2017年 07月 29日
日本一稲荷社のご利益⑴

実は京都から稲荷(いなり)駅までは旧東海道線であった
東海道線が大正10年に現在のルートになるまで、稲荷駅から稲荷山の裾をぐるっと回って山科勧修寺(かんしゅうじ)方面へ出ていた
と言うことで「稲荷」駅は明治12年開業の歴史のある駅である
その目の前にあるのが京に都が来る前からある伏見稲荷である
鳥居前が大整備されて駅からそのまま上げっていける
駅が出来た当時は官幣大社稲荷神社であった、と言うことで駅名も稲荷と定められた
元山城盆地の大豪族秦(はた)氏の本拠地であった
平安京の時代になって、この地は京の東縁に連なり深草(ふかくさ)と呼ばれていた
「うずらの里」と言われていたとある
時代が下って明治・大正は深草村であったが、昭和6年に京都市に編入された
その時に元城下町伏見市と一緒になって伏見区と名乗った訳である
戦後になって、社名を伏見稲荷神社とした
既に伏見区だったから伏見を冠したが、深草の地にあった由緒からいえばどうしようもない寂しさがあるようである
今でも伏見区と言うと人口・広さともに全国有数の区であり、分区の話がいつも出る
仮に分区すればこの地が伏見を名乗ることはない
稲荷山は東山連峰の名峰である
京都と伏見とは別の歴史を持つ街であり、深草も伏見とは別の生い立ちの町なのである
とすれば、困るのは伏見稲荷である
これほど有名になった名前を変えるわけにはいかんやろうね
当時の東海道線が稲荷山をぐるっと回って山科に出ていたのは京都の地形を知ると納得出来るような気もする
深草の少将が小野小町を訪ねた伝説のルートであり、
自説ではあるが大石内蔵助が山科から伏見の町はずれ橦木町(しゅもくちょう)の遊所に通った街道といえば理解しやすいかもしれない
今は名神高速道路が通っている
国鉄開業当時の稲荷駅のランプ小屋が鉄道記念物で近代化産業遺産(H20)にも指定されている
もう一つ、この地がうずらの里と言われていたのを知れば
ここ門前の名物が″うずらの焼き鳥”であることも残していかなければならないかもしれない
(この項続く)
写真は義経号
鯵庵(29.7.30改)