2024年 07月 31日
淳和院と賽の河原
第53代淳和帝は桓武帝の皇子、第52代嵯峨天皇の弟
譲位の後、離宮淳和院(じゅんないん)で生涯を終えた
現在の西大路四条の交差点の北側一帯にあたる
この淳和院は右京の四条にあったことから西院と呼ぶ
この場合は西院(さいいん)ということでいい
また、このあたりは平安京の道祖大路が通るところでもあった
この場合は道祖(さい)ということになる
平安京は左京が中国の洛陽、右京が長安を模している
桓武帝の世紀の街づくりであったけれど、右京は低地のため早くから衰退した
だから、都のことを左京の洛陽城に例えて洛中と言い、都の外を洛外という
洛という言葉だけが残った
京都の中心は朱雀大路であり、右京も西院(いわゆる道祖大路)あたりまで来ると都城の面影はない
桂川の河原が迫っていたとも言われる
大河は昔から葬送の地である
言い換えれば冥土との境である
三途の川と言ったり、賽(さい)の河原と言ったりする
この場合は賽(さい)である
三途の川とは、悪業をなしてきた人、地獄・餓鬼・畜生という三悪道で苦しむ人が渡る川である
まだ、善も悪も無しえない子供たちもここでも責め苦にさいなまれる
これらを救えるのは地蔵菩薩だけである
地蔵菩薩は右手に錫杖を持ち左手に玉を乗せ三悪道に落ちた救済のために出現する
それが賽(さい)の河原である
長い間の地蔵信仰が京都の街を作っている
都市は、疫病や災害でいつでも地獄に変わる
地獄は見世物ではないし、極楽はこの世にはない
淳和院の後に、春日神社も建っているし、賽の河原の名残の高山寺も建っている
道祖大路の名残を今でも佐井(さい)通りと言う
どうしても「さい」という音が捨てがたい土地でもある
鯵庵(R6.7.30)
Commented
by
hirokazusazanami at 2017-03-17 09:19
吹田市に佐井寺という地名の集落があります。
昔は佐井の泉という湧き水が出ていたようです。
300軒程の集落であったが、愛宕山、伊弉諾神社
山田寺、西宝寺と神仏がみんなあった。
佐井通りとなにか関係があるのかな。
昔は佐井の泉という湧き水が出ていたようです。
300軒程の集落であったが、愛宕山、伊弉諾神社
山田寺、西宝寺と神仏がみんなあった。
佐井通りとなにか関係があるのかな。
1
by ajiankyoto
| 2024-07-31 08:13
| 地蔵菩薩
|
Comments(1)