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京都も5月も下旬になって夏日が続く
今年もまた京都盆地の夏が来る
世間はクールビズが始まったのはいい、夏のノーネクタイがやっと常識になりつつある
長い習慣でサラリーマンはネクタイを外すのに抵抗がある
役に立たないネクタイであるが、おしゃれの問題でもあると思う
ネクタイを外したサラリーマンための新しいファッションが未だ出てこない
アロハシャツで勤務するところも写っていたが、南国でないと似合わない
昔、開襟シャツといういいものがあったが、それの現地版だろう
街で電車に乗ったりすると寒くっておられないという声を聴くのは何故だろうか
京都の市役所は地場産業育成のためにネクタイをするという記事が載っていた
ネクタイをして扇子を持って勤務するというセクションがあるようだ
面白い話になっている
デパートで見れば例えば西陣織のネクタイも10,000円以下ではないだろう
京都の扇子屋の扇子も同じくらいはする

市民に高い和服を勧めると同じ構図である
伝統をファッション感覚で売り歩くが、客は伝統と言われると手が届かない
伝統工芸の王冠を被った京都の地場産業は高くつく
現に京都人はそんな高いものを買う人はいない
しかもその実、絹糸は全部中国、縫製は東南アジアだ
爆買の国の人たちの作ってくれたものである
爆買のお礼にと言うならわかないでもない
市役所にそんなこと頼む業者もいるかもしれない
ただ、市役所が今時ネクタイしめてまで売り出したいのは果たして何だろうか?
そこが分からない?
え、今年はもうを節電をやめるって?
写真はニゲア
鯵庵(5.19)


# by ajiankyoto | 2016-05-19 08:30 | Comments(1)

喘息は腎虚の病?

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先週、風邪をひいて咳が止まらなかったと思っていたら喘息が残ってしまった
ここ数年、発作がなかったのでタカをくくっていた
タバコをやめて数年たったこともあって内心自信があった
インフルエンザも怖かったが喘息の再発は恐怖だ
咳き込むと一瞬意識が遠のく、自分は呼吸が出来なくなって死ぬのだろうかと
まだ少しは先があると思っている、なんで死ぬかなど分かる筈はない
だが、発作が出ると心は静かでない
過去に、2度ほどは緊急入院した
働き盛りの頃だった、仕事もしながらでは治療できない
当時のステロイド治療は医師の管理下になければならなかったからだろうと思う
だから、入院してからは実は苦しい思いはなかった
喘息は気管支炎でもあるが、アレルギーでもあり心身症の一種でもある
思えばあの頃は仕事からの逃避もあったのかもしれない
そのころから喘息の予防も治療もここのところ随分進歩したし、今だったら入院までさせてもらえなかったろう
体質改善が必要であるといつも言われた
漢方で言えば腎虚(じんきょ)の一種である
内分泌系や免疫機能の低下による病気を言う
そういえば頻尿とか手足のむくみなど気になることもある
腎臓には人間の精気の内、生殖能力に関わるものが貯められているということである
「ウィキペディア」には、腎虚とは男性機能の終わりを意味するという俗説が載せられている
男性は一生の間に射精の回数・量が決まっていて、打ち尽くすと死亡するとあった
やはり空打ちも数の内らしい・・
それならもう、小生・・残った玉がないし死んだも同然ではないか
いやいや、それなら王侯貴族にもたくさん仲間がいる?
それでなくとも、小便が近くなりだすと八味地黄丸を買って飲みだす
もちろん、腎虚は男性だけの病気ではない、女性にも同じである
新京極入口の阪本漢方の八味地黄丸は蜂蜜で固めたほんまの丸薬だった
写真はシャクヤクの生殖器
鯵庵(5.18)


