梅の花は全国共通

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3月に入って京都の気温も上昇してきた
大阪から来たかいこ氏とともに京都散策を楽しんだ
京都駅から正面通を東へ豊国神社から三十三間堂あたりまで
ぼちぼち観光客も増え始める、そんなタイミングかな
サクラはまだまだだけど、ウメは盛り

写真も趣味の二人だけど、今日はウメの香りを楽しむつもり
東山七条の根来寺智積院は梅の名所でもある
デジカメでウメは難しい、光が通って色が出ない
昔のマクロレンズが一番である
などとしゃべりながら早い目に京都駅前の居酒屋に
出来たら京都の味を楽しんでもらおうと思った
飲み放題でもないのに入った途端に2時間の時間制限を了承させられた
時間が迫るとラストオーダーでせっつかれる
頼んだ料理を十分に堪能する間もなく、払い放題で店を出た
金曜日の晩なら大阪ではそんなもん、と、かいこ氏の話
この頃は長いこと居座る外国人?もいるとか
ひょっとしたら京都のこの店も大阪資本かも

いずれにしろこれも観光関連業者、今の京都の状況でもある
”ごゆるりと”とかあるいは”おもてなし”とか看板だけが京都風で、
また京都の二枚舌と冷やかされそうな気配、恥ずかしくなって二軒目は王将にした
”王将も京都発祥やで”と全国共通のギョーザを味わった次第である
ウメの花だって全国共通、だけど京都のウメを見たいという人には、
ウメの花でもそれなりのシナを作る
おもてなししているのはウメの花だけか・・?



これが1年前、思い立って書いた小生の最初の投稿である
友人かいこ氏を使って(出演していただいて)思いと不満を書いた
私が小生という一人称を使い、かつ題名を鯵庵の・・「京都不都合事情」としたのはこの日の気分だった
それから1年かかって300編近くの悪態を書いた
でも、続けてきてまだ序の口である
歴史を書きたいけどそればかりでは退屈させてしまう
さりとて不都合も悪態も自分で言うほどのことではない
イイネをもらうことの縛りから逃れられなくなっているともいえるし
毎日きちっと食してくれる人もいる
噛み砕いて食ってくれたら滋養になるかもしれない
多くの友人に出演してもらった
女性の持つ神秘的なパワーを応援したい気持ちもブログを続ける動機である
一周年を記念してこの1年ブログに出演していただいた友人たちのプロフールを整理して紹介しようと思っている・・・鯵庵(3.4)

# by ajiankyoto | 2017-03-04 07:55 | Comments(2)

崇徳院の母



後白河院の父は74代の帝鳥羽院
母は藤原璋子(しょうし、たまことも、1101-1145)、待賢門院(たいけんもんいん)である
待賢門院の父は権大納言公実(きみざね)、母は光子、鳥羽院の乳母だった
7歳の時に父を失い、白河院を父がわり、祇園女御を母がわりとして育つ
やがて白河院の孫、鳥羽帝に入内、約1年半の後皇子生む
それが第一皇子であり、すぐに崇徳帝となす
8年後雅仁皇子を、それが後の後白河である
それまでの世は養父白河院の治める時代だった
白河院がなくなって鳥羽院が治天の君となって廷臣を統率
崇徳帝の人生が暗転する
鳥羽院は美福門院(びふくもんいん・とくこ、)を寵愛し、その3歳の皇子に帝位を譲らせた、それが近衛帝である
権勢を失った待賢門院は西ノ京、双ヶ岡(ならびがおか)の寺に入って落飾する
それが法金剛院の再建につながる
数年を経ずして40余歳で亡くなった
今は花園駅の前、関西花の寺、蓮の花咲く時期には境内が一杯になる

