2017年 07月 15日
墓があってもはかない/樹木葬④

ジョークにしてはインパクトがある名文句だと思う
また、一方ある宗教グループは「お墓は無くてもいい」という運動をしたりしている
肉体は火葬したら、それで終わる
各地の自治体の条例では、もちろん火葬後すぐに遺骨は引き取られるものとなっている
前回に述べたが、わが京都市も慣習は部分収骨である
実際、火葬場に残された灰は丁寧に処理される
そのことではなく、全ての遺骨を受け取らないという運動だ
形としては火葬場で遺骨を受け取らない・・ということになる
その実現にはおそらく遺家族で大きな悶着となる
だが、世間は広い、一方でお骨を引き取った人がそれで困るというのもの現実である
所によっては大きな骨壺にすべての骨を引き取らされることもある
ずっと骨壺と一緒に暮らしているというのも心なき行為と言われる
遺骨でお地蔵さんやアクセサリーにしてくれる業者もいる
ここで言いたいのは、遺骨はそれぞれのお墓におさめられなければならないということになればである
行くべきところに行かない遺骨こそ成仏できない遺骨となる
だから、石屋が言うように「墓がないとはかない」ということにもなるのだが、
しかし、墓がなければその悩ましき束縛から逃れられるというのも本当だと思う
たしかに「墓がなくても」人間の生存の証に不足はないという考え方もあってもいい
人間が死を前にして生きる苦しさを救うのも宗教だろうし、
そのために形式を決め淡々と儀式を行うのも宗教である
一昼夜休むことなく多くの人が薪をくべながら荼毘に付した時代もある
50年前は土葬だったのが、貴賤の区別なく焼却炉で火葬という埋葬方法がやっと定着したのである
数十分で苦しむことなく、肉体(有機物)が灰(無機物)になるということを受け入れられるのなら・・
灰は既に土と同じである
既に成仏していると考える方が自然である
肉体と灰の間に自分を置いてこそ、魂のことを考えられるかもしれない
この項続く
鯵庵(7.15)