b0355451_22051143.jpg
大阪の友人の悩みの相談を受けている
何かと言えばさる7月に彼のパソコンが10(ウィンドーズ10)に勝手にアップグレードしてしまったことだ
10は究極のプログラムらしいが、果たしてどうだろうか、急ぎすぎてアップグレードは混乱の課題が残されているのではないか
①遅くなった②起動しない③DVDドライブが使えない④ソフトが動かない
などなど知る人は知るであるが、誰でも何かの不具合が生じている
どうも他のものをほったらかしでOSだけが独走してるように思う
相性が大事だと思う
その辺りの不満は「ウィンドーズ10は試供品か」という題で遠慮なくブログにも書いた
(「ウインドーズ10は試供品なのか?」はここをクリック)

1万円近く払ったウィルスソフトがアップグレードに対抗しなかったのはウィルスソフトの限界を感じさせられた?
が、無償アップグレードのキャンペーンが終わってもはや1か月以上になる
小生のパソコンも勝手に動き出して10にアップしたが、今はこの際10に慣れる方を選んだ方がいいのではないかと思って10のままにしている
知識のある人はすぐに自分で戻すことも出来た筈
業者に頼んで解決してもらった人もいるが、日にちと費用がかかりすぎる
彼(老人仲間)の場合も以前のメールソフトが機能しなくてずっと困っていた
が、困ったことに、その時彼の場合はもう一つ冠動脈にステントを入れる入院が重なっていた
我ら初期老人もパソコンなくしては一日も暮らせないようになっている
ストレスはある程度慣れているつもりだが今回は心臓に響く
7月下旬、彼は買い替える決心をしたうえで阪大病院に入院した
もちろん暫くステント手術を終えて無事帰ってきたのである
すぐに彼は量販店へ行って、滑り込みでウィンドーズ8.1のパソコンを購入した
も一度やり直しであるが、ステントともども快調であると言ってきた

8.1から10にグレードアップした小生のウインドーズは「システムの復元」が出来ない
10から8.1に買い替えた彼のウィンドーズは「システムの復元」が今までと同じように容易にできる
3年はこれで行く、そのころには間違いなく10も大人になっているだろう
それから10に入れ替えると言う
ステント手術を乗り越えて経験が一つ増えたのだろう
OSのバージョンアップというのはなんだろう?簡単になるのと逆に難しくなっていく、小生にはそんな思いだけが残った

人生は時と一緒に流れている
もちろん元へ戻ることはできない
過去の好きな時点に戻すことが人間にも出来るなら失敗のない人生を歩めそうだ
しかし、それは悪魔の論理だ
人間には悪魔の論理であるが、コンピューターにとっては魔法の論理である、それがウィンドーズが持っている「システムの復元」というプログラムなのだ
コンピューターの進化の中でこのシステムを考えて組み込んでくれているウインドーズさんは偉いと思う、だが少なくとも彼は老人にはあまり優しくないということが良く分かった
※「システムの復元」についての説明は省略しております、そのため分かりにくいことをお許しください
写真は「元に戻れない」
鯵庵(9.3)


[PR]
# by ajiankyoto | 2016-09-03 09:50 | Comments(2)

通知簿はいやだ

b0355451_21011797.jpg
小生の時の小学校の通知簿は5段階評価だった
1クラスに50人(本当は60人だった)だったから、最高の5を貰えるものは3人くらいだった、4は12~13人くらい、3は20人で残りの15~16人が2の評価だった
教育的お情けで登校拒否しない限り1は2にしてくれていた
それでも相対評価である
3だったら親に怒られることはなかったが、4をもらえたら褒められた
4が複数あれば明らかに平均より上にいることの証明になった
音楽と体育はいつも2だったけど、それは別だった
ただ、先生のコメントに落ち着きがないとか、〝ちょか(?)″とか書かれた
明朗とか活気があるという明るい言葉はなかった
それでせっかくの複数個の4を上手く打ち消していた
社会へ出て社員5人おればそのうち仕事しているのは1人であることに気づいた
あとの3人はその1人に引っ張られて仕事している
それでも、最後の1人は仕事はしない
この1人に邪魔をさせないようにさえすればチームは仕事をしていることになる
これが現実だと

