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山城の国葛野郡秦氏


秦(はた)氏は開拓技術に優れ桂川の水利土木技術で農業や養蚕、機織、酒造など中国大陸の文明技術を持っていた
松尾社(まつのおしゃ)や伏見の稲荷社(いなり)を氏神とし、広隆寺(推古11年、603)をも建てた
政治的にも京都派朝廷とのかかわりは極めて密接であり、それが平城京から平安京への遷都という大事業を支えた
秦氏の山城での文化が、平安京の中で磨かれ普及し日本の文化の基(もと)となった
多くの京都の地の人のルーツであるだけでなく、日本人の血のルーツにも深く関わっている
一説によれば当時の日本現住民の2倍もの色んな民族が弥生期の日本列島に渡来したともある
古代史が好きな人にとってはまだ多くの興味深い謎がある

日本の農業は弥生時代に稲作が始まって飛躍的に進展する
生産は自らの消費のためだがやがて蓄積となり貨幣制度が発展するとそれが富の差となる
渡来人の大集団秦氏は桂川に堰を作り流域の田畑に水を配り、村落に定着していった
その時代に大規模耕地整理の技術がすでにあった
そこは渡来人の文化だった
この地に都が出来てもそのままの形がそれから続くことになる
むしろ、それが都の経営を支えていたと思うべきである

支配する権力が多くの富を持てば水利技術もなお活用できる
言い換えればそれから日本全国、土地を得て開墾することが富につながるという稲作農業を本とした国土経営の形が出来た
その後時代がいくら変わろうとも、政権がいくら変わろうと米作高による富(土地の支配)を基本として日本人の意識が生まれてきたのだと思える・・のだ
鯵庵(29.12.27)



by ajiankyoto | 2017-12-27 01:00 | 京都の水 | Comments(0)