# by ajiankyoto | 2016-05-18 06:26 | Comments(2)

千本京極は映画の都

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日本の映画の歴史で、最初に映画館が出来たところといわれる
西陣のことである、が今の京都に西陣とつく行政上の地名はない
応仁の乱に由来するのはご存じの通りだ、と
歴史を学ぶと応仁の乱は日本の、ひいては京都の歴史の潮目だと分かる
西陣織りもその一つである
明治・大正と西陣織り工業の発展とともに千本通り界隈に数十件の映画館が立ち並んでいたということだ
日本の映画の父牧野省三はこのあたりを舞台に映画作りを始めたとも言われる
大正から昭和のはじめ京都の地で日本の映画界をリードしていた
尾上松の助や坂東妻三郎など・・
映画は京都だけでなく東京にも多くの映画制作会社が出来、それから娯楽の王者として日本全国何百何千の映画館が出来て、やがて潰れていったこととなる
昭和40年代から娯楽の推移により廃館が続き今残っているのは千本京極と言われたかっての繁華街で「千本日活」が唯一の名残である
この千本日活、成人向き映画専門にして、3本立て500円で一日映画を見ることが出来る(ただし、少し落ち着かない?)
大人には日活と言うだけでも懐かしいが、大げさに言えば映画発祥の都京都の遺産の一つである
この繁華街のもう一つの顔が遊郭〝五番町″でもある
西陣に近い方では上七軒もあるが、あそこは庶民には敷居が高い
一時、上七軒の出稼ぎ場でもあったとも言う
水上勉の「五番町夕霧楼」で聞いたことを思い出す人もいるだろう
1963年には映画にもなった、佐久間良子主演である
京都ではなく、残念ながら東映の東京撮影所の作品だ
主題は金閣寺炎上事件(1950)に関係がある
そんなことで驚いてはいけない
あの辺りは桓武天皇の平安京大内裏の中、大極殿の跡に位置している
そういう街の変化も応仁の乱が潮目になっているのがの京都である
そういうことを分かりやすく教えてくれる歴史家が小生は好きである
写真はクレマチス
鯵庵(5.17)



# by ajiankyoto | 2016-05-17 07:07 | Comments(0)

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京都千本通の寺の内を少し下ったくらいにあるのが釘抜地藏
寺が言うところによれば空海によって創建され、重源によって再興されたとある
ご本尊は地蔵菩薩、このご本尊が痛み苦しみの釘を抜いてくれるということだ
この釘は恨みの釘である、心当たりのある人は地蔵が救ってくれる
地蔵とは地蔵菩薩である、菩薩の位にあるが馴染みが深い
釈迦が入滅してから56億年云々の後に弥勒菩薩の出現が予言されている
その時、弥勒菩薩は仏(如来)になる
その間、釈迦に代わって六道の苦しみや迷いから我々を救ってくれるのが地蔵菩薩である
そのような重要な役回りの上ながら飾りの少ない仏さんが地蔵菩薩である
地蔵菩薩の縁日は毎月24日である、釘抜地蔵では地蔵しるこが振る舞われるとある
しるこをいただいたからとて誰もかれもが浄土へ往生出来るとは限らない
が、予定と違って地獄へ落ちても地蔵が救ってくれる可能性がある
そのような人は、千本通をもう少し北へ進んで千本えんま堂に行くのがよい
そこから先は都の葬送の地蓮台野だ、閻魔大王がご本尊の地獄の入り口である
が、実は閻魔大王は地蔵菩薩の化身であるという
人生最後の言い訳を聞いてくれるのが閻魔さんではなく地蔵菩薩だと思えば最後のチャンスは残っている?
今から、地蔵にはゴマをすっておこうと思うのは勝手である
それより言いわけの練習をしておくのも勝手である
何をする前にも言い訳をする人がいる
練習してるつもりかもしれないけど釘抜地蔵のヤットコで先に舌を抜かれたのでは言い訳も出来ないことになる
ついでながら演歌歌手の都はるみがこのあたりの子である、とあった
写真は釘抜地蔵、石像寺(しゃくぞうじ)
鯵庵(5.14)



