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京都の街中の小さな商店街で魚屋をしている淀屋(仮称)さん夫婦
朝早くから中央市場での買い出しに始る
もちろん三枚にも下ろしてもくれるし刺身もある
ある時から唯一の従業員が辞めて、そのかわり奥さんが店に出ることになった
しぶしぶのところもあったが土地柄奥さんの方が受けがいい
おかみさんぶりで商いも上手い
そのうちお客さんの希望を聞いて魚を煮たり焼いたり、ウナギもアユも仕入れてきたり
ちょっとしたことは仕出し屋みたいに適宜やってくれることようになった
正月前など大忙し、場所柄もあるがそんなこんなで他の店をよそ目に今も繁盛している

魚屋は新鮮さが命、そればかりで商売していたおやっさんの時代は利幅が薄い
おかみさんが加わってから、売り物が増えて客が増えてロスが少なくなった
それだけで商売が上手く行くとは限らないが、おやっさんはますますいい魚を選んで買ってこれるようになった
刺し身の活きがいい、直前にさばいて、しかも欲しい時にバイクで配達してくれる
あそこの魚はいいという評価を落とさなくて続けられたわけである
おやっさんは、活きのいい品物を提供したいという論理、おかみさんはみんなに喜んでもらえるものを提供したいという論理

あくまでも商売の上ではあるが、おやっさんの論理は良いものと悪いものを区別したい男性原理
一方おかみさんは何でも受け入れることのできる女性原理、だが、その特徴はおやっさんの論理を抱擁しているところにある
許容力の論理と言ってもいいのではないか
男性だから男性原理、女性だから女性原理という訳ではない
世の中はまま反対のこともある。

たとえば、おやっさんがそのまま続けていたら・・
イイものはいいダメなものはダメという論理を持ちこたえられなくなった時
結局はあそこの魚は鮮度が落ちたなあ・・と言われるようになったかもしれない
鮮度と美味しさは比例するとも限らない、料理人並みの理屈を言うのは魚屋の堕落だ
女性原理のまねをしても上手く行くということでもない
ならば、ということで・・そこはおかみさんの仕事
だからと言っておかみさんが仕切っているのでもない
淀屋はおやっさんとおかみさんがいて成り立つ訳である

そういえばいかにも無難な結論・・?
実は包容力だけでなく知恵や力のない論理は女性原理でもないのである
今回はそれを言いたかった
鯵庵(4.5)

# by ajiankyoto | 2017-04-06 08:00 | 男と女 | Comments(0)

母親みたいな男

〝アカンもんはアカン″のやけど、だからと言ってほとんどの人は、家で言えないようなことを会社でも社会でも言えるはずがないのではないだろうか
会社の延長が家ではなく家の延長が会社になっているのではないか
家でも会社でも戦わない論理は元来平和主義の女性原理から来たものである
日本の女性は昔からそんなこと折込済みだったのだ
男どもは甘えて威張ってればいいのに、急に理解のあるようなことを言う
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そんな男の相手をすることは日本女性にとって物足らないことなのに、気の利いた女性は決して言わない
家でもう一人の母親みたいな男の背中ばかり見せられた子供たちこそ不幸であり、かくして男性原理は廃れ、男も女も女性原理的平和主義と平等主義で生きていくことになる
それが不幸だと言っているのではない
ただ、それでは新しいいい女性が育たないのだ

写真はだるま寺(京都)にて
鯵庵(4.4)



# by ajiankyoto | 2017-04-04 07:29 | 男と女 | Comments(0)

桃の節句は月遅れ

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家内の里の90ん才のばあさんが草餅(くさもち)を送ってきてくれた
今年は3歳の曾孫のためにである
だが、残念ながらここにはいない
幼稚園の入園祝の交々と一緒にこちらから宅急便で送った
3月3日の上巳の節句を里ではを月遅れで行う
清明(せいめい)の頃である・・桃が咲くのがちょうどそのころで、ヨモギもツクシも摘むのに丁度いい
しかも、主役の子供たちは春休みの最中である
4月3日の節句は田舎では「草餅の節句」とも言われるぐらい草餅がつきものである