その後10年の後、近衛帝が17歳で崩御する
鳥羽院は最後に、後白河を帝位につけて崩御する
院は崇徳院、帝は後白河、母を同じくする兄弟が並び立ったのである
崇徳は自らの皇子を帝位につかせたかったが、鳥羽院はそれだけは許さなかった
崇徳院は自らの院政の継続も期待したかもしれないが、後白河はすでに壮年、しかも弟である
母を同じくする兄弟、しかし父(鳥羽帝)は最後まで自分の子として認めなかった
祖父と待賢門院の子である?そうであったら父系の系統から言えば遠い、その疑念をはらしようがなかった
帝位は時の絶対権力者鳥羽院の血筋でなければならなかったとすれば当然のことだったのかもしれない
この後、すぐに始まるのが保元の乱である
乱は帝位だけでなく、藤原氏の宇治の長者また台頭してきた武士の覇権争いも一緒になっての始まるのである
崇徳院は弟後白河対して「文なく武なく・・」と帝位に相応しくないと明らかに苦々しく思っていた節がある
その「・・武なく・・」と評した後白河帝に、一日の闘いで負けてしまうことになる
物語を読み、歴史の流れを知る我々には分かることだった
崇徳院には分らなかったのは仕方がない
10年前に亡くなった待賢門院は知らなかった方がいいのかもしれない
待賢門院は法金剛院の五位山の背中、花園西陵に鳥羽の皇后璋子として眠る
璋子が生きたのは今から900年も前の話である
写真は法金剛院にて
鯵庵(3.2)





# by ajiankyoto | 2017-03-02 07:18 | Comments(0)

花見小路に思う


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京都の祇園花見小路、旅行者で一杯である
小生も一度くらいは祇園で飲みたいと思う
もちろんお茶屋へ上がって芸者を侍らすのでない限り金さえ払えばいくらでも飲める
この頃の舞妓や若い芸者はお座敷でも上手く会話が出来ないで私語ばかりだと
さる大物評論家の先生がおっしゃっていた
そんな現場に小生が立ち入ることはないが、ある意味で貴重な証言である
旅行者でも「夫婦子供連れで歩くのはやめときなはれ」と言うてやりたい

花街(かがい)は京都の中で他の京都と違うのは不倫が許される街である
「不倫は文化」云々を言った芸能人もいるらしい
浮気は病気である
そんなものでも文化などと言いきれるのはいかな京都でも限られた花街だけである

夜の世界はスマートに金を払って遊ぶところである
お茶屋や料亭に来る芸者はそのための接待の専門職スペシャリストだ
金さえもらえばどこへでも行くというのでもないらしいが
それなら、観光客に舞妓や芸妓の技を見せるものではない
置屋もお茶屋もその生活の場と仕事の場
昼も夜もあれほどの勢いで観光客に歩かれ、店の中を覗かれたのでは
何かと不倫には不便なことである

幕末ならともかく
こんな京都で小股の切れ上がった芸妓衆の高度な接待技術が役に立つような商用などあるのだろうか
言っておくが今の花街は遊郭ではない
もちろん遊女や花魁(おいらん)などいない
でも花街の夜の闇は不倫である、そのための街なのだ
芸者が勝手にお客をとることは出来ない
お茶屋を通さなければ世間の眼にさらされる
それが世間の不倫になる

不倫は不義ではない
花街でも、お茶屋のお世話にならなければ素人ということになる
芸者を連れて昼間にホテルにしけ込んだのでは花街のルールに反する
花街の・・などと言うから分かりにくいのだ
大阪ではそれを現代用語で店外デートと言う
不倫の町でも店外デートはご法度なのだ
祇園で遊ぶ人こそそもそも不倫に金はケチりなはんなや
鯵庵(2.27)





# by ajiankyoto | 2017-02-27 17:16 | Comments(0)

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上巳の節句の大事件と言えば、安政7年(1860)江戸城桜田門外で起こった桜田門外の変
旧暦3月3日上巳の節句の総登城の日だった
ただ、この日はグレゴリオ暦(太陽暦)では3月24日にあたる
東京では異常な大雪だったようだ
その異常さが近江彦根藩15代の名君井伊大老の油断の原因だったかもしれない

江戸時代なって幕府が定めた節日は1月1日と八朔(8月1日)と五節句である
五節句は1月7日(人日)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)である
幕府の年中行事として極めて重大な日であり、御三家、諸大名の総登城の日でもある
上巳の節句は、それほど重かった
徳川家と幕藩体制を祝う日である
だからこそ、明治6年には廃止された

徳川幕府だけでなく日本の歴史が大きく方向展開するきっかけになった日である
彦根藩邸は桜田門から3~400名メートルの距離である
ここに最大の不覚がある
大老は政治家であって武芸者ではない
10分程の戦いで大老自身は武ばって戦うことなく、また逃げ込むことなく首を取られた
家来たちが守れなかっとしたら仕方がない
それが政治家たる最後の所以である
幕府を守るということの難しさを表現したことになる
近江半国を所領する徳川家の重臣であり幕府の大黒柱であった井伊家の幕末の凋落がそこから始まった
14代将軍家茂の時代、明治維新までの8年前のこと

