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歌の崇徳院

主役は崇徳上皇と左大臣藤原頼長の筈だった
武士では源為義、平忠正がついた
都がここに定められてもう260年、平安時代は政治的に極めて安定した時代だった
が、ここにきて敵味方に分かれて天下を争う事態に至った
兄崇徳院は同母(待賢門院)弟、後白河が帝位についたとき
「文にあらず武にもあらず」と後白河の器量について言った
皇位の継承などと言うのはあり得るべきでは人ではない
また、本当にそうであった、弟は道楽者なのだ

その道楽者後白河天皇には藤原信西入道がついていた
切れ者官僚である
合戦のことは武士に、と言って清盛や義朝に任せた
鴨川を挟んでの布陣だった
崇徳院の臨時御所白川御殿は夜討ちにあって火をかけられた
崇徳院側は摂政関白家の左大臣藤原頼長が学識に自信あり戦のことまで差配した
源氏の長者為義といかな勇猛な為朝でも相手の夜討ちに敗走した
しかし、この時の主役は為義の八男鎮西八郎(ちんぜいはちろう)為朝であった
保元元年(1156)7月の一晩のことだった  
この事件を見る限り、政権は武力で決まるということが明らかになった

白河御殿を逃げ出した崇徳院は行くところもなく、仁和寺の同母弟の法親王をすがった
だがしかし、摂関家を二分して、武士を二分して戦ったこの戦いの相手も同母弟後白河であった
許されるものと思うのは間違いであった
讃岐に流されることになる
おおよそ8年後都と弟後白河院への怨念を抱いたまま世を去った
新院と言われてからも十何年も歌の道を探究してきた
崇徳院にとって帝と言うものはそう言うものであった
約100年を経て選ばれた歌集(小倉百人一首)に恋の歌をとどめることになる
白河(1086)・鳥羽(1129)という院政は後白河(1159~1197)によって引き継がれることになる
我々は歴史の結果をを知っているが、現実に生きているものについては生きるか死ぬかの選択だけだった
生きたものもまた選択の試練に合う
つい何代かは歌が上手いことが帝位にも政治にも必要だったかもしれないが・・
土地の支配には実力が必要になってきていた
これを武士の台頭という・・・・
写真は白峯神宮にて
鯵庵(30.7.13②)

by ajiankyoto | 2018-07-13 11:11 | 崇徳院 | Comments(0)