サラリーマン生活の最後の頃人事評価が流行った
会社での評価もA・B・C・D・Eの5段階だった
絶対評価だったから最初はD・Eをつけなかった
評価者自身も評価されるのが怖かったこともある
やがてそれが昔の小学校のように相対評価でなければならないと言われだした
評価制度のメリハリが必要になってきたわけである
どうしても一定の割合でD・E評価を指定せよという
小学校の時と違うのはEは落第(整理対象)なのだ
しかも本人に告知せよという

AやBは好き嫌いで選んだ、そのかわり誰にもEをつけなかった
それでもDの人からはちゃんと見てくれていないという不信感ばかりだった
上からも下からも評価をちゃんとしない管理職として評価された
C評価の上司がC評価をくれたら世間がC評価をくれたようなものだ
仕事をしたいサラリーマンにとっては、それが一番の安堵だ
逆にE評価の上司がEをつけた部下はひょっとしたらまれにみる逸材ではないだろうか?
例え本当に仕事をしているのは5人に1人であってもチームと言うのは全員が仕事をしているという錯覚で成り立っているのだ
毎年こね返されているのが評価制度だ
会社にとって要らないと言うなら、そんなめんどくさいことせんでも社長が一人で決めればいい
理由は規則違反でいい
自分のつけを自分で払えるのは会社では社長だけである

NHKのど自慢はスタート時から絶対評価である
3段階評価なのにカネ1つはもう何年も出さない
カネ1つでもいいかと言えば出てくれる人がなくなってしまったとも言える?
評価制度の行きつく先が見えたような話である
写真はニラの花
鯵庵(9.2)
「サラリーマンあれやこれや」はここをクリック


[PR]
# by ajiankyoto | 2016-09-02 07:46 | Comments(0)

b0355451_20421017.jpg
パンフレットには鹿苑寺(金閣寺)の舎利殿・金閣を英訳して〝ゴールデンパビリオン”と書いてある
パンフレットの説明では、「金閣は舎利殿である」とあるが、本来、「舎利殿が金閣と呼ばれている」である
どちらでもいいのだが、日本人の英訳であることは間違いない
日本語のガイドブックだって同じこと、既成のパンフレットをそのまま写した様な直訳方式が得意だ

ガイドというのは入り口を間違えないようにしてやることが大事
書き手の勉強不足が大きい
一方、ガイドブックに文句を言うのは分かるけど、ガイドブックと違うと言って苦情を受けることもあるとか・・
「旅行者の求めているものがガイドブックです」というのが出版社の答え
ごもっともな話だと思う

ならばこちらも・・
寺や店から見ればガイドブックは一番の広告であるのは事実
観光情報というものは作られたもの、すべて個別の意思と意図を持ったものと知るべきである
インターネットの世界と同じである、せっせと口コミを書いてもらわなければならない
ほとんど自分で書いているらしいが、その時、やはり必要なのは確からしさ
眉唾(まゆつば)では困る〝確からしさ″というのは観光客の心理を分かった上での正に文芸の世界である
情報は知識となるうるが、情報を選ぶのもが知識であると思う

客のほとんどが仏の教えを聞きに来たわけでもなく、本の写真と同じやと感心されてばかりでは、結局旅行者も京都を学べないし、京都の人も旅人に触れられない
世界中、日本全国同じことです
アジアのさる国からきたお客さんを金閣寺に案内したことがある
相手は既に世界遺産のガイドブックで見た金閣寺を見たかったのだ
禅の心は分からないし説明する力もなかった
しきりに金箔を貼った建物をほめていた
お客さんは英語が少しわかる、通訳はパンフレットの英訳を読み上げていた
ちょこっと意地悪に、「60年前に再建されたもので私より若い」と通訳に言うと、それはパンフレットには書いてないと通訳しなかった
結局、旅行者はガイドブックの書き手のチエックをしているようなものなのである
写真はキツネノカミソリ(園芸種)
鯵庵(9.1)