草餅は昔はハハコグサだったとあるが、今はほぼヨモギである
ヨモギは薬草の山伊吹山で有名である
漢方の生薬であるし、もぐさの材料でもあるということで、色だけでなく、邪気を払うために餅にも入れた
草餅もいろんな食べ方がある
子供にあんころ餅、大人は焼いてお湯につけてきな粉をまぶして食うというのもあった
里のばあさんはまだ餡を炊ける

街中にある丹波屋でもいつでも草餅も売っている、結構うまい
京都桂橋のたもとの有名和菓子屋のよもぎあんころは、やわらかいよもぎ餅を粒餡で包んでいる
こうすると高級和菓子になるから不思議だ
高級感が一杯になると餅をついたことのない世代がいつも行列している
それはそれでいい・・

自然のものと一緒に暮らすのは鄙(ひな)の暮らしである
ヨモギを摘んで、臼で餅を搗くこと自体が邪気を払うのである
都市では何でも得られる
食生活が豊かになってきたのはいいとしても、食い物に祈りを託すことは出来なくなってきた
子供に節句のよもぎ餅を食わしてやろうという気持ちは我々の世代が壊してしまったのかもしれない
子供にも大人にも一番おいしいのは愛と祈りをつき込んだ餅に限る・・筈だ
鯵庵(4.2)

# by ajiankyoto | 2017-04-02 08:59 | | Comments(0)



「死ぬまで商売はやめられない」に続く

商店街のカレー屋のことを書いた
今時、チエーン店でないカレー屋そのものが珍しくなった
何んとか応援したい気はあるが、あの店構えではそう長く商売を続けられるとは思わない
改装したら客は来なくなることが目に見えている
メディア情報がはやる店を作っている

カレー屋ももともと近所の商店の馴染みだけで結構にぎやかだったのだからまんざら嘘でもない
ただ行列など親の代からなかったのに、ひょんなことから情報誌などで紹介されたからである
雑誌も決して「行列してまで行ってみたい店」と紹介したわけではない
しかも、雑誌だからこそで、テレビでは見栄えしなかったと思われる
美味しらしさはB級にありとB級グルメがはやる
それでもみんなが知ってるもんではアカンということで、C級(?)の発掘を狙う
あの店も調査したという記者のたまたまの大穴だったのだろう
地雷を掘り当てたという方が当たっているかもしれない
近所にサラリーマンが多かったという地の利が効いた
ワイシャツを着ては入らなかった客に動機を与えた
新しい客は、"汚いけど愛想が悪いけどだからこそその分美味しかった筈だ"と自己暗示をかけて帰る
一度くらいは友達を連れても来るだろう
記者は、嘘か本当かの調査をしているのではなくなんとなくの確からしさを求めて彷徨(さまよって)いる
結局最後は世間の裏をかく

特に雑誌やテレビへの売り込みに必死になってる店と反対を狙った
〝より確からしさ″だと言えば嘘が嘘でなくなってしまう
・・こともあるのではないか
そのかわり以前の商店街の馴染みの客は他所へ行ってしまった
忙しい人がいつまでも並んでランチを食う筈はない
客は増えたがさみしい店になってしまった

というのがコンサルタント業の友人の話である
小生はサラリーマンを辞めてもうそのあたりをうろうろすることはないけど
もう一度食いたいとも思ったことはない
鯵庵(4.1)




# by ajiankyoto | 2017-04-01 07:29 | 飲食業 | Comments(0)


街の昼食時サラリーマンなどなどでいつも早い時間からいっぱいになる店があるということでした
ほんと店の外、反対側の道端にまで並んでました
70代ぐらいの店主が一人でやっているカレーライスしかない店です
辛いのが売りだったようです
みんな、行列ができるという情報ですが、小生は店の中も清潔とは言い難く奇妙な違和感を感じました
この店も、去年あたりからほぼ急に客が勝手に並びだしたということらしい
「30年目にそんな事態になって店主もびっくりしたやろうな、外食の世界は客が1割増えれば儲けは2倍になる世界や。それからは商売より博打の旨味や。この齢まで働いてきたのに店主は死ぬまで商売止められないだろう・・」
経営コンサルタントみたいな仕事をしているチームの友人の弁である

〝行列が出来るほど″というのが正しい日本語で、〝行列が出来る・・″というのはテレビが作った舌足らずの表現である
少し言えば・・・・、そもそも行列をさせるということは、商いの道徳からいってどうだろうかといつも思っている次第だ
行列という事象を客側の所為にするのは商売人側の怠慢と傲慢だと小生は言いたいわけである

