水仙の香り

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水仙の花言葉は〝うむぼれ″とか〝自己愛″とかである
水仙にとってはそれは単に名前である
語源はギリシャ語のナルキッソス、学名はナルシサスという、英名でもナーシサスという
ギリシャ神話の美しい青年が自分に恋してスイセンの花になってしまったという話に基づく
日本人には遠い話であるが、それゆえにナルシスト(またはナルシシスト)、ナルシズムという皆さんが知っている言葉になる

そこで自己愛と訳される訳である、・・性的なことも含めて自分を対象とすることも言います
〝高慢″であったり〝うぬぼれ″というのも似たようなものですが、すこし違うような気がします
多くの園芸品種もあるスイセンには迷惑かもしれない・・
「愛」とは執着する心を言い、近世までの日本文化には愛と言う言葉はあまり普及していません
執着する心とは、どちらかと言うと負の心理です
むしろ日本人の宗教は執着する心から逃れる修行をしてきました

愛という言葉は小生みたいなエッセイもどきにはそれなりに研究のテーマになります
ただ、言葉としてメジャーになりすぎたのではないのかと思ったりします
なおさら、自己愛と言われると難しいテーマです
日本人には日本水仙です、花の名としては中国由来の仙人の仙の方がしっくりきます
寒い時しかもお正月に似合う花です、花言葉に関わらず多く人に愛されています
京都でもいつもの年よりは少し早く正月には満開状態でした
花の少ない時のいい花ですが、花言葉など知らずに見てやる方がいいと思います
自己愛などと言われるとスイセンは照れたり、、ひょっとしたら迷惑してるでしょうね
鯵庵(1.9)

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# by ajiankyoto | 2017-01-09 14:16 | Comments(2)

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相手の年令=自分の年令÷2+7(式-1)

(ここから後編)

55歳で10歳下の再婚相手を得た友人は今、幸せである
彼の艶福指数は22.5ということになる
一般人ならそれでも艶福(えんぷく)の部に入る
奥さん55歳で孫を持つ立場になったわけである
45歳で年上の彼と一緒になって10年かかって落ち着いた
娘さんは今35歳になっている
家族という単位はすべからく女性が核である
主婦という言葉はその全てを表現している
憧れる値打ちのある言葉である
長い人生の半ばで孫が出来て、自分の娘や孫のように思える
その今、家族の操縦桿は彼女が握っているのである

前編に戻る・・夢とは言えど50歳で18歳の歳の差は(式-1)は一般人には現実的ではない
目が覚めて改めて彼の年賀状を斜めに見ながら式を補正した
相手の年令=(自分の年令÷2+15)(式-2)にした
これなら20歳で相手の年令25歳、歳の差マイナス5歳
30歳なら30歳、歳の差0歳
40歳なら35歳、歳の差5歳
50歳なら40歳、歳の差10歳
60歳なら45歳、歳の差15歳
男性に当てはめると20歳代には年上の女性に憧れる現実にも整合する
男勝手の理想的(標準的)艶福指数は15くらいにあるのではないか

夢の話でこんなとこで不吉にして真面目なことを言ってはいけないけれど
このくらいの歳の差あれば・・、世の女性も、夫の遺産(ほぼ年金のこと)で残った人生を少し長く楽しめるかもしれない
男がいくら強がっても妻を守ってやれるのは自分が生きているときだけである
年金はいくらもらえても子供には残せない・・のだから妻の座は大きい
番(つがい)になってしまえばなんぼ年月が経っても年の差は変わることはない
やはり再婚だけにしか使えそうにない式だ
それなら最初の式(式-1)は何か?
これはギリギリ話の通じる(遊べる)歳の差ということにしたい

既婚者女性読者の声が怖い、鯵庵さん何を言ってるの?
ごもっともです、だから初夢なんです
もちろん小生にも「再婚」も「艶福」も無関係な単語である
しかも、小生のデーターは昭和の時代のものです
ただ・・・女性の人生は長い、人生を二度楽しめるかもしれない
一度や二度の失敗でくじけることはない、と言ってるつもりなのだ
そう思っていただければ、平成時代にも使える?
写真は貴船菊(秋明菊)、種は風で散るだけ
鯵庵(1.7)




