2016年 11月 08日
数も信仰

軒端間の距離は150メートルある、その中に中央に本尊、1千体の金色の仏が整然と並ぶその様は信心や知識がなくとも確かに心打たれる
後白河院の時代(1165)に仏師康朝・運慶らが造ったと年表にある
もちろん全て一体ごとの手作りというもので、それぞれお顔の表情も違う訳である
頭の上に10の頭、左右の手は42本、2本は合掌しておりその他はさまざまなものを持っている
40本の手はそれぞれ25本に匹敵するという、しかも、その手の先には全て目がついている
それゆえに三十三間堂では”十一面千手千眼観世音(じゅういちめんせんじゅせんがんかんぜおん)”と言っている
一体でも寺のご本尊になるような仏が1000体もあることがありがたいのである
お顔は11で1000体、それが33の化相を示すと33万、お手は1000本で1000体、100万の目と100万の救いの手がある訳である
地獄の苦悩にあるできるだけ多くの人をなお一人でも多く救うことにあったとするが・・?
今、参拝者は仏が並ぶ前を薄暗い中お堂の中をを一方通行で進む
しかし、三十三間堂の前扉を開き跳ね上げると、東に向いた朝の光が千体の金にあたる構造になっている
後ろの扉を開けると仏に後光がさす、多くの仏が金のシルエットで見える、そういう効果を計算した構造になっているのに気づかされる
後白河院の殿の一角に院の住まいに向いて院のために作られたものなのだ
当時の仏教の世界は極彩色あるいは金ぴか、これでもかこれでもかという数の論理である
権力のあるものほど救われるものだったのだ
その様を想像すると当時の観音信仰の姿が見えるような気がする
ただ、この信仰は強大な権力と強大な情熱と資力を持った発注者と、
無限の能力を持った制作者があった場合に限られる
平安時代末期になって個性的な強力王権を持った帝王が続いた
白河帝であり鳥羽帝である、そして後白河帝である
ここは後白河院の院政の地である
院政の最期の勝者、後白河院が武士の勝者、平清盛を働かせた
が、平家貴族集団を滅ぼした後白河院は、今度は鎌倉の武士政権と戦わざるを得なかった
京都朝廷の王権と院政の終わりの地でもあった
後白河院の御陵もこの地にある
鯵庵(11.8)