[PR]
# by ajiankyoto | 2016-09-01 07:30 | Comments(0)

b0355451_07572319.jpg

鬼平犯科帳、BSでずっと再放送をしている
平成元年7月に始った第4代目の鬼平役吉右衛門シリーズがいい、その「五月闇」は非業に密偵の伊三次が死ぬ
小生が師事(?)するカルチャーのスーパー講師(女性)が好きなのが鬼平の密偵伊三次
小説「鬼平犯科帳」の主人公は鬼と言われただけのことがあって盗賊にもモテる
小生も小説の密偵の中で作者が力を入れている伊三次(いさじ)という男が好きだ
伊三次には泥棒としての業と男としての業が合わせ描かれている

伊三次は捨て子である、小説によれば伊勢の関宿の宿場女(女郎)たちに育てられた
10才で油屋に奉公にあがるが・・・、それしか生きていく道がなく、捨て子の素性でやがて悪の道に入る
悪の道は仕方がないことながら、それゆえの業を持っている
伊三次の20代は盗賊の配下だった
29歳のときに盗賊の女房と逃げる、その女を殺す
その後鬼平に拾われ、密偵を勤める

役宅の長屋で寝起きする、きびきびとした動きが出来る一方、地面を這いながらで一人で生きてきた男を描いている
人が好きではあるが人とは〝つるまない″男である
あるいはそのときそのときを生きていくことに精一杯であるが、変体が下手な男である・・が、生き抜ける力は持っていたと思う
〝希みもないが死ぬ度胸もない″伊三次である
鬼平の登場人物の中で同じく密偵おまさと並んで人気のあるキャラクターでもある
テレビでは最新版では平成元年から俳優三浦浩一が演じている
鬼平は無頼派であっても高級官吏である旗本、作者は主人公の男としての這いつくばってる男の業の部分を伊三次に置き換えて書いているように思う

しかし、伊三次の素性は泥棒である、過去に人も殺した
それでいて一分の隙もなく密偵として働く二つの面を持っている
いかに鬼平に拾われようともどうしようもないというものを作者は描いている
伊三次にとってはもう一つ密偵としての業を増やしただけのことだからだ
岡場所のおよねと一緒になったらどうかと鬼平に言われ、泥棒としての過去を捨てようと思いかけた時に昔の業によって昔女房を盗ったその盗賊に殺される
実は伊三次を殺したのは作者である
昔の業を逃れられない密偵の男を書きたかったからである、と
小説連載中、伊三次の死は作者にも重くのしかかっていたという
その鬼平に多くの女性ファンがいたのは嬉しいことだ
女性ファンは伊三次が好きみたいだなと思った
もちろん男性ファンはおまさ(梶芽衣子)の次におよね(池波志乃)が好きである
それにしても役者も我らと同じように齢をとってきた
最初の放映で伊三次が死んだのは平成7年である
それから20年、鬼平シリーズはとことん再放送で楽しむのが面白い
写真はカナヘビ
鯵庵(8.31)
「火盗改め鬼平の京都」ほここをクリック


[PR]
# by ajiankyoto | 2016-08-31 08:13 | Comments(0)

おてしょうの文化

b0355451_08150954.jpg
"てしょう"とは天塩(てしょう)皿のこと、ラーメンのことではない
一部に方言と勘違いされているが、"天塩(てしょう)"が標準日本語である以上"おてしょう"も方言ではない
天塩とは天塩皿(てしおざら)の略、元々は小さな皿に塩を持ったものと辞書にある

そうなんだけど、今で言えばただの小皿、取り皿のこと
京(ここいら)では”おてしょぅ”と発音することが多い
死語になりつつある?・・が、”天塩(てしお)にかける”と言ったらわかる人は多い
かけるのは天塩皿にもられた塩である、愛して自分の手で大事に育てることである
和食がユネスコの無形文化遺産に登録されている
まさに料理人が天塩に掛けて育ててきた和食文化だろう
たしかに懐石料理などは和食を代表するものかもしれない
しかしながら懐石料理には゛てしょう”は不要、出る幕もない
一方、小料理屋や家庭の料理や特におせちなどには大いに出番がある
上品そうに手皿(手を皿のように使っている様)を多用する人が居るが、あれはエチケット違反なんですよ、そういう時こそ〝てしょう″を使うべき