# by ajiankyoto | 2016-05-14 08:15 | Comments(0)

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ゴールデンウィークが終わると京都は修学旅行生で溢れる
今日はいきなり北野天満宮で十数台のバスに出くわした
京都旅行の中に天神さん参りが入っているのは修学旅行の目玉である
天満宮の方も修学旅行メニューを用意して熱心に誘っている
クラスごとに神前に進む、初めての経験に中学生は少し照れもあるかもしれない
天神とは日・月や星の天空を司る神のことであり、それゆえ雷や雨の神である
1000年以上も前のこと、京の都に雷が大暴れして、それが先ほど九州でなくなった右大臣道真公の祟りだと言われ、怨霊を鎮めるために北野や九州大宰府で祀られた
菅原道真公の神号は天満大自在天神、と言うことで天神とは道真公、全国天満宮の祭神となる訳である、京都の御霊信仰の一つであった
道真公は学者であり詩人であった、政治家としての出世は学問によるが、藤原北家と位を並べるようになってしまったのでは学問だけでは身が守れない
政治には讒訴(ざんそ)がつきものである
朝廷や藤原氏や政争の勝者は敗者道真の怨念に重大な心当たりがあったということだろう
道真公の不幸は別にして、学問を身につけることは立身の最大の手段である
そんなこんなでいつか学問の神様と言われるようになる
学問にはげむ中学生がお参りに来るのは至極当然であるが
実は学問・学業の神天神様のご神徳はあくまでも学業に励む人にのみあらたかである
神は精進する人にのみご加護がある
だから、一発受験に勝利することを祈願したい人は博打の神様の方にお参りすべきである
そっちは一人こっそり行くことをお勧めする
写真は北野天満宮の空
鯵庵(5.13)


# by ajiankyoto | 2016-05-13 08:35 | Comments(0)

伏見一揆を忘れまいぞ

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徳川体制に入って京都や伏見は天領(直轄地)になった
伏見奉行は大名格の者が務め、伏見の町政、近国の司法などを所管する幕府の高級官僚である
元和(1622)の頃、伏見奉行を務めたのが小堀遠州、もと秀吉の弟豊臣秀長に仕えていたが徳川体制にも大名で残る、近江の国で小室藩(長浜市)主となる、元来、作庭・茶の湯の名人である
伏見の町政を預かって公金横領の重大嫌疑がかかるが、この時は名のある茶人大名で不問となる、その後茶の湯三昧で伏見の観月橋近くの豪勢な屋敷で生涯を終えたとある
それからほぼ160年(安永8年・1779)の伏見奉行、小堀政方(まさみち)の悪政と苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を幕府に直訴する事件(一揆)が起きた
天明5年(1785)伏見の年寄文殊九助(もんじゅくすけ)ら七人らが禁を破って伏見を脱出、江戸に出て幕府に直訴、だが例によって2年の後江戸にて獄死した
この伏見奉行小堀政方は件の大茶人小堀遠州から7代、近江小室藩第6代領主、時の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)派で大番頭を勤め幕閣でも羽振りが良かった
が、とんでもない食わせ者だった、先祖かえりして奉行は領主と同じだと勘違い
御用金10万両を小室藩の財政立て直しのためにと調達・流用・浪費がばれた
幕府直轄領伏見に幕府の目は届いていなかったが、さすがに今度は伏見奉行を罷免した
今なら政権が変わるほどの大汚職事件である
現に、翌年田沼が失脚した後、松平定信(まつだいらさだのぶ)により近江小室藩は改易(かいえき)となり消滅した
という前段が天明伏見一揆、町人一揆の代表的事件である
〝伏見義民事跡″として御香宮神社の片隅に碑がある
一方、御香宮はその先祖小堀遠州による作庭が自慢でもある
この場合、作庭や茶の湯は為政者の道とは別のものだったと知っておけばいい
現代でも政治が好きな文化人には注意した方がいいのは皆の知るところ
庭師や茶人を大名にしたつけを払うのに160年かかったことになるのだから
写真は伏見の酒蔵
鯵庵(5.12)


# by ajiankyoto | 2016-05-12 07:50 | Comments(0)

ネクタイは何のために?

