祇王と仏御前(後)

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祇王、仏御前のこの話はたとえ再現フィルム風に作っても下手な役者が演じたのでは駄目である
現代を生きる人は仏の前でも差別されてきた女性ということを体現しないからである
平安時代の宗教観は貴族による貴族のものである
現代人の知らない宗教観だと思う
清盛は天下の貴族であるが祇王も仏御前も庶人である
貴族社会の庭から自ら逃れて祇王らが隠れ住んだというのは寺ではない
隠れ住むのである
しかしながら、いずれにしろはるかなる嵯峨野の山奥である
祇王寺そのものは明治になって謂れにより再建されたものである
今であっても、物見遊山だけでは足が届かない地である

論調を変えます
平家物語というのは、源氏が天下を取り戻す物語なのであるが
珍しく敗者の平家に目を向けたものなのである
二十歳そこそこの白拍子が芸能人として女として最大の評価を得て
権力者の気ままゆえの浮き沈みをまた二十歳そこそこで感じる
その逃げ道が貴族社会から逃れることであり出家であり念仏を一念とする世界である
今まで以上の長き人生を念仏だけで生きていくのと決めることなのだ
それでも往生は唯一の求める道なのだ

それが物語である
それでも何でそんな祇王の話が平家物語の冒頭に出てくるのかと言えば、女人も往生出来るという概念を訴えたいからである
この時期になって法然上人が古い殻を破って唱えた念仏往生を表しているという
祇王も仏御前もさりとて善人でもない、ましてや悪人というまでのこともない
善行・悪行よほどのこともないまでも、ただただ、往生するためには念仏一途の姿なのである
それが、既存の天台や真言の教義から超えてでてくる法然(1133-1212)の念仏思想である
平安時代に天台教義の根元である良源(元三大師912-985)や源信(恵心僧都942-1017)らが往生のあり方を唱えた
鎌倉時代に入ってより明確に庶民の宗教としての存在を明確にしてくる
それが念仏であり阿弥陀如来の力をすがる思想である
阿弥陀如来信仰はやがて親鸞によって体系化されることになる

平家物語は善人悪人平等の法然の新しい浄土思想が背景にあるというのが、我がスーパー講師の力説するところである
祇王寺は苔の色
鯵庵(9.25)





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by ajiankyoto | 2017-09-25 07:53 | 往生 | Comments(0)

祇王と仏御前(前)

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平家物語巻第一「祇王」による
「萌え出ずるも枯るるも同じ野辺の草 いずれか秋にあわで果つべき」
祇王(ぎおう)が西八条の清盛の館を下がる(去る)時の歌である
正直なところと言えば新しく自分代わって寵を受けることになった佛御前(ほとけごぜ)への妬みだと思う
「佛もむかしは凡夫なり 我らもついに佛なり いずれも佛性具せる身を へだつるのみこそかなしけれ」
と清盛と佛御前の前で舞った
強烈な嫌みだったけど、結果は二度目の憂き恥(うきはじ)だった
祇王二十一歳尼になる、妹妓女十九歳、母四十五歳ともに髪を剃り、
"一向専修(いっこうせんじゅう)に念仏(ねんぶつ)して後世(ごせ)を願うこと哀れなり"とある
栄華を手に入れた人ゆえの恥である、憂き恥だった

ところが
「娑婆(しゃば)の栄華(えいが)は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん・・、」
仏御前は語る
この度、地獄に沈んだら、輪廻転生とは言えど未来永劫浮かび上がる事難かるべし、一旦の栄華を誇って後生のことを忘れた生き方の哀しさに気づいて・・哀しくてと
既に尼の姿になって自分が蹴落とした祇王の前に現れた
ともに念仏して、一つ蓮の上の身となりたい・・苔の上にても念仏し往生(おうじょう)の素懐(そかい)を遂げたいと思う
それを祇王が受け入れるわけである
・・
大河ドラマ的ではなく歴史は再現フィルム的に見るべきである
大事件なのである
時の太政大臣清盛の寵愛の白拍子が、栄華の頂点にある芸能人が、一瞬にして何もかもほって蹴落とした女とともに念仏一途の生き方に帰依するのである
僧(ほぼ公務員)の修行をしなくとも、髪を落として念仏三昧の人生はおくれるのである
往時、女人は宗教の埒外であった
だから、女人でも往生できるというもう一つ大事なことを物語の最初に言ったのである
かくして、平家物語は「往生」という当時(鎌倉時代)最新の宗教観によって構成されることになる
写真は祇王寺にて
(この項続く)
鯵庵(9.23)