ついでながら言えば、大昔、NHKで「花の生涯」(舟橋聖一原作)をやっていた
井伊直弼役は2代目尾上松緑だった
8代目松本幸四郎の弟だ
今も何か井伊家のドラマをやっているらしいが・・
歴史的考察については”フィクションだと割り切って見て欲しい”とNHKは開き直っている
文学やフィクションとの区別がわかる人が少なくなってきている時代にはふさわしくないコメントだ
テレビは単に娯楽であることは承知しているが、商業上の視線で過少化して見ることは歴史の価値をマイナスにしてしまう

も一つ、ついでながら言えば、この年アメリカではリンカーンがアメリカの16代の大統領に当選した年でもある
ただ、数年の後、奴隷を開放し南北戦争に勝利したリンカーン大統領も凶弾に倒れた
ちょうど世界が現代に向かって動き出したころのことである
鯵庵(2.25)


# by ajiankyoto | 2017-02-25 07:31 | Comments(0)

人間はもっとやれる?

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市民マラソンが行われて1万数千人ものランニングウエアーが走る
スタッフの数も負けてはいない
沿道もスタッフも声をかける
「ガンバレー」と

何かをする人に、何が応援になるのだろうか?
トイレもほしい、給水もバナナもイチゴも配ってもらえる
声援も欲しいな、そう思えば安上がりな「ガンバレー」の声も聞こえる
頑張ってるんだから・・今、何を頑張れと言うのだろうか?
ただ、ガンバレーの応援は応援してくれる人によって効果が違う

人は一杯頑張っている
その中できっとマラソンだけガンバってる人も多いだろう
頑張らなくていいならマラソンなど出ないと言う
頑張らなくていいなら人生などないだろう
一人で走ってるときは誰の声援もなかったのに・・
なまじっかな声援など要らない?

それでもやはりマラソン走ってる最中に「ガンバラなくてもいいよ」というのはおかしいよね
鯵庵(2.23)

# by ajiankyoto | 2017-02-23 09:34 | Comments(0)

上巳(じょうし)の節句


上巳の節句というのはもともと旧暦3月の最初の巳(み)の日
後、重三(ちょうさん・・三が重なる日)として3月3日に
奈良時代・平安時代ともけがれを除くため人形(ひとがた)を川に流すことから、
後に人形(にんぎょう)の祭りに進化していった
曲水の宴の原型にもなった

江戸時代中期から裕福な庶民(商業人)の財力はやがて頂点に達し、
財を誇りつつ公家の優雅をまねた趣向で家族の厄除けを祈念する行事となり、
女性信仰の雛祭り昇華していった
と言うのが・・定説

庶民にとって女子のご利益を祈念する気持ちの表れが自然に定着したと考えるのが人情の論理
端午の節句(5月5日)と対をなして、子供・家族・社会の平安を願う気持ちで続いている
旧暦の3月3日は今の4月初旬になることが多いが、今年は3月30日になる、ソメイヨシノが開花する時期になる
桃には少し早いかもしれないけれど・・それでも春爛漫である
そんなことから桃の節句と言われるようになった
結局、新暦の3月初めに桃が花が自然に咲くことはない

3月のひな祭りの桃の花を用意するためには大きな温室がいる
しかも、切り花用の樹形に育てなければならない
どんなに上手く栽培しても切り花の桃の花に実を成らすことは出来ない
花としての桃である、桃にとっても花だけの人生(?)である
だからこそ、桃の花は邪気を払う
3月の桃は、そんな花だと思って見てやらねばならない
鯵庵(2.21)



# by ajiankyoto | 2017-02-21 17:36 | Comments(0)

油掛地蔵と伏見の酒


松尾芭蕉が京都に寄ったのは江戸期の5代将軍綱吉の時代(貞享年間1685)のこと
俳諧で馴染みの西岸寺の住職であった上人との邂逅を果たした
この寺なり、俳諧集「野ざらし紀行」に記述がある
「我衣(わがきぬに)に ふしみの桃の しずくせよ」という句碑もここにある

伏見城も無き江戸期の伏見の街はこのあたりが中心だったと思われる
北は大手筋、南は伏見港、ここは油掛(あぶらかけ)通りと言われる
その京からの街道(竹田街道)の交差点に駿河屋という和菓子屋がある
明治・大正・・そこらが日本最初の営業電車・京電の終点だった
その隣が西岸寺だ、油掛け地蔵がある
大坂へ下る伏見港を目の前にして伏見最大の繁華街であったはずだ
伏見の町は江戸政権の誕生で直轄領として大坂に並ぶ最大の商業都市であった
伏見は桃山である
小生らは今でも伏見城のことを桃山城と呼ぶ
安土に継いだ時代は桃山時代である
それが、大阪へも行かず、京にも戻らず、江戸へ行ったのである

