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鎮西八郎為朝の勇気


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少年雑誌は昔月刊だった、2~3紙あったように思う
風邪をひいて休んだら雑誌を買ってもらえた
どれだったか覚えていないが「源の為朝(ためとも)」というのが記憶に残っている
為朝は為義(ためよし)の八男、京を追われ阿蘇地方で暴れていたから鎮西(ちんぜい)八郎という
何んと身長が2メートルを超える、しかも弓の名手で左腕がはるかに長かったという
傍若無人な性格だったが父には従順なところがあった

そのため保元の乱で兄義朝(よしとも)と戦った
義朝は父に弓し、為朝は兄に弓を引いた
物語によれば、兄を射殺す機会に弓を射なかった
義朝は崇徳院(すとくいん)の白河の仮御所に火を放った
後白河帝・清盛・義朝側の勝利であった
崇徳院は同母弟後白河によって讃岐に流された
乱の後、父為義は義朝に切られ、為朝は筋を切られ伊豆大島に流された

伊豆大島を従え再び暴れた為朝も後白河院の追討を受けて自害して果てたとある
平家全盛の頃である
この時、為朝は洋上琉球に逃れ、初代の琉球王となったと、琉球の歴史では記されている
・・様々な伝説にも登場する
義経と同じようである

京都堀川今出川の白峯神社はこの時(保元の乱)に敗けた崇徳院の魂を祀っている
考明天皇のご意思を明治天皇がついでかなった神社である
その傍らの供緒社(とものをしゃ)はこの時崇徳院に従った為義・為朝父子を祀ったものである
武道・弓道の上達にご利益あり?
崇徳院が同母弟後白河に敗れただけでなく、藤原氏も平家も源氏も家を二分して戦わざるを得なかった
そんな時代の武者というものがどんなものであったか
個人の武術というものが意識された時代だったのかもしれない
為朝の弓が義朝に向かって矢を放てば、あるいは乱の結末は大きく違っていただろう
しかし、それでは武力ではなく暴力になってしまう
少年雑誌に為朝が登場していたのは少年が憧れるに値する勇気だったということだろう
鯵庵(30.4.16)

by ajiankyoto | 2018-04-16 17:38 | 崇徳院 | Comments(0)