2016年 08月 27日
京都で生きる
読者の一人になってくれとメールが届いた
自分の昔の苦労を枯れた口調で語れるようになればこその話である
でも言いたいことがある、と言っていた
「家庭人にだって家族・家庭として、男と女にもマナーがある。悪意の多くは本人が気付いてないものだし、意図して隠しおおせばそれを裁いてくれるところはない。」という。
離婚に踏み切った時の気持ちの一端を書いている
恨みではない悔しさだと言っている
一部ブログの本文を引用させてもらった
東京で結婚して暫く大阪で暮らしていたらしい、それが離婚を期に覚悟を決めて京都で仕事を見つけた
落花は枝に還ることはない
東京にも帰らず、娘さんと一緒に京都で暮らし始めた
覚悟した仕事ぶりでそれから数年で大きなレストランのお昼のマネージャを任されるようになった
東京育ちの奥さんだったのも分らないくらいに仕事にも馴染んでいる
京都人に負けない京都人になってしまった
京都人になろうと思ったら思い切れたと言う、不思議な力を持った人だ
もう一つ魅力がある、きれいな標準語なのに周りの誰も気づかない
教養の都で培った教養は腐らない?標準語になり損ねた京都の言葉も本当はそうだったのだろうな
あんなにドスの効いた"・・どす”なんて言葉は東京の嫌みなドラマでしか出てこない
都であった頃はそんな香り高い人を育てていた町だったんだろうと思った
マナーに反することも許さなければならないこともある世間ではあるが、自分はマナーを守りたい・・そんな人の書く日常生活のブログもいいよな
京都の女(ひと)というのは京都の人のために京都で働いて京都で生きて行こうと決めた人のことである
それが都市としての京都の先進性であるというのが小生の論である
ブログのアドレスが違うが何回も「イイネ」の世界である
それにしてもどこのブログもイイネ一つ何でこんな難しいねん
写真は達磨
鯵庵(8.27)
by ajiankyoto
| 2016-08-27 07:11
| おなご編
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