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by ajiankyoto | 2017-09-23 20:45 | 往生 | Comments(0)

「巴は京女」に続く

義仲がいなければ都に来ることもない女だった
戦(いくさ)に連れていくための妾と言われるが、女武者でもある
馬乗りは得意だったかもしれないが、当時武芸というものはまだ出来ていない
闘争心のままに長刀を振り回すだけの女である
庶人が知る歴史は「物語」でしかない
荒削りの男のために精一杯武器を持った一人の女へのはなむけだろうと思う
最期を共にするはずが義仲に見限られた巴は鎧を脱いで落ち延びた
その後の巴のことは物語の外の話である

実はそこらからが能「巴」が始まるが、そのことを語る力は小生にない
亡霊になって義仲を慕うのも巴かもしれない
近江の粟津「義仲寺」にある義仲の墓の傍にある巴塚は見逃す人が多い
でも歴史に現れるのはこの都落ちの瞬間だけだ
平家物語の中でだけ輝く女武者だ
女を通し、かつ、それでも最後一人で戦っても討死しなかった巴の強さゆえの哀しさが京都人の涙を誘う
義仲と最後を一緒しなかったこの女を張った強く誇らしげな姿こそが哀れである
それは誰でも持てるものではない美しさだ
勝ち負けを超えた、善悪を超えた自分をはっきり主張している
それが京女の根性である?

平安時代婦人列ももちろん市民奉仕である
が、市民と言っても京都の花街や地域女性連合会がこれにあたる
行列に続く紫式部や・清少納言・小野小町というのも同じではある
しかしながら、鎧をつけて白馬にまたがって背筋を伸ばすことは気合の入ったプロの芸妓でも難しい
これが出来ると京女の代表と胸をはることができるらしい?
来年の時代祭のポスターになれる
生きるということは芝居気が必要だと思わされるのだが・・
鯵庵(28.10.13)

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by ajiankyoto | 2016-10-13 08:15 | おなご編 | Comments(0)

祭/巴は京女

10月の時代祭りは平安神宮の祭礼である
明治28年に平安遷都1100年を記念して始めた
今は1220年ちょっとだから、120年になるが、まだ120年ともいえる
平安京ゆかりの桓武帝と考明帝の神輿が主役であるが、維新以前の各時代の行列が出る
10月22日が行列の日である、京都観光の目玉にしたいという思惑である
もう一つの特長は市民奉仕である、出演は一般市民である
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一番の見ごたえを言えば、平安時代婦人列の先頭、巴御前である
後白河院政の時代だだから平安時代が終わろうというときである
1184年7月に入京した源氏の棟梁義仲、義仲についてきた巴にとって都で暮らすことはどういうことだったのだろうか
信濃・木曽の山国育ちを卑下することなく、武者として、それでも女としての栄誉もあったろう
都の水で化粧することにも馴染んで行ったろう
だがしかし、都の風に戸惑った義仲は平安朝政界をしくじって、翌年1月に頼朝軍に京を追われ近江で死す
都での羽振りはたった半年のことなのである
巴は、女として京都に残ることなどに何の未練もなく、最後まで将軍だった義仲についていく
「木曽殿(義仲)に最後の軍(いくさ)して見せ奉(たてまつ)らん」というのが平家物語のセリフだ

都を落ちていく武将に戻ったが、その時は既に京女であった
京都で生まれたわけでもない、たった半年で何時の間にか京都の女になっている不思議な女性だ
巴は「色白く髪長く、容顔(ようがん)まことに美麗(びれい)なり」と平家物語にある
なお、それでもその時の巴が一番美しいと京都の人は感じた
華やかな時代祭行列で白馬に乗って胸張った巴御前というのは・・
実はたった数騎で義仲にしたがって都を落ちていく時の姿だと言えば読者の皆様はどう思いますか
歴史というのは男の舞台でもあるが、また女の舞台でもある・・
(この項、続く)
鯵庵(28.10.12)

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by ajiankyoto | 2016-10-12 07:39 | おなご編 | Comments(0)

