家族は大きい方がいい

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新しい家族を作ろうとした我ら世代は結局は家族を壊してしまったのではないだろうか
家族は本来の最小単位だが
家族は最大の群れだった
家族が皆一緒に暮らせることが一番の幸せである
原始の時代からの本能の一つだろう
だが実際はそうでなかったこともまた多い
社会生活を行うにつれ家族の単位は小さくなっていく

人間に仕事の歴史はもはや3千年になる
家族を守っていくのは男の仕事だった
守るために戦う為に仕方なく離れ離れになったことの大きな不安も
やがて繰り返し学習で克服できる社会になってきた
人間という動物にはそれが一番の苦労だったのに
家族は肉体の痛みを共有するものだ
しかし離れたとたんに痛みは半減する

我ら家族に助けられなかった世代は家族として助ける方法を学習していない
家族を壊す仕組みばかりを作ってしまってために
今度は家族を離れたゆえに生きていけない多くの人たちを作ってしまった
家族の単位は限りなく小さくなってやがて個になっていく
ふがいなく、なさけなく・・
まだ小さい方が暮らしやすかったと誤解している
社会は家族の代わりはしてくれない
しかしもう、戻ることはないだろう
鯵庵(1.5)

by ajiankyoto | 2017-01-05 07:15 | Comments(0)

落ち葉を見てすぐに掃こうとする人と眺めるだけの人と2種類の人がいる
街では歩道の落ち葉が嫌われる
掃かないのは落ち着かないが、せっせと掃く人もきりがない
もともと落ち葉など目に入らない人もいれたら3種類の人がいる
あなたはどちらか?考えてみてほしい
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落ち葉を踏むのは仕方がないが・・
掃かなければならないものだろうか
無責任なことを承知で言えば、掃かないほうがいい落ち葉も多い
そんなとこほどせっせと掃いている気がする
そんな人はせっせと掃いてごみ(燃やすごみ)として出す
京都市は剪定枝葉と落ち葉を中身の見える資源ごみ袋で回収することにしたみたい
草や竹や木の根はダメであるが、落ち葉は取ってくれることがはっきりした
しかし各家庭の分に限る、植木屋などに任せたものはダメだという
なんとなくまだ宙ぶらりんだ

昨日上を見たら紅葉である
今日下を見たら落ち葉であるが
都会の舗道では落ち葉も紅葉なのだ
本来は有用なものだったのだ、土になるはずなのだ
あるいは今度資源ごみ扱いになれば土に帰るチャンスかもしれない
落ち葉の運命、どちらがいいのかそれも分からない
落ち葉をせっせと掃く人も嫌いではないが
きっと、その人は腹の中では街路樹の木を切ることを願っている気がする
落ち葉は青葉の成れの果てであることを知ってほしい

小生、都会の落ち葉が冷たい風に舞うのは好きである
落ち葉はそもそも誰のものなのだろうか?
それはさておき、どうせほっといてもどこかに吹き溜まるだから・・
身につまされて書いている
いずれ吹き溜まる、その時になればゴミに近づく
まだ落ち葉は掃かなければならないと思い込んでいる人が多い
鯵庵(11.20)


by ajiankyoto | 2016-11-20 16:08 | Comments(1)

自分の駅で降りただけ

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小生今はと言うと・・
サラリーマン社会の枠からはみ出してしまって
戻ることの出来ない現役の世界を過去として暮らしはじめている
素人間でもある
社会は席を譲ることで成り立っていたのかもしれない
退職だってそうだが、逆に大昔採用され新入社員にもなれた
その後の昇格・昇任だって枠のある限りまた空いた席のある限りにおいて、譲られてきた
譲られたことに気づかなくとも、譲られたことは一方で同時に譲ることでもあった
特に私たちの世代は、いつも枠の内の数を意識させられてきた

だが、退職してしまってからは少し違う
例えが悪いが、席取りゲームからはみ出したようなもので、取り合いすべき席は無い
そうかと思うと座布団だけを持たされたような世界だ
自分で勝手に枠外の好きなところへ座れと言うことであろう
一つの役割は終えたけれど、その後の役割は全くもって漠然としている
五木寛之は“林住期”とも言っていたが、やはり今まで以上に無常である

電車の席と同じである
空いていている限り自分が座っていい
しかし、降りるときに席に未練を持つ人はいない
乗客にはそれぞれ行く先がある、乗り換えも自由である
が、何を言われなくともそれぞれ自分の駅で降りる
せっかく取った席だからと言って、そのために次の駅や終点まで行く人がいる筈が無い

小生は電車を降りた
これからまだ先に行く人にとっては、それはただの空席に過ぎない
変に礼など言われたら困る、そのかわり降りたからと言っても自分の座布団だけは持っている
どこかに座るところを見つける、さ
それでも、これからも何度も自分の意思で行きたい方の電車にも乗るし、自分の駅で降りる
そうなんだ、全くもって自分の駅で降りただけのことである

写真は「団塊の世代」昭和51年(1976)に発行された、私が読んだのは昭和55年(1980)、その時もう30歳を過ぎていた、そうだそれからだ、死ぬまで競争かもしれない宿命を感じた
鯵庵(11.10)



by ajiankyoto | 2016-11-10 07:23 | Comments(0)