それでも京の洛中・洛外には数百軒の酒蔵があった
伏見は洛外でもあったが、この地そのものが渡来人秦氏の持っていた酒造りの技術がベースになっている
伏見の港は京の酒を大阪や江戸に積み出す港でもあった
特に江戸期は伏見港と豊富な地下水で酒造りが盛んになった・・とある
伏見城のあった山は桃山と呼ばれる
今は、桓武天皇と明治天皇、平安京ゆかりの帝の御陵でもある

小生、俳句も芭蕉も詳しくはないが・・話を芭蕉に戻す
「桃の滴(もものしずく)」という銘の酒がある
その名は先ほどの芭蕉の句によるという訳だ
伏見城が廃城になって後に桃の木を多く植えたから桃山というと書いてあるものがある
が、小生、後先が違うような気がする
むしろ、秀吉は桃の木の山に城を築いたのではないだろうか
それは、都を望む桃山の桓武帝の御陵であった
秀吉は桓武帝の御陵に重ねて自分の京都支配の城を築いた、というと個人的仮説を持っている
都から見て御陵の山は桃の山であったのではないだろうか・・
あわせて「桃の滴」はずーっと後に単に伏見の一酒造会社の銘柄に用いられたが
芭蕉が伏見へ来たのは晩春であった、桃の花盛りを目にしたのだろう
伏見は桃山からの地下水で酒造りをしている
季語は桃であり、時期は新酒の美味しいころである
伏見の酒のことを”桃の花のしずく”と詠んだのではないだろうか
という二つの個人的仮説(?)を信じている
鯵庵(2.19)

# by ajiankyoto | 2017-02-19 09:17 | Comments(0)

湯豆腐が好きな人



豆腐は日本に伝わって後、室町時代の後半に広まったものと思われる
以後、日本の豆腐は白く柔らかい食感が特徴である
「白壁」と書くと豆腐のことである
江戸時代に入って凍り豆腐(高野豆腐)なども現れる
なお種々の豆腐料理が普及した
もちろんおからも油揚げも豆腐である

湯葉やおからの料理も京・大坂で栄えた
豆腐類は精進料理には不可欠なものであり、寺院だけでなく公家や武士が必要な栄養を確保するためのものであった
が、やがて庶民に広がっていったのが懐石料理である
京都の寺院の中には参拝者を宿坊に泊める
この時寺院料理が提供される
寺院と料理屋(仕出し屋)との結びつきは歴史が古く、そんな謂れが観光と結びついたのが現代の現状である
その中で最もお手軽なのが〝冷やっこ″や〝湯豆腐″である
料理人がいなくとも食える湯豆腐ごときに・・・と言ってしまったのがその理由である
もちろん豆腐をけなしたのではない
湯豆腐は高い金を払って食うより家庭の方が似合うと言いたかった

全国の豆腐師さんが腕を競った豆腐の品評会がおととし京都であった
金賞をとったのは長野県松本の「悟郎のきぬ」、銀賞は千葉県の「菜の花豆腐のもめん」であった
日本一に輝いたのが一丁税込みで194円とのこと
第2回(去年)は熊本で行われたが、金賞は栃木県の「匠選極もめん豆腐」、福岡県の「絹ごし豆腐」それぞれ1丁200円・210円である
純に豆腐にこだわったのがそれが豆腐なんです
1丁200円で全知全能の日本一の豆腐が食えるのです
しかも全国都道府県、品評会参加のメンバーを見れば・・ほぼ差がありません
心配しなくとも賢い消費者はしっかり各地の美味しい豆腐を知っています

消費者の賢さが全国に通用する豆腐を1丁200円で抑え込んでいるのです
これはいいことです
京都の豆腐も同じです
京都の豆腐は美味しいですが・・特別なものではありません
湯豆腐屋の値段は豆腐の仕入れ値段とは関係なく決まっていると思って差し支えないようです
寒い中並ばされてまで湯豆腐ごときに高い金を取られないでください
料理は心と技です、飲食業の付加価値は無限です
ですが・・湯豆腐にして何ぼで出そうと勝手ではあるが・・
高ければ美味しいと思ってる自称グルメには向きませんよ
家で食べるなら、丸々楽しめるという理由です
旅行者の皆様に水を差すようですが・・
だから、湯豆腐は自分の郷(さと)の自分の家で楽しむものです
写真はタカラガイ、かぐや姫のコヤスガイのことでもある
鯵庵(2.17)