小生の趣味の一つにホームページ作りがある
人に頼まれたりもしているが、自分でも京都の歴史を断面的に見ようと試みたサイトを続けている
パソコン教室で、WEB言語であるHTMLやCSSも小学校卒業くらいの知識までなら学んだ
今はWEBの世界でもあるが、それ以上に書籍は内容が信頼できる
実は古本屋によく行く
この前に買った本に
『もっとも分り易き平家物語の解釋(柴田隆著・昭和4年日本出版社発行定価1圓)』がある
それはいいのだが・・
その本の後ろに
『樟蔭女子専門学校福本淑子』(もちろん実名です)ときれいな字で持ち主の署名がある
樟蔭女子専門学校(大阪)は大正15年(昭和元年・1926)の開設である
高等女学校卒業後に入学して3年だから卒業は20才になる
本は昭和10年の10版発行だから、推測するに昭和10年(1935)にはざっと16か17歳くらいかと思われる
仮に大正8年(1919)の生まれだとしたら、今年は97歳になろうかと推察できる
平家物語を学んでいた乙女である
97歳になろうと98歳になろうとしっかりしておられるはずであろうが、そうでなくとも仕方がない
本の持ち主の娘さんあるいは息子さん
小生を含めてあれから何人かの手垢はついたかもしれないが
必要ならばお返しする、と言う連絡である
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一番多感で頭脳がさえた時代に彼女がこの本で勉強したはずであるし、本にもその形跡が残っている
卒業したって女子の生きる道は限られていたはずなのに、平家物語の歴史と解釈を学んでいたことは驚く話である
つくづく、日本の女子の教育レベルが高かったことが分かる
申し訳ないが、現代の樟蔭女子大学の学生たちからは想像すらできない
この学園も学校経営に成功し、今年は創立100周年になるらしい
大阪の名門である、大正・昭和・平成と3代にわたって学んだ人も多いだろう
ただ、女子教育は100年記念と言うより100年の落差を知るべきかもしれない

小生の母親は大正13年の生まれである
事情あって別居しているが、貧しくともしゃきっとしていたそのころの高等女学校時代の写真がある
たかだか高等女学校生であるけれど毅然としている
今も毅然と生きている
母親から受け継ぐものが多いけど真似のできないのも男の特長でもある
鯵庵(8.19)


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by ajiankyoto | 2016-08-19 07:37 | 往生 | Comments(0)

鳥羽地蔵と文覚上人

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平安京の朱雀大路の羅城門からほぼ真南に下る街道が鳥羽道である
今なら、九条通りから新千本通にあたると思っていい
この鳥羽の街道沿いにあるのが京都六地蔵の一つで鳥羽地蔵といわれる地蔵尊である
平安時代に地獄と行き来したと言われる公卿の小野篁(たかむら)が、地獄で地蔵菩薩が地獄に落ちて苦しんでいる人の救済にあたっている姿を見て帰り、人々に知らしめるため六体の地蔵菩薩を彫った
平安時代も後期になって後白河上皇が平清盛や西光法師に命じて六つの街道の出入り口に六角の地蔵堂を建て安置したとされている
ここの寺伝によればあの文覚上人の開基であるという
保元・平治の乱のあの時代のことである
文覚上人とは、平家物語の主役の一人でもある、院の北面の武士だった遠藤盛遠(もりとう)のことである
鳥羽の地は白河・鳥羽と続く院政の中心地、豪壮な鳥羽離宮が営まれていた
この寺には自分が横恋慕で殺した袈裟御前の首塚があるとされている
盛遠と袈裟御前は実はいとこなのである、袈裟の母にせまった、ええ方法ではあるが、そもそも横恋慕は大変に迷惑なことである
袈裟御前によって自分の罪の重さを教えられた盛遠はこの事件で出家した
袈裟の母も、袈裟の夫もみな出家した、地獄の恋の行く末である
出家したぐらいで罪が無くなる訳ではない、出家しただけでは救われなかった盛遠は地獄で地蔵に教えられたのだろう、だからこそ気迫のある法師になったのだろう・・生きながらのこんな地獄を救えるのは地蔵菩薩だけである
京都市が建てた寺の表札には「悲恋の物語」とあるが、せめて「悲劇の物語」とすべきである
また、近くには恋塚寺もある、横恋慕は恋なのか?
それとも今なら警察沙汰か
文覚はどう見ても骨太な武士だった、やがて頼朝に挙兵を促し空海の神護寺を再興するだけの政僧になる
すっかり地蔵菩薩の話が文覚の話になってしまったが、ここの地蔵はそう覚える方が早い
やはり、文覚だって隠棲してしまったのでは歴史に残らなかったはずだ
写真はヤマアジサイ
鯵庵(6.12)


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by ajiankyoto | 2016-06-12 07:14 | 地蔵菩薩 | Comments(0)