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クールビズ云々で夏のネクタイを止めてもうずいぶんになる
サラリーマンの賞味期限の切れた身分ではネクタイそのものがは偽装になる
だか内心は、もう会社や世間の論理に首を絞められませんよ、言うつもり
ん十年のネクタイ生活から脱出ではあるが、白いシャツにただネクタイを外しただけでは間の抜けたものでもある
営業に長いこと携わった友人が言っていたのを思い出す
営業は売り込み、客の為にならないから営業職が必要なんだ、と
そのためにも、きちっとスーツを着ていいネクタイをしてなければならない、とも
省エネによって売り上げの減る電力関係の会社は矛盾に悩んでいる、その悩みがはネクタイに出る
そういえばあんなけ大きな事故があって発電所が停まっても東京の電力会社の偉い人もなかなかネクタイを外さなかったね
ボーイスカウトのネクタイ(スカーフ?)は伊達ではない
当たり前ながら彼らは営業の為にネクタイをしているわけではない
せめて、ネクタイで汗をぬぐったり手を拭いたりできるなら値打ちがあるのにと思う
やはり、営業の友人の言葉を思い出す
ネクタイしないで人を騙すと詐欺と言われる
ネクタイをして人をだますのが世間と言うものである
だから、謝るときに必要なのがネクタイ姿なのだ
本人にとっても首に巻いているのは首を切られないようにという気持ちの表れだ
だがしかし、それはまじないとしてもはや効き目はなくなりつつあるようだ
どこかの国の独裁者が急にネクタイをしめて出てきた
どう解釈すればいいのだろうか?
写真はボタン、それでもサラリーマンはやはり白いワイシャツがいい
鯵庵(5.8)


# by ajiankyoto | 2016-05-08 08:57 | Comments(0)

京都の庭園は自然派

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京都府立植物園は大正12年12月に完成・開園したとある
京都で代々お世話になったということで三井家10代当主八郎衛門、男爵でもあった三井高棟が大正天皇の即位の記念事業に京都府に多額の寄付をして完成させたものであると碑文にある
今は北山通と北大路通の間にある、が当時は下鴨、上賀茂二村の間にあった半木神社の鎮守の森であったという
哀しいかな戦後12年間も連合国進駐軍に接取されていた
あの地に進駐軍の将校の家族の住宅が建設されていた
彼らは森や林の中の家を理想とする

昭和36年今から50数年前に植物園として再開したとある
我が国の自然保護は鎮守の森に始まると唱える人がいる
人々が安直に手を入れることが出来ないのが神域である
たとえ子供の遊び場であっても森が守られてきた謂れがある
船岡山もそうだし上賀茂の裏山や下鴨の糺の森などのことを思えばいい
原生林の名残である

ちまちました庭園を作ったって森や林にはなりはしない
京都へ来てお寺や別荘の庭園を見て、自然が一杯だと感心する人は多い
だが残念ながら、それは大いなる勘違いである
庭園は人工物である、自然とは対極にあるものなのだ

そんなことを考えるときに元鎮守の森だった植物園の木々や花園の意義は大きい
いかに自然を自然に見せるのかと言うことをテーマの一つにしている
ただ、いつもながら・・いかにもそれらしくしようとあっちを掘ってみたりこっちを掘ってみたりしているのは余計なことだと思ってしまう
またそういう工夫したところほど枯れている
どうしようもないほど茂ってしまえば植物の勝ちである
人間が変に手を加えずに100年もたてば自然と言ってもいいようになる
鳥や昆虫にも優しくなければならない
そんなところは春夏秋冬美しい
写真は植物園でも見ることのできないキクナの花
鯵庵(5.7)