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# by ajiankyoto | 2017-01-07 19:09 | Comments(0)

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10年ほど前に同級生の友人が再婚した
その時ちょっとした披露宴に呼んでもらった
その彼らからいつもながら年賀状が来ている
今年は娘さんに孫が出来たとあった
だから、再婚した奥さんもおばあちゃんになったわけだ
孫の面倒を見てもらうなら15年前に亡くなった奥さんも悋気(りんき)は辛抱してくれるか

正月だからと、昼酒をいただいて昼寝した
夢を見たから、初夢になるかもしれない
自分が再婚する夢である
届をするのに相手の年令を算式で書けと役所が言うのだ
3っつ違いだと家内が横から言う
そんなおかしいことはない
家内と再婚する筈がない、それなら初夢ではなく悪夢になる

夢の中で作った式である
相手の年令=自分の年令÷2+7(式-1)
でどうだと言った
仮に40歳なら相手は27歳以上、年の差13歳である
50歳なら相手は32歳、年の差18歳である
60歳なら相手は37歳、年の差23歳である
70歳なら相手は42歳、年の差28歳である
となる

年の差婚というのが言われたときがある、許される年の差とみてもいい
14歳の時に同じ歳の女性に恋をして(標準的初恋・・歳の差0歳)
人生まあ作戦とまではいかないがそれなり成功で50歳で若い後妻を貰うとして(歳の差18歳)
それを直線で引いただけである
この式の7というのが再婚艶福指数(小生が勝手に名付けた)なのである
歳の差はあくまでも人生を共にできる可能性の中での最大値である
分かり易く言えば財産のある芸能人のならこれぐらいのものだろう
これ以上では親子が逆転する
と夢の中で区役所の窓口の閻魔さんみたいな顔をした人に説明している
この数字が小さい程艶福(えんぷく≒スケベー)でもある
も一度ことわっておくが夢の話である

(後篇に続く)
鯵庵(1.6)



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# by ajiankyoto | 2017-01-06 15:56 | Comments(0)

老人性悪態

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「マイペースで頑張ります」とのご挨拶
イイネを言ってやりたいのだけど
厳密に言うと正しくない
マイペースは頑張らないことなのだから
そんなことでいいなら何も頑張る必要はない
「頑張らなくてもいいように今のうちに頑張る」
と言うのなら正しいのかも
ついつまらないことを思ってしまう
青年にはマイペースは似合わないぞ
そういう嫌みを言うのは一種の病気である
「老人性悪態」症と言うらしい?
大丈夫面と向かっては言わない
悪態はつくけど悪意はない
鰺郎(1.3)

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# by ajiankyoto | 2017-01-03 17:02 | Comments(0)

市電のあと・・がなァ

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「3条のレールは交わらない」に続く
三条通りと言うのは今、不思議な通りだと言える
蹴上から京阪三条までは京阪京津線が通っていた、路面電車のタイプだった
今は、地下鉄東西線となっている
三条大橋から堀川通りまでの三条通りは人通りが絶えない街並みが続く
明治の頃には一番の繁華街であった、今も明治の香りを残している
過去には祇園祭の山や鉾の巡行も行われた
堀川通りから千本通りまでは市内一の商店街である
京都人の暮らしぶりの生が分かると思う
西大路からは、件の嵐電(らんでん)が嵐山に向かって走っていく
しかも、へばりつくように歴史が絡んでいる
太秦(うずまさ)あたりは日本の映画の都だ、各社の撮影所があった
聖徳太子の広隆寺もある、奈良時代には国府のあったところだ
ただ、びっくりするぐらい狭い道が続く

明治以降、特に大正・昭和の京都の都市計画は市電を通すことで出来てきた
現代の京都の町筋が概ね碁盤の目のようになっていると感じられるのは実は市電道なのだ
市電の通る道だけが大正・昭和の大路(広小路)とも言える
結局、三条大橋から西へ西大路通りまでの三条通りは市電道ではなかったことが特徴である
三条通りは北隣の最も新しい御池通(おいけどおり)がその役割をしている
そこは地下鉄が作った道だともいえる