カレーライス一杯だけの付き合いだけど商売の成功を祝ってやる気はある
難しそうな顔をして行列を作る店であってはいけない、と思う
まず、店を綺麗にし、人を増やし、サービスに必要な時間を短縮するなど受け入れ側の態勢を整えてから客を待つのが商人道ではないかと思うわけである
そんなことするなら昔の儘でいい、客が来なくたってやっていけるというだろう
もちろん"はやる"に"はやる"だけの訳はある、と拙者も知ってます
しかし、なぜ"はやった"のかその理由(わけ)を間違わないようにしておかなければ、
"はやらなくなった時"にそのわけが分らなくなりますよ

(この項続く)
鯵庵(3.30)

# by ajiankyoto | 2017-03-30 20:29 | 飲食業 | Comments(0)

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天満宮は言わずと知れた天神さん菅原道真公を祀るもの
学問や書道の神様として身近な神様
お正月の書き初めなどの映像は微笑ましい
書き初めが終わると受験シーズン、塾の生徒が団体でお参りに来るの出くわしたりする
人生は最初に受験勉強を選ぶかどうかで方向が決まる、と言った小生である
が、また本人の真剣さを茶化すわけではないが、天神さんは学問の神様であって決して受験の神様でなかった
学問は精進の成果、受験は博打とは言わないが勝負の世界
天神さんも頼まれてばかりでも
ちょっと性格が違うのでは・・と思ったりする
が、まっいいか、神様の力に限界はない筈

この年度変わりの時は神前の客の中にもお礼に来る人もいる
お礼参りにきてくれてる客は神様にも嬉しいことだろう
ただ、幸せだと思っていることにまたまた水を差すつもりがないが
あなただけに依怙贔屓(えこひいき)してくれたのではない
精進の成果である
もっと端的に言えば今回は勝負(博打)に勝ったということだろう
ただ、それはあなたの選択の結果であることは間違いない
神様も少し面はゆい
お礼ばかり言われると神様は辛い
次もまたとは必ずともいかない
神は神をもっと、神を恐れて欲しいと思っているのに
神の前ではご利益(ごりやく)をお願いするよりも、祈りこそが似合う

神主さんもご利益は否定しない
その代り、というのもおかしい表現だけど
〝お願いした神様の采配を恨まないのがルール″なのだ
要は願いがかなわなかったからと言って神様を恨むなということである
そのような人の願いは叶わないというのが神主さんのルールである
神はやはり恐れるものである

この世でもあの世でも、総理大臣にも裁判所にも閻魔大王にでも依怙贔屓を頼むのが人情だから・・
あなたによろしくと言われる筋合いがない・・と神様だけは言わない
贔屓してくれそうなのは神様だけである
そう思えば神様がいない国を考える方が無理である
鯵庵(3.29)

# by ajiankyoto | 2017-03-29 10:00 | Comments(0)

シイタケの春子

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春子というのはシイタケである
今でこそいつでも手に入るようなものであるけれど
ほだ木のシイタケの旬はこの3月・4月と秋である
冬の山の湿りと春になって空気も湿りだすとぼこぼこと出てくる
厚みがある、色つやもいい、触れば肌に水気ある若妻だ、だから春子という
サクラの花が咲く前のこの季節に丹波からのシイタケが届いた
シイタケのレシピはいろいろあるが、
小生は生乾きのままシイタケそのもの焼いて食うのが一番だと思っている

昔、茸源(じょうげん)という健康飲料が薬屋で売っていた
シイタケの根の部分に相当する酵素エキスを培養した栄養飲料である(ごめん上手く説明できない)
友人ががん予防にとよく飲んでいた
Amazonで見れば今でも売っている、やはり少々高い・・
二日酔いにも、と言ってあの茸源を飲んでいた友人どんこ氏は定年後に田舎へ帰った
ひょっとしたらマッタケが届く日も来るのかもしれない
写真は届いた春子
鯵庵(3.28)


# by ajiankyoto | 2017-03-28 08:57 | Comments(0)

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薄幸の役を演じる女優さんがいる
女優さんだから役にふさわしい雰囲気が必要だ
ドラマとしては美人でなくてはならない
女優が本当に薄幸かどうかは別の問題であることは当然である
美人であるのに薄幸であることがドラマである