宮廷料理以外全て家庭料理である
10年も修行しなければならない懐石料理も家庭料理なのである
和食の定義には、゛てしょう”の文化が不可欠だと信ずる小生には懐石料理は無縁である(やせ我慢を大いに含む)
むしろ取り皿を使用するエチケットが残っている居酒屋の方に家庭料理を感じる
それでも、取り皿は通じても"てしょう"は通じなくなってしまったのを残念に思っている
写真は和傘(料理屋の看板)
鯵庵(8.29)


[PR]
# by ajiankyoto | 2016-08-29 07:44 | Comments(0)

京都で生きる

b0355451_21255481.jpg
「自分で決めた規範なりを自分が最後まで守ることは難しいことだと思う。だから別れた後は人より自分を見てます・・」、と言うMさんがブログを始めた
読者の一人になってくれとメールが届いた
自分の昔の苦労を枯れた口調で語れるようになればこその話である
でも言いたいことがある、と言っていた
「家庭人にだって家族・家庭として、男と女にもマナーがある。悪意の多くは本人が気付いてないものだし、意図して隠しおおせばそれを裁いてくれるところはない。」という。
離婚に踏み切った時の気持ちの一端を書いている
恨みではない悔しさだと言っている
一部ブログの本文を引用させてもらった

東京で結婚して暫く大阪で暮らしていたらしい、それが離婚を期に覚悟を決めて京都で仕事を見つけた
落花は枝に還ることはない
東京にも帰らず、娘さんと一緒に京都で暮らし始めた
覚悟した仕事ぶりでそれから数年で大きなレストランのお昼のマネージャを任されるようになった
東京育ちの奥さんだったのも分らないくらいに仕事にも馴染んでいる
京都人に負けない京都人になってしまった
京都人になろうと思ったら思い切れたと言う、不思議な力を持った人だ
もう一つ魅力がある、きれいな標準語なのに周りの誰も気づかない
教養の都で培った教養は腐らない?標準語になり損ねた京都の言葉も本当はそうだったのだろうな
あんなにドスの効いた"・・どす”なんて言葉は東京の嫌みなドラマでしか出てこない
都であった頃はそんな香り高い人を育てていた町だったんだろうと思った
マナーに反することも許さなければならないこともある世間ではあるが、自分はマナーを守りたい・・そんな人の書く日常生活のブログもいいよな
京都の女(ひと)というのは京都の人のために京都で働いて京都で生きて行こうと決めた人のことである
それが都市としての京都の先進性であるというのが小生の論である
ブログのアドレスが違うが何回も「イイネ」の世界である
それにしてもどこのブログもイイネ一つ何でこんな難しいねん
写真は達磨
鯵庵(8.27)



[PR]
# by ajiankyoto | 2016-08-27 07:11 | 女紋 | Comments(0)

b0355451_07453597.jpg
ぼちぼちホームセンターで家庭菜園用のネギ苗が出てくる
ネギというのは実は冬のものである
秋にタネをまいて次の年の晩秋になる、ネギは時間と手間のかかる野菜でもある
ただ、我々は家庭菜園組は夏に一度掘り上げた乾燥させたネギ苗を植え付ける
新鮮なネギの葉の内部にはぬめりがあるのが特徴でもある
寒さと霜にあたったりしてこのぬめりが多くなり甘さが増す
青ネギでも白ネギでも鍋物にはいいのはこの事情による

薬味に使うネギは青ネギである、
多くは九条ネギと言う品種の仲間である
今が植え付けの時期である位だから、夏にネギの出荷は難しく価格は自然に高くなる
ところがうどん屋やラーメン屋のネギ入れ放題は年中である
これは「きざみ葱」である、カット野菜の一つである
昔から都会のスーパーにはあったが、今は大量のネギを工場できざんで流通に乗せている
しかも、ここ数年、きざみ葱の需要が急上昇である