全面市営化後約60年後(1978)、京電の路線も市電の路線も全て廃線となってバスにとってかわられるようになった
電車を走らすための街路整備は京都をほぼ今の形にした功績は大きい
でも、車に邪魔にされた市電がバスになっても、バスもまた車に邪魔にされている
繁華街にしてしまった四条通りはバスも車もどちらも通れない
四条大宮~嵐山の嵐電は市電とは別の経営を維持できたために、今も路面電車が走っている
東京・大阪に習って「大都市なら誰が考えても地下鉄しかない」というのが最大の誤解だろう
市電の全廃は観光行政としても大失策だろう、と思う
市電が観光客を呼んでくれることも想定できたはずなのだ
街の発展に合わせたふりをしているが、廃止したものを戻すことは難しい
地下鉄で赤字になるなら、いっそのこと環境の街として市電の復活ぐらい考えてもよさそうな気がする
観光客の数だけを声高に叫ぶ観光行政は、必ず市民の遺産である京都を壊していく

明治以降の新しい近代都市としての京都も日本の国の遺産である
東京型の街は兄貴分の大阪に任せればいいのだ
それが戦国時代にも生き残って何百年続いてきた京都という都市のスタンスだった
都が江戸へ行っても滅ぶことのなかった街である、それを都市と言う
自然遺産になったら自然が壊れ、文化遺産になったら文化が壊れるような失敗が怖い
京都という都市の歴史的研究がおろそかになった分だけ都市としての個性が減っていく
都市としての魅力が一番の観光資源であった筈だ
鯵庵(12.29)



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# by ajiankyoto | 2016-12-29 12:40 | Comments(7)

正月を前にして干し柿が美味しくなってきた
11月に皮をむいて熱湯で消毒し吊るしておいた
風がよければいい干し柿が出来る
当方(うち)の家内が得意にしている
家内の里にも大きな渋柿があるのに、干し柿をしない
寒いけど空気が湿ってるようだ、カビてしまうという
実は京都のマンションの上の階の風がいいようだ

柿は日本固有の果物である
甘柿と渋柿の厳然たる区別はない
渋みが早く抜けるか、なかなか抜けないかである
なかなか抜けないなら抜いてやろうというのが渋柿対策である
干し柿もその一つである
それならそれなりに利用したろうと考えた結果である
干し柿は飛鳥・奈良の日本の歴史とともにあるようだ
柿の種類は数千あるようだが特定できない
自然にできたものらしい
甘い柿のなる木が発見されたら主に接ぎ木でそれを増やしてきた
奇特な人がいて生涯かけて交配で品種改良に取り組んだなどとの話は柿の木には無いのである

里の親戚に自慢の柿の木があって大きくて甘いという
富有や次郎とは形が違う、名前が分らない
農協の人が教えてくれるには百匁柿(ひゃくめかき)らしい?
匁(もんめ)というのは重さである
百匁なら375グラムに相当する
大きな柿である、甘柿でも渋柿でもない?デリケート?らしい
色はいいけど条件によって渋みが抜けきらないことがあるようだ
この柿はもらって帰って焼酎で渋を抜くことにしている
甘柿なのに渋抜きが必要?
だから店では扱いにくい柿らしい
甲州地方ではこの大きな百匁柿を干し柿にして産物にしている
それぞれの土地に合った柿があるということだろう

その農協の人が語るには
品種など知らなくても宅地内にあるのは甘柿で、庭のはずれや畑に植えてるのは渋柿だという
そんな区別法で今のところ外れたことがないということだ
この里の人は柿を売ることなど考えたことなかった
でも、今は道の駅に出している人もいる
もちろん柿を買う人は里にはいない・・のである
昔から柿というのはそれなり(?)の付き合いの果物である
鯵庵(12.27)

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# by ajiankyoto | 2016-12-27 19:28 | Comments(4)

家庭菜園が農業に戻る時

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当方(うち)の家内も田舎のばっさんに手伝って野菜作りに精を出している
おかげで野菜を買うことがない
夏は夏、冬は冬、野菜に合わせて食う訳だから野菜型の献立に飽きることがある
ここ何十年、米は共同だから田んぼづくりを触ったこともない
でも、米や野菜に恨みを持ったことがない

