2016年 05月 12日
伏見一揆を忘れまいぞ
伏見奉行は大名格の者が務め、伏見の町政、近国の司法などを所管する幕府の高級官僚である
元和(1622)の頃、伏見奉行を務めたのが小堀遠州、もと秀吉の弟豊臣秀長に仕えていたが徳川体制にも大名で残る、近江の国で小室藩(長浜市)主となる、元来、作庭・茶の湯の名人である
それからほぼ160年(安永8年・1779)の伏見奉行、小堀政方(まさみち)の悪政と苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を幕府に直訴する事件(一揆)が起きた
天明5年(1785)伏見の年寄文殊九助(もんじゅくすけ)ら七人らが禁を破って伏見を脱出、江戸に出て幕府に直訴、だが例によって2年の後江戸にて獄死した
この伏見奉行小堀政方は件の大茶人小堀遠州から7代、近江小室藩第6代領主、時の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)派で大番頭を勤め幕閣でも羽振りが良かった
が、とんでもない食わせ者だった、先祖かえりして奉行は領主と同じだと勘違い
御用金10万両を小室藩の財政立て直しのためにと調達・流用・浪費がばれた
今なら政権が変わるほどの大汚職事件である
現に、翌年田沼が失脚した後、松平定信(まつだいらさだのぶ)により近江小室藩は改易(かいえき)となり消滅した
という前段が天明伏見一揆、町人一揆の代表的事件である
〝伏見義民事跡″として御香宮神社の片隅に碑がある
この場合、作庭や茶の湯は為政者の道とは別のものだったと知っておけばいい
現代でも政治が好きな文化人には注意した方がいいのは皆の知るところ
庭師や茶人を大名にしたつけを払うのに160年かかったことになるのだから
写真は伏見の酒蔵
鯵庵(28.5.12)