2018年 02月 11日
正面通の行き着くところ・島原(しばらく続くその1)
東本願寺を迂回してまだ西へ進むと西本願寺に達するのだ
西本願寺の西にも正面通は続く、やがて、山陰本線と京都中央市場になるが、山陰本線でほぼ突き当りになる
おそらくはこのあたりまでだったのだろう
何故ならそこが平安京の中心街路、朱雀大路(すざくおおじ)の名残である千本通(せんぼんどおり)にあたる
正面通は秀吉の都市計画、その都市計画の西の端、お土居にぶつかるからだ
そのあたりから丹波街道につながる
秀吉の時代の都市計画で言えば京の七口の一つ「丹波口」である
その丹波口の内側あったのが島原の遊郭である
このあたりの住居表示は「西新屋敷(にししんやしき)」という
島原という地名はない
400年前に大坂夏の陣が終わって豊臣家が滅亡し、徳川体制が固まった
もちろん京都も徳川の領地である
それから22年後九州島原の乱があった
島原城にこもった一揆を鎮圧するのに徳川幕藩体制を総動員するほどの騒動だった
それから数年寛永18年(1641)、幕府はそれまで六条室町にあった傾城(けいせい)町を西本願寺の西に移した
市中、御土居(当時はもはや取り壊たれていたと思う)の中とは言え、このあたりは朱雀野(すざくの・平安京の朱雀大路のことである)と呼ぶような田園の中、都の外枠ながらちょうど丹波街道へつながる位置にあったのを傾城町とした
島原の乱の騒動ににてあわただしい、しかも厳めしい武家屋敷風の大門を持った遊郭であることから誰とはなく島原ということになったというのが定説らしいが・・
(続く)
写真は通称東本願寺の門の前の大噴水
鯵庵(30.2.11)
by ajiankyoto
| 2018-02-11 05:00
| 正面通
|
Comments(0)