島原の格式/正面通の行きつくところ(続・・その3)

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作家M氏は、著作の中で格式の高い島原の太夫であっても女性残酷物語でしかないという
客が有名文化人であっても客の消費のための営業戦略に過ぎない
小生は、この論で目から鱗である
太夫は商品としても価値が高いといえる
ただ、その価値とは教養であったのが救いである
そのために遊郭は立派な社交場だと主張する人もあるが、
それこそ設備投資の営業戦略に過ぎないとも言える
買う方から言えば教養を持った肉体を買うためためにはそれ以上の教養か財力がいるのは当たり前のことだ

当時の状況を解説する力は小生にはない
しかし、言えることは島原のこの戦略は早くから斜陽に入っていた
ご一新(明治維新)の明治に入って殷賑の火が消える
・・・幕末新撰組は京の町はずれ壬生に屯所を構えた
京都守護職会津公は徳川の武門の棟梁でありながら勤王の志の高いであった
御所のために働くことが徳川のためであるという信念で生きた人である
京都では言葉さえ通じない田舎者だと言われた、がそれ故に田舎者新撰組(守護職のお預かり)を大事にした
歴史的に他に例のない組み合わせである
だから、浪士隊ながら公金で賄われていた
ただ、機動部隊だから常時うろうろされたのでは困る
潤沢な活動費はあっただろう
そんな彼らが今まで稼いだことのない給金を命の洗濯に使うのは当たり前であろう
社交などというものではない

壬生から坊城通りを下れば島原の大門に達する
彼らは田園の細い道を通って島原に通った訳である
反対の方角に向かえば過激なテロリストがいる京の町に出てしまうのである
それでは遊べない、そっちは職場なのである
壬生からたった1.2㌔ではあるが、島原はそれほどの僻地であるということである
機動隊員である彼らは屯所からそれ以上遠いところでは遊べないということでもある
歴史小説共通の感慨である

正面通が都の中で行きついたのが島原である
だから、江戸期を通じて官許の遊郭なのである
が、その重さが邪魔をしたのかもしれない
天神・太夫などと言っても女性残酷物語である
今となっては浅田次郎の小説「輪違屋糸里」が詳しい
明治・大正・昭和を迎えて遊郭は全盛状態から全滅状態へ移ったけれど、
何故か街中(歓楽街)の五花街だけが雰囲気を残している
売春防止法をとどめに芸者と舞妓の街に変貌を遂げたせいであろう
それはいいけど、遊郭はなくなったわけであるが売春が無くなったわけではない
売春に格式は要らないという結論になったわけであろうか

写真は島原の輪違屋、明治以前は置屋である、多くの遊女を預かっていた、明治以降はお茶屋も兼ねている(現在進行形?)
花街のことはこのエキサイトブログ「花街ぞめき(https://gionchoubu.exblog.jp)」さんに詳しい、鯵庵もフォローしてかつ脱帽している・・
鯵庵(30.2.24)

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by ajiankyoto | 2018-02-24 19:00 | 都市 | Comments(0)