少しきざみ葱について考えるようになってきた
天かすもきざみ葱も鮮度が命である
そもそも年がら年中ネギが出来てるのだろうか、瑞々しそうに見えるが、よく見るとぬめりがない?
ネギの出荷量が多いのは東京近郊県である
が、九条ネギの本場ということもあってかそれでも京都近郊にもネギ畑が沢山ある

この時期、日照りの中で黄色くなりかけても、ネギ畑も不思議ながら雑草一本生えていない
その隣に、ネギ屋の大型トラックが停まっている
作付け面積が伸びて需要が毎年伸びているのがきざみ葱なのだ
今がネギ屋の売り込みの勝負時かもしれない
讃岐うどん専門店やラーメン屋の繁盛を支えているのはきざみ葱だろう
無料のトッピング、小生もネギ多めとかネギ入れ放題が好きである
精一杯、キムチや天かすやネギをケチってる店に明日はないと予言してやる

ネギは冷凍すると風味が戻らない・・この時期ネギは高い、それなのに、きざんだネギの方が安いのは怪談ものだと思う
京野菜の九条ネギも登録商標ではない、九条ネギの種であればどこで作っても九条ネギである
そんなこんなで、きざみ葱の鮮度(ぬめり)を見ながら店選びをすることにしているのだが・・

写真はネギ苗(※参考)九条太ネギは大阪原種のネギ、冬に美味しい代表的九条ネギ、京都でネギづくりが始まったのは平安遷都の頃と言う
鯵庵(8.25)
「ネギと天かす⑴天かすに化かされたタヌキ」はここをクリック
「ネギと天かす⑵あんかけうどん」はここをクリック
「ラーメンはまだ遺産にならない」はここをクリック



[PR]
# by ajiankyoto | 2016-08-25 09:08 | Comments(0)

b0355451_20543929.jpg
道祖神(どうそじん)と言うのは民間信仰の神である、賽(さい)の神である
誤って迷い込まないように世界の境を守っている
外部の侵入者を防いで村々の安寧を守るものであった
後に神道の猿田彦(さるたひこ)神に習合(しゅうごう)したり、近世になって仏教の地蔵菩薩と混淆(こんこう)したりと言うのが、小生の理解である
街角や、道端や分かれ道に見る"お地蔵さん”はその習合・混淆したものである
何度も言うが現世と来世にまたがるスーパーな佛が地蔵である
様々な形で祀られているが、伝説では少年の形で現れるとも・・そんなことから子供達を守るためにも素朴な童顔の仏にもなる

地蔵菩薩のいわゆる縁日は毎年24日であるが、7月の縁日は地蔵会(じぞうえ)と呼ばれる
こちらでは月遅れ8月24日になる、同じく月遅れのお盆に近いことから地蔵盆と呼ばれている
この”お地蔵さん”の受難は明治の廃仏稀釈であり、迷信として退けられ多くの地蔵の祠や石仏が壊(こぼ)たれた
それだけでなく、街路拡張のためにも邪魔になったと見えていじめられた
明治も半ばになって、京都の市民も落ち着きを取り戻すようになってきた
それに伴っての各町内での地蔵会が復活されるようになってきた
地蔵に化粧して供物などを供えて、子供たちにお菓子やくじ引きや子供を中心にした祭りである
地蔵盆の終わりに盆踊りをすることもあった
子供にとっては夏休みを締めくくる重要行事である

京都が独自の文化都市として再出発するのは町が中心となった小学校の設立とこの地蔵盆の風習を残してきたことが大きなことである
町内自治の必要性があったから残り、必要性がない地方では廃れていく事例でもあると思う
縦横のつながりは町内を超えて保育園や幼稚園に移行している
幼稚園の夏祭りがテレビで地蔵盆行事として紹介されるようになってきた
(この項続く)
鯵庵(8.23)


[PR]
# by ajiankyoto | 2016-08-24 06:03 | 地蔵菩薩 | Comments(0)

b0355451_15115017.jpg
それは駐車監視員というらしい
全国共通のグリーンの制服を着た人が二人連れでタブレットをもって回ってくるのは知っていた
そういえばひと時交通巡視員と言うのがあった、その交通巡視員?かと思いきや、今は交通巡視員は警察官に吸収されている
10年ほど前(2006)の道路交通法の改正で駐車取り締まりが強化された
この駐車監視員と言うのが出来た、民間会社に警察が委託することが出来るようになった
この業務につくためには警察権を行使するための講習を修了しなければならない、みなし公務員だから収賄(しゅうわい)が禁じられているのは警官に同じ