# by ajiankyoto | 2017-02-17 22:04 | Comments(2)


BSで「鬼平犯科帳」を見ている
八代目松本幸四郎である、初代の白鸚(はくおう)である
還暦まで91本の鬼平を演じた
東宝の作品である
池波正太郎はこの幸四郎をイメージにして小説を書いた
小太りの感じである
もう一人の小太りが木村忠吾である
古今亭志ん朝が演じている
うさぎ顔の女好き、うさ忠という鬼平にへばりついても憎まれぬ同心役である
小説やドラマの狂言回しの役どころである
古今亭志ん朝は珍しい落語名人だったが、このあたりのドラマ出演がいい滋養になったのだろう
息子に忠吾と名付けたとどこかに書いていた

仮にあなたならどんな役をやりたいかと聞かれればであるが
拙者は木村忠吾である
鬼平も盗人の親分も勤まる筈がないし、どう探しても、出来るとすればやはり忠吾しかないだろうね
だが、実際は役どころとしては一番難しいらしい
「気が弱いのに明るい」という性根を演じることは難しい
志ん朝はよく演じていたと思う
気が弱いことも明るいことも間違っても軽いことではない
どの役でも、命を懸けて生きている様を演じなければならない
下手すれば自分など端役すら勤まらないと思わせられる

鬼平犯科帳は歌舞伎でもなければ、劇画でもない
幸四郎も歌舞伎を演じているのではない
し、志ん朝も落語を語っているのではない
それが、ドラマなんだろう
人生の中で本当に演じられるものでないとドラマにはならないと思う

それから20年の後にその幸四郎の次男中村吉右衛門が鬼平犯科帳の人気を不動のものにした
それは、吉右衛門が鬼平の息子長谷川辰三を演じていたことにもよる
やせて尖った辰三であったが、いい親子の機微がドラマにも出ていた
歌舞伎ではないドラマだった
それはやはり幸四郎が息子吉右衛門を鬼平の役が出来る役者に育てたいと思ったのだと思う
残念ながら、小太りの名人志ん朝のうさ忠の後がいない
鯵郎(2.16)

# by ajiankyoto | 2017-02-16 08:27 | Comments(0)

看取り率?

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どこで死にたいかって?
そんなこと聞かんといてーや
病院が8割、自宅や老人施設が約2割である
自宅や施設で死にたいと希望している人は6~7割であるのに・・
国の統計である

現在の状況でこれぐらいだとすればあと10~20年後を予定している我らの時代はどうなっているのだろうか
不安になるのは当然である
国は何とか20年後には現在の2割を4割ぐらいに引き上げたいと目標を定めている
だがこれは場合によってはあきらめる他ないような数値だ
もう数年でやってくる団塊世代の後期高齢化
在宅医療体制や老々介護の実態がここ数年で解決できるとは思えない
何よりも余りに多くの老人に対して病床や介護人員の不足がやってくる
20年後なら達成できるかもしれないとしたら
・・それは団塊の波が行ってしまってからのことであろう

そんなことより、在宅での看取り経験が日本でなくなっていると専門家は指摘する
病院であろうと自宅であろうと老人用の施設であっても、家族があって初めて出来る相談である
これまでは"自宅や施設で"というのがキーであるが、これからは"家族の介護"がキーだろう
介護が出来なければ、病院が施設になり、自宅が施設になってくる
結局は施設で・・寂しくということになる
どこで死にたいかと言われても
既に住んでいるところの地域差の方が大きくて、結局は自分で選ぶことは出来ないのだ
統計結果はそんなことも示している

夫婦でこの問題を考えると
後になるか先になるか
それによって違ってくるのではないかと実感している
先に死にたいとは必ずしも思わないが・・、後になってしまえば多くのことをあきらめざるを得ない
自宅で看取られて死ねるなんて幸せは僥倖と言うに等しい
いずれにしても自分のことである
率とか割合ではない
地域差も他人のことも関係ない
はっきり言えば0か100かの世界である
看取り率は一度限りなく0に近づくと考えていた方がいい
鯵庵(2.14)

# by ajiankyoto | 2017-02-14 17:32 | Comments(0)