家庭菜園は人生の菜園でもある
時に、サラリーマン定年退職型の家庭菜園は生きがいにもなり得る
傍から見たら趣味か道楽である、採算も合わない
そんなのはもちろん農業ではない
都会ではそれも難しい
だから、都会の人が田舎へ畑付きの古家を買って農家のまねごとをする
田舎の人が田舎に暮らしていても言わないけれど、町の人が田舎へ行って暮らすとそれを「田舎暮らし」という

当方は、土日型である、家内の里に帰れば畑ぐらいはある、そんな我らも時に田舎暮らしの仲間である
農作物の自給率と言うその算式を小生は知らない
うちの田舎の近辺では米以外の野菜はほぼ自家消費である
米や野菜の自給率は高いはずだが、ただどう思ってもそんなのが国の統計に組み込まれているとは思えない
じいさんばあさんが道の駅に持っていってる野菜はどちらに入るのだろうか
生産も消費も把握されているとは思えない

「あそこは夫婦そろって働き者やから・・」と近所のみんなが誉めている
田舎の人は「働き者」という言葉に弱い、論理が止まってしまう
しかも夫婦揃ってという働き者は珍しい
近所の働き者の夫婦は共同作業に参加して、ん00万円と、
道の駅へ毎日野菜を持って行って、ん00万円稼ぎがあるとの噂だ
その代り二人で休まず365日である、そう思えば大したこともないともいえる
だが、昔会社勤めしていた年金が他に、ん00万円ほどはある筈だ、と口さがない
年金を分けてくれとは言えないけれど、困ったことに仲間の誰も仕事を分けてもらえない

そこまで行くと道の駅へ出すのには農薬も使わなければならない
その家だけが家庭菜園から農業にいつの間にか戻ってしまっている
みんなさわることも売ることのできない田んぼを持っている、それで集まっている
どこまでいってもそこで生まれてそこで住んで来た歴史の中で優先順位が決まっていく
都会から来た人が田舎で生きようとしても誰も参加させてもらえない
田舎は遊びに行くところで暮らすところではない
「働き者」でなければ暮らせないのが田舎なのである
何故ならば都会のサラリーマンしかしたことのない人間は道楽者にしか見えない
と・・当たってはいるが・・
どんこ氏の愚痴の話である

ほうれん草は寒さにあってはじめて美味しくなる
鯵庵(12.25)




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# by ajiankyoto | 2016-12-25 06:00 | Comments(0)

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ホームページなどでもよく見かけるのが〝よくある質問″
分からないことをこの〝よくある質問″を見ればとて見るんだか、滅多と解決したことが無い
私の質問はレベルが低いのか高いのか?
Q(スイッチが入らない)A(コンセントはちゃんと差し込まれてますか)というようなのが多い
そんな質問はないやろ、と思うことが多い
見れば、マニュアルと同じようなことしか書いてない
マニュアルを作ってる人が書いてるわけだから、ここに気合が入ってないのは当たり前
世の中のQアンドAというのは、Aを先に作ってるもの
だから、Aの無いQは載せない
困ったことに都合の悪い質問は採用できないのだ
困ったことに困ってることはいつも解決しない
この場合Qが無いということはひょっとしたら〝よくある質問だから″かも
かくして、QらしいQが沈んでいく
写真はよくある病気
鯵庵(12.23)

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# by ajiankyoto | 2016-12-23 18:31 | Comments(0)

僧侶が作る病院


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紅葉シーズンが終わった頃を狙って友人の京都案内に永観堂に行ってきた
永観堂は東山にある壮大な寺院である聖衆来迎山(しょうじゅうらいごうざん)禅林寺と言う
12世のご住職が法然上人に帰依して後浄土宗のお寺である、ということでご本尊は阿弥陀如来である
紅葉で有名であるが、周知なのでそんなことは書かない
阿弥陀如来の念仏の道場としてのことの方が大事である
が、それも書かない・・もう一つが明治の初めの歴史である

明治の始め三条通りの東、粟田口村の天台宗の寺院「青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)」に「京都療病院(りょうびょういん)」が開設された
なんと明治5年のことである
元処刑場のあったのが三条河原である
そんなことからか医学研究に解剖場も併設
この療病院の設立は実は当時京都の実力寺院(観光ではなく)の僧侶たちの社会運動だった