墓との距離が問題だ

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田舎にある先祖の墓を何とか自分の近くに持って来たい
ところが墓を移転(※改葬)するということは結構大変なことである
親がいて正月や盆あるいは彼岸に帰省するところがあればありがたい
しかし、自分が田舎を捨てて親もいないとなれば田舎へ帰るのは墓参りと言えど辛いことである
先祖の墓と自宅との距離が問題になる
それゆえか無縁仏が増えている、墓参りしなくとも墓の所有者がはっきりしていれば無縁仏ではない
墓地の運営者が正式に無縁仏とするには改葬の公告をしなければならない
それも手間のかかることである

国の調査では出生地に住み続けてるいる人の割合は2割以下に減少している
もうこれ以上に下がらないかもしれないが、その大きな原因が都市移住と人口減少である
その残りの7割・8割の人の中で新しい墓を持つことがここ数十年続いてきた
墓地を分譲(土地は所有しない)する形の霊園が今までの主流であった
今でも条件のいい霊園墓地の競争率は高いけど、一方でそこでも無縁仏が増えている
評論家は都市移住の問題より今は未婚化の方が影響しているという
人間、子が出来て孫が出来てはじめて先祖のことに思いが至る訳である
でも残念ながらその子に墓参りする姿を見せていない
生きてるうちに自分の墓を作ったって同じである、そんな墓に参るのを子供に見せても感動はないだろう
人間の終わりは骨である
石の墓を持てる限りは生きた記念碑が欲しいというのが信仰になっている

田舎へ行って菩提寺にええかっこして墓地の改葬をしたい、と言ったら何百万も要求されることもある
何百年の清算と縁切り料である
そうでないと墓地管理者としての改葬の承認状を発行してくれない
改葬は法律に基づく手続きであるからだ
それならどうすればいいか?新しく自分の墓を作るのが手だろう
ただしそれは永久に改葬の必要のないところに・・
樹木葬については以前に何度か書いた参考にされたし

先祖の墓も守しないで自分の墓を持つのは先祖や親に大不孝だと思う人はやめたがいい、納得ができなければいくら作っても記念碑にならない
だから今あなたの心の隙間を埋めるように多くの自治体やお寺が合同葬を進めている
都市で子供のない人や未婚の人たちをターゲットにした営業戦略に変更をしている
自分の墓を守してくれるのは自分の子供達だという一番大きな信念が崩れつつある
そのことを知って選ぶべきである
守をしてもらうのでなく孫にも会いに来てもらえる墓を選ぶべきであると思うのだが・・
これからは結婚しない人にも優しい墓でないと流行らないと思う
いずれ魂は気化して残るのは土と水だ、都会の人は都会が墓場だ
写真はキク
鯵庵(9.18)

by ajiankyoto | 2016-09-18 18:00 | Comments(2)

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庶民が立派な石の墓を持てるというのはそんなに古い話ではない
それなのに田舎の墓を打ち捨てて都会に新しい墓を建てだした
俄然霊園墓地(れいえんぼち)などが売れ出した
それは今でも続いている
墓参りはしたいが田舎に帰るのは嫌な人もいる
自分の代の墓が欲しいという人もいる
田舎から都市への人口の移動に伴ってのものである
新たな都市住民(移民)としての証(あかし)を求めているようでもある
墓のあるところが故郷だというのも分かる
しかしながら、これからの家の寿命は墓石の寿命に比べて短すぎる
成功の証にしても立派すぎる

ある墓地の宣伝で、〝自分のお墓のないことははかないことです″と言うのがあった
ジョークにしてはインパクトがある名文句だと思う
今、家の墓あり80%、が自分の墓無し15%、残り5%がその他・・らしい
変な100分率であるが・・小生の友人が言うのは間違いなくこの10~20年で〝その他″が5%から20%になるという
何故なら墓を持っている人もさることながら、これからは自分で自分の(死後の)形を決めることになってくると言うのがその根拠である
しかも、これから10・20年は団塊の世代の動向に左右される
これからは何々家の墓と墓名が書いてあるのが虚しくなる
〝自分の墓を守りしてくれる人がいないことの方が本当にはかない″ことだと言うのが、彼の話である。
彼とは、京都市内のお寺の副住職をしながら教団の本部にも詰めている
以前、互いに放課後、書道教室に通っていた時に長く机を並べた
今まだ副住職のままであるが卒塔婆も書くが、庭作りも上手になったと言っている
若手の僧侶たちにはこれからの葬儀と経営のあり方が一番の関心事であるのは当然だ
その彼も、檀家の変化について行けるか不安である、と言う
死に方は自分で決められないけど、自分の骨が納まる形を決めておく必要はある
それが終活の最初である、そうでなければそれまでの生き方も決まらない
自分の残された生き方を決めるのが終活だ
と言う
将来住職を継ぐまでの説教には使えそうな話やなぁとは言うておいた
墓もさることながら生きている人を大事にできる住職になれそうな気がする
写真はシオカラトンボ
鯵庵(7.24)
樹木葬①樹木葬もいいいのでは・・はここをクリック
樹木葬②樹木葬は京都ブランドがいい・・はここをクリック

by ajiankyoto | 2016-07-24 06:20 | Comments(0)