)のばあーさんがテレビを見ながら愚痴っている
皆、口々に何十年の人生で初めての雨だという
数年前の紀伊半島でも豪雨があった
あの辺り大台ヶ原は屋久島に次いで降雨量が多い、年間8000ミリも降った年があるくらいだ
その雨の多さになれた筈の紀伊半島南半分が孤立するほどの災害があった
一番先は人命救助であるのは当然であるが、それにしてもテレビを見ていてもどかしい思いをした
孤立した山麓の集落を救助することは難しい
空から海から救助に向かうのはいいが、結局は道がない、橋が落ちている
重機だとか大量の人員や資材、物資を送りこめない
救援はそのまま復旧なのだ

地域に入るための国道は2、3本しかない
それも山を越え川沿いに谷を跨ぎ延々と続く
例えば3方向からそれぞれ100台のトラックに人員と医者を乗せ大小の重機を乗せ、100台のダンプトラックと鋼材を積んだ100台のトレーラを従えて・・
国道と言ってもそれも通らない
だからこそ仮設の橋を架け、道を削りながら、場合によっては野営をしながら・・3方向から進むべきである
今回こそは道路や橋を戦場のように進む機動部隊を送るべきであると信じた
が、土砂で埋まった川にテレビカメラを据えて監視するだけである
日本は山国である、しかし、何のことはない、所詮紀伊半島は国土の軸の外であったと思わされた
(この項続く)
(29.8.8改)鯵庵




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by ajiankyoto | 2017-08-08 15:25 | 都市 | Comments(0)