ふてぶてしく生きている人が不運なことになったとしてもそれを薄幸とは言わない
それは欲張りである
不運なことは認めてもらえても世間の同情を得られることは少ない
多くの人が知るとおり美人と「幸せ度」は"ほぼ"正比例する
不運である美人を世間はほっておかない
苦情があるかもしれないが、歴史的に証明されている定理の一つである

「強くなければ女でない」というテーマで先に言ったことだけど
やはり女の敵は女なのだ
美人でないのに幸せだと女性に嫌われる
自分より不幸になってくれる同性が多いほど幸せなのである
美人は美人であるだけで元来幸せなのである
それ以上にまだ幸せがついてくるとある女史は嘆いていた
もちろん自虐的な冗談なのだけど、ここで一緒に笑っては誤解される
そんなことでくじけていては女を張っていけないというのが正しい

女性に幸せをやれる男性が男だろう
そういう男に会えたらそれは幸せだろう
幼き時から可愛いと言われ、自分は美人側だと信じて来た人は
美人は美人であるだけで幸せであるという都合のいい定理だけにはまってしまって
男を見る目が養われないという反対の宿命を負っている
美人も幸せも定義できないものだから結局ドラマのような話でないと理解できないことになる
世の中の定理には全て裏が用意されているのである
鯵庵(3.25)

# by ajiankyoto | 2017-03-25 12:00 | Comments(0)

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自分を嫌いになるという精神構造は若い時にはよくありました
そういうことも自己愛が裏に潜んでいたのかもしれません
人生のスタートは実はナルシズムだという話を聞いたことがあります
日本語の水仙は水辺に咲く仙人という中国の名前のままです
ニホンスイセンは新春早々に簡素にして気高い香りの花を咲かせます
それでいて実は有毒植物です
特に球根(鱗茎・りんけい)には人が死に至る毒を持っています
この項の表題は有名な一休和尚の漢詩の題になった一節です
スイセンの香りに似ていると例えられます
ナルシズム、自己愛というものはこの香りと全身に毒を持っているところから来たのではないかとも思ったりします
ギリシャ神話では少年の神であった
現実にはナルシズムは世の女性の方ではないかと思う

多くの園芸品種のあるスイセンは多くの香りが存在するが、スイセンの香りは相当に幅広い
その中でスッキリした甘さのニホンスイセンの香りはヒヤシンスやジャスミンやロウバイなどの類似の成分が含まれる
が最近の研究では特徴的な成分には抗酸化作用、メラニン生成抑制作用の他にストレス軽減効果や催眠効果もあるという
催眠効果は古くから知られていたが、線香や香水だけでなく化粧品材料としても利用されているわけである
ニホンスイセンは空気のまだ冷たい時期に群生して咲く
香りに敏感な人は冷気の中に感じることのできるかすかな霊気かもしれない
何のこともない
一休宗純が言っていたのはそういうスイセンの持つ催眠効果だったのかもしれない
ナルシズムで片づけてしまえるものではないのは明らかだ
鯵庵(3.24)


# by ajiankyoto | 2017-03-24 08:16 | Comments(0)

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「日本の暦(2)」に続く
むしろ旧暦時代に太陽暦を学んでいた天文家は占い師以上の仕事が出来た
日食の日を間違ったということで改暦になるぐらいだ
二十四節気もそうである
太陽が一番南下する冬至の日を基準に1年を時間的に24等分したものが二十四節気であり、太陽の位置(地球の傾き)を示すものでもある
二十四節気の1年は太陽暦の1年そのものである

ただ旧暦で言えばは毎年違う日になる
旧暦をたたえるために「二十四節気は旧暦の賜物、旧暦は季節感があっていい・・」などと言い出す
確かに二十四節気(立春・雨水・啓蟄・春分・・・・)は旧暦時代からある
それこそが旧暦が太陽太陰暦と言われる所以である
当初から太陽暦のみであれば、二十四節気は不要だった
月日だけで行けば旧暦では季節感が毎年ずれるから、二十四節気を使って季節感を補っているわけである
そんなものだからなおさら二十四節気(太陽暦)が必要だった
太陰太陽暦(旧暦)を太陽暦で暮らす工夫だったのだから当たり前のことなのだけど・・

この項続く
鯵庵(3.22)




# by ajiankyoto | 2017-03-22 09:24 | Comments(0)