明治元年に神仏分離令、
それにより廃仏稀釈の波が全国に広がった
明治5年政府は僧侶の肉食妻帯蓄髪を許す布告を出した
何ら俗人と変わらない状態だった
それでも廃仏毀釈運動の風潮に危機感を感じた岡崎願成寺与謝野師・永観堂東山天華師・銀閣寺佐々間師・金閣寺伊藤師の住職たちが京都府の青年蘭方医明石博高(あかしひろあきら)などと語らって、僧侶たちが発起人となり京都府に病院設置を出願した訳である
仏教界の他、一般府民や医師、薬種商なども出資、花街(かがい)の冥加金(みょうがきん)まで多くの資金が集まったという
京都における近代医療の始りであり、首都でない都市としては早かった
梅毒退治や精神医学の魁となっていった以後京都は近代医学の先進都市となった
が、その時の経緯は余り知られていない
維新政府の意味のない施策であった神仏分離令のために廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた頃の話である

病院・医学校ともに明治12年に梶井門跡(梶井門跡は京都大原に本拠を戻して三千院となる)の跡へ移転
これが梶井町にある今の京都府立医科大学となる
この永観堂にも癲病院が設置されていた時期もある
廃仏稀釈は大寺院も土地をとられ、らしからぬ僧侶は還俗、そんな時期だからこそ仏教界や市民・府民が一緒になって作ったことの意義が大きい
病院は宗教の最も明確な救済活動だとするヨーロッパのキリスト教の影響も大きかったと言える

聖徳太子は日本仏教の最大の祖である
この療病院というのも聖徳太子の創設したものに習ったという宗教家の存在は大きかった
でも廃仏稀釈運動の危機感と言うものは本当にその時だけだったのだろうか
現代の京都の僧侶の職にあるものは市民の救済のために何を訴えられるのか?
浮世の観光行政に便乗したり翻弄されたり・・している様だけ見れば・・である

これも歴史
写真はニシキギ
鯵庵(12.22)

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# by ajiankyoto | 2016-12-22 07:07 | 往生 | Comments(0)

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日本で使用されてきたレール幅には狭軌と標準軌がある
鉄道は明治の文明開化の時に入って来たものだからサイズが日本式ではない
困ったことにメートル法でもなくフィートである
機関車を輸入しなければならず、当時の国鉄が採用したのが狭軌だった
それからずっと日本全国の国有鉄道(JR)線の線路幅である
それが3フィート6インチ(1067㎜)だった
それと違う4フィート8.5インチ(1435㎜)も世界に普及していた

京都電気鉄道会社(京電)は日本で最初の営業電車を走らせた
電気は琵琶湖疏水の水力発電で出来る
明治28年(1895)京都(東洞院塩小路)~伏見(下油掛)間を開通させた
その後順次路線を延ばしていった
北野へ行く線・出町へ行く線・蹴上へ行く線などなど
この電車は国鉄と同じレール幅であった
狭軌である、1067㎜である、鉄道趣味の人にはナローゲージとか言われたりする

京都電気鉄道会社路線は京都市民と経済を支えた
2代目京都市長西郷菊次郎の時に京都の将来を考えて市営の路面電車の整備に着手した
市電は京電に十数年遅れて明治45年(1912)から運行が開始された
その後、京都市によって京電の統合、買収交渉が進められた
大正7年(1918)京電の軌道21キロ、車両136両は京都市電に引き継がれた
京都市電は路面電車としての規格を先取りして標準軌を採用していた
標準軌は1435㎜、30数センチも広い
スチーブンソンの蒸気機関車の幅である
ヨーロッパやアメリカ大陸では多く採用された軌間だった
スタンダードゲージと言われる

一部区間では京電と市電とそれぞれの電車を走らせる必要があった
そのため、競合区間などでは3条のレールが使用されていた
それが挿絵のコメントである
市電化に伴って多くは標準軌に整備されていった
が、北野線のように市電廃線まで狭軌のままでの運転が続けられた路線もあった
北野(千本中立売)は千本京極と言われて京電・市電で栄えた町ではある
同じ市電でも挿絵のような京電タイプの電車が走っていたため他の街より市電への愛着が強いようだ
鯵庵(28.12.18)
北野線の様子は北野商店街のHPで

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# by ajiankyoto | 2016-12-18 21:13 | 都市 | Comments(0)