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大津城の合戦(大津から京へ入る道番外)

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大津城は水城であった
本丸が水上に浮かぶようにあった
浜大津は今も大津の中心であるが、大津城の跡というのが正しく分かりやすい

関ヶ原の戦いは慶長5年(1600)年9月、この城は東軍についた
その時の城主は京極高次
西軍に囲まれた大津城はろう城した
が、高次は9月14日に降伏開城した
関ヶ原の戦いは9月15日である、勝敗はその日に決まった
西軍の大津城攻撃の大軍は関ヶ原には間に合わなかったことになった
関ヶ原の勝敗が決まって、家康は京極高次に小浜8万石を与えた
もちろん密約があった
ただ(ひょっとしたら)もう1日でも2日でも開城がおくれていれば・・近江一国の大名になっていたかもしれない

京極家は室町時代は数国の守護でもあった
北近江の守護でもあったが、が戦国期は既に浅井家に国を奪われていた
高次の母は浅井長政の姉であった
本能寺の変では明智方にあった
秀吉に許されて秀吉に仕えた
浅井長政の二女初(はつ)を正室に迎えた
もともと高次と初は従妹同士であった

豊臣家は長女茶々(淀)、東軍の家康の長男秀忠の正室は初の妹三女の江(ごう)であった
西軍とも東軍とも血縁や姻戚の間柄だったのだ
浅井三姉妹は浅井家の血と織田家の血を豊臣家と徳川家につないでいる
並んで京極家とも姉妹の間柄である
浅井長政の子や孫たちの戦いだったと見ることも可能だ
その中の京極高次である

京極家は若狭の小浜へ行き、大津城は廃城となった
南近江の領地支配は瀬田唐橋に近い膳所に城が新しく普請されることとなる
そのことにかかわらず琵琶湖大津の戦略的価値はそのまま引き継がれる
大津は京に隣して東海道の最大の宿場町になっていくのである

結局、浅井家の血は大阪(秀頼)と江戸(家光)へ別れ、15年後の大坂の陣の決着につながっていく
京極家は、四国丸亀藩6万石で明治を迎える事となる
関ヶ原の後のことは皆さんの知ってる通りである
鯵庵(9.3)



by ajiankyoto | 2017-09-03 08:11 | 車石文化 | Comments(0)