街中ではその二人連れ(駐車監視員)に何組も会う
職員にしたら〝駐車違反を上げてなんぼ″の世界
そういうノルマは設定していないと警察は言っているようだが・・
しかし駐車違反は運転手の顔を見なくていい、運転手が帰ってくるまでに逃げればいい
商売の町では〝車は停まってるときに仕事しているのだ″と力説していた議員さんがいる
ええこと言うと思った、ただ言い続けて欲しかった
取り締まり方に文句言うのも議員の仕事だ、が、解決はしない
議員さん風に小生が言いなおせば
〝走ってるときは車が仕事をし、停まってるときは人が仕事している、人が仕事をしているときに忠実に従う(待っている)のがいい車″だと言える、それが働く車である

チョット離れた自動販売機に缶コーヒーを補充している間に駐車違反の写真を撮って件(くだん)の駐車巡視員二人が自転車で去った
近所で店番していたおばちゃんはドライバーに知らせに走ったようだが遠くて間に合わなかった
それを見ていた客待ちタクシーの運転手が「ベンツも捕まえろや」と巡視員に精一杯応援ブーイングをしていた
病院の前に停めた介護タクシーもやられていた
駐車監視員二人は素知らぬ顔をして自転車をこぐ
明らかに働く車である、よく働くいい車は主(あるじ)を駐車違反の犯罪者にした
それでこそ駐車監視員はノルマを達成できる
お盆の帰省のために減った獲物もやがて帰ってくる
この頃はバイクが狙われているぜ
仕事としては肉食系の仕事だね
写真は黄蜀葵(おうしょっき・オクラの花)
鯵庵(8.23)

[PR]
# by ajiankyoto | 2016-08-23 08:22 | Comments(0)

b0355451_09062495.jpg
もう観光地京都を見てしまって、見るとこがないと堂々と言う人が増えてしまった
京都嫌いは構わないのだけれど、市民にしてみれば見てしまったと言われるのはつらい
大したおもてなしも出来ないけどそれじゃうち(我が家)へ泊まってくださいと言いたくなる(言いたくなるだけ)
見るところがないというけど、見るべきところは何処だったのでしょうね

京都はすでに観光客の数には不自由していません
でも、それだけではやっていけないのがビジネスです
鉄道だってホテルだってレストランだって土産物屋だってそうなんです
失礼ながら観光寺院だってそれが経営の上で効果的なことを知ったわけです
業者が用意してくれるものは言い換えればそれは多数という名の客が教えた答えなんです
京都の観光業者の気質は京都に来る人(もちろん京都の人も含めてです)の一番多い期待を反映したものだと思います

実は業者も学んでいるのです
特に観光業というのは、結局は一番多い悩みを探してその答えを用意するのを業とするものです
読みが当たれば商売が成り立つわけです、毎年その繰り返しで学習した結果なんです
そんな京都が嫌いだという人も増えてきました
この頃やっと旅人の大多数が実は個性的な少数派だとわかってきました
それでも、市役所も観光業者も犬が羊を追うように群れを見てるわけです

そこが落とし穴なんです
観光業は観光客それぞれの期待には永遠に応えられない業種なのです
割り切れない一人一人の割り切りを合算して加重平均したものしか用意してくれないのです
″皆が行きたくて誰もいないところ”を観光業者に探してもらうなんてものは大きな矛盾です
が、結局はあなたの思いとはミスマッチの結果に終わります
それはもはや旅ではありません
人生でも同じようなやってませんか、そっちは精神科の問題ですけど
店や業者は割り切れない多数の一見さんを相手にそれで商売が出来るのですが
市長や市民までが群ばかり見て浮かれてしまっては気付けないことになります
写真は杖と壺、壺が大きくて杖立てに使えない
鯵庵(8.22)


[PR]
# by ajiankyoto | 2016-08-22 07:41 | 都市 | Comments(2)