# by ajiankyoto | 2016-05-07 17:40 | Comments(0)

火盗改め鬼平の京都

江戸で活躍の鬼平が20年ぶりで京都へ来る
当時、西町奉行に就任(1772)した父の赴任と従って足掛け2年を平蔵の家族も京で暮らした、という話である、
平蔵の父もその後の平蔵も徳川の実在の官僚だったからそこまでは史実とほぼ重なる

それから20年その父の墓参りにやってきたのは小説だけのことだろう
テレビは何度も再放送されている、「艶婦の毒」と言う題であった
艶婦とはお豊と言う西国をまたにかける盗賊団の引き込みで、若いころの平蔵に京都で出会った
”お前がおれば主もいらんし親もいらん”と言わしめた相手であるが、平蔵にとっては若い時の京都での大失敗である
女優山口果林がいい40女を演じている
何んとテレビ映画「鬼平犯科帳」平成6年(1994)約20年も前の作品だ
その女を幕府のお先手弓頭兼火盗改めに出世した鬼平が20年後の京都でまた見かけたて捕えた
女優が誰であろうと、小生なら昔のよしみで見逃してやる
鬼平は自分の若い頃と京女が憎かったに違いない
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鬼平年譜によれば京都で暮らした20年前の平蔵は結婚して息子辰三が出来ていた
父がも少し長く奉行を務めておれば、京都で暮らしてたかもしれないが、早々と父の役宅をたたんで江戸へ帰ってしまう
1年にも満たない京都暮らしであった
京都では大言だけを残した人であった
世は田沼政治の時代、28歳で長谷川家の当主となるが、無役の旗本、それからしばらくまた放蕩が始まるという、ところがやがて幕臣として頭角を現す
その上昇志向は大言壮語だけでなく三河以来と言う長谷川家の家柄によると研究者は言う
思えば地方都市京都では暮らせない人であったと思われる
明治になって都が東京に移るまで京都は都だったというのは京都人の意識的な勘違いである
鬼平の時代には既に古都だったのだから・・
写真は線香
鬼平の再放送ばかり見ている鯵庵(28.5.6)



# by ajiankyoto | 2016-05-06 07:41 | Comments(0)

愛宕道の写真スポット

嵯峨釈迦堂から西へ踏み出すと愛宕道へ通ずる
清滝のトンネルの手前まで進むと愛宕念仏寺がある
嵯峨野散策の終点(起点)である
信者さんの彫った1200もの羅漢像があるのが知られている
そこから少し下ったところ水尾への分かれ道のところに、大きな朱色の鳥居があって平野屋という鮎が売りのお茶屋がある
店の作りは田舎風であるが、この鳥居本のあたりでも存在感がある
小生、未だ入ったことも食したこともないが気になっている店である
店の前が崖になっていてそこからこの平野屋が全景で撮れた
愛宕念仏寺とこの平野屋こそ以前からの春夏秋冬の写真スポットなのだ
季節に合わせて一番いいカメラで一番腕のいいプロが撮った写真が、ポスターになりカレンダーになりパンフレットに載っているのに、それと同じような写真を撮りに行くというのがアマチュア写真家の哀しさだと思える
小生とカメラ仲間の友人のことである
写真は光の一瞬を撮るものである
カメラ好きは例え撮りつくされた被写体であっても自分だけの一瞬を見つけたいと思っている
しかし、一瞬が何百・何千とあればそれは一瞬と言い難い
二人のカメラはいつの間にかデジカメになっている
今は崖にへばりつかなくとも十分撮れる
数で勝負、どれだけ撮ってもコストがかからないと思うことが、いい写真が撮れなくなった原因だと気付く途中にある二人である
写真は愛宕念仏寺
鯵庵(5.2)

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# by ajiankyoto | 2016-05-02 07:19 | Comments(0)