白峯神社の二つの顔

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例によって白峯神社にも中学生の修学旅行のグループがタクシーの運転手やボランティアガイドの案内でお参りに来ている
白峯神社は神社自ら「スポーツの守護神」と名乗っているのでそのご利益を期待しているのだろう
今出川通、堀川を東へ少しである、この社地は公家の飛鳥井家の邸宅があったところらしい
飛鳥井家と言うのは蹴鞠の宗家だったのでその蹴鞠の神様(精大明神)をもお祀りしている所以でサッカー、バレーボール、野球とかの球技、果てはそれが拡大してスポーツ全般という拡大を見せているわけである
幾分ご利益も誇大広告気味であるが、由緒と言うのは誇大と同義だから仕方がない
だからこそ、日本代表やJリーグの必勝祈願のボールなどが収められている
だからこそ、中学生もクラブ活動などで球(たま)を触っていると寄りなさいと言われるのだろう

元の地主に気を使っているのが白峯神社のご祭神である
主祭神は鳥羽帝の弟一皇子で75代崇徳帝である
保元の乱(1156)で皇位継承の争いで後白河天皇側に大敗し、讃岐に流され無念うちに没した
恨みの対象は同母弟後白河帝とその一党と京の都である
後白河院は今様(当時の歌謡曲のようなもの?)が死ぬほど好きであった
後白河院政は源平・鎌倉時代までの時代を作り出す強大なものであったことを考えれば、
和歌でしか秀でることのなかった崇徳院にとっては勝ち目のない争いだった
この話で避けて通れないのが崇徳院は74代鳥羽院の子でなく72代白河院の子であるという話
当時からそう言われていたとある
そのことが藤原氏と源氏と平家を4つ巴で戦った時代のきっかけを作っただけかもしれない

明治帝が父帝考明帝の意思として遠く讃岐で白峯大権現として祀られていた崇徳院の霊魂を慶応4年(明治元年・1868)の新しい京都に迎え守り神白峯宮とされたのである
だが、皆その頃から東京へ行ってしまったのでは讃岐も京都もさほど差のない話である
官幣大社とした、明治帝のお気持ちはまだ京都にあった
それからちょうど150年である
時代が進んで、いつ頃から本殿にボールを飾るようになったのか知らないが、蹴鞠の奉納はともかくとしてスポーツの神様ばかりがもてたのではまたまた崇徳院の怨念が爆発しそうな気がする
崇徳院としてみれば悪いけどサッカー少年やバレー女子ばかりでは浮かばれない
今も四国八十八カ所八十一番の白峯寺で白峯大権現として祀られている
京都の人もそうでない人も是非ともそちらでも参ってほしい

崇徳院その2です
鯵庵(28.6.3)

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by ajiankyoto | 2018-06-23 19:46 | 崇徳院 | Comments(0)