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僧侶が作る病院


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紅葉シーズンが終わった頃を狙って友人の京都案内に永観堂に行ってきた
永観堂は東山にある壮大な寺院である聖衆来迎山(しょうじゅうらいごうざん)禅林寺と言う
12世のご住職が法然上人に帰依して後浄土宗のお寺である、ということでご本尊は阿弥陀如来である
紅葉で有名であるが、周知なのでそんなことは書かない
阿弥陀如来の念仏の道場としてのことの方が大事である
が、それも書かない・・もう一つが明治の初めの歴史である

明治の始め三条通りの東、粟田口村の天台宗の寺院「青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)」に「京都療病院(りょうびょういん)」が開設された
なんと明治5年のことである
元処刑場のあったのが三条河原である
そんなことからか医学研究に解剖場も併設
この療病院の設立は実は当時京都の実力寺院(観光ではなく)の僧侶たちの社会運動だった

明治元年に神仏分離令、
それにより廃仏稀釈の波が全国に広がった
明治5年政府は僧侶の肉食妻帯蓄髪を許す布告を出した
何ら俗人と変わらない状態だった
それでも廃仏毀釈運動の風潮に危機感を感じた岡崎願成寺与謝野師・永観堂東山天華師・銀閣寺佐々間師・金閣寺伊藤師の住職たちが京都府の青年蘭方医明石博高(あかしひろあきら)などと語らって、僧侶たちが発起人となり京都府に病院設置を出願した訳である
仏教界の他、一般府民や医師、薬種商なども出資、花街(かがい)の冥加金(みょうがきん)まで多くの資金が集まったという
京都における近代医療の始りであり、首都でない都市としては早かった
梅毒退治や精神医学の魁となっていった以後京都は近代医学の先進都市となった
が、その時の経緯は余り知られていない
維新政府の意味のない施策であった神仏分離令のために廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた頃の話である

病院・医学校ともに明治12年に梶井門跡(梶井門跡は京都大原に本拠を戻して三千院となる)の跡へ移転
これが梶井町にある今の京都府立医科大学となる
この永観堂にも癲病院が設置されていた時期もある
廃仏稀釈は大寺院も土地をとられ、らしからぬ僧侶は還俗、そんな時期だからこそ仏教界や市民・府民が一緒になって作ったことの意義が大きい
病院は宗教の最も明確な救済活動だとするヨーロッパのキリスト教の影響も大きかったと言える

聖徳太子は日本仏教の最大の祖である
この療病院というのも聖徳太子の創設したものに習ったという宗教家の存在は大きかった
でも廃仏稀釈運動の危機感と言うものは本当にその時だけだったのだろうか
現代の京都の僧侶の職にあるものは市民の救済のために何を訴えられるのか?
浮世の観光行政に便乗したり翻弄されたり・・している様だけ見れば・・である

これも歴史
写真はニシキギ
鯵庵(12.22)

by ajiankyoto | 2016-12-22 07:07 | 往生 | Comments(0)