2018年 05月 01日
義朝と為朝
左大臣藤原の頼長、その兄摂政忠通、ともに近衛帝に養女を妃とする
藤原氏の氏の長者は年長の忠通(54)であったが、忠通の父は頼長(31)に譲れという
近衛帝は幼年に即位するも御年17才でおかくれになる
その後が近衛帝の異母兄の後白河帝(29)となる
先帝新院崇徳院(37)の同母弟である
崇徳院は新院と言われるが近衛帝の時代には鳥羽院政の時代
そもそもご譲位が鳥羽院のご意思であった
近衛帝の次は、ご自身に戻すかご自身の皇子を御位につけたいと思召された
その願いが叶わぬと思っているときに鳥羽院がお隠れになった
既に、鳥羽院御殿には源義朝(33)などが警護に当たっていたという
頼長は崇徳院のご不満に同情したか、崇徳院の臨時の御所白川殿に参じ合体
ここに保元の乱が始まる
しきりに兵を集めるに、六条判官源為義(60)、義朝を除く自身の子息たちを引き連れて新院に参集
為義の八男鎮西八郎為朝(17)、鴨川河原に面した西側の表門を守る
兄義朝と弟為朝、白河殿の夜討ちに名乗りあう
兄は天皇の命を蒙ると言い、弟は院宣を承っているという
兄は父に弓し、弟は兄に弓す
さすがに弟為朝、兄に射殺すには忍びず、兄に向って鏑矢(かぶらや)で驚かす
その強弓に驚いた兄は白河殿に火をかける戦術を進言することになる
この白河殿に火をかけられたことによりこの戦いは一気に決した
この年、鳥羽院が亡くなったのが7月2日、この戦いの日が7月11日のことである
義朝と為朝、この兄弟、年の差もあり、母も違えば、育ったところも違うことでもあり
おそらく一緒にいたこともなかっただろう
為朝に従う騎馬武者もほぼ討ち死にした
余りにもあっけないことでもあった
が、乱の後の処断は我が国始まって以来の厳しいものだった
戦いは武士がするものであるという後白河天皇側の戦略が成功したことになる
その官僚、藤原信西入道の政治が平治の乱を招くこととなる
白河は、白河院の院政の始まりの地
この時まだ壮大な寺院や伽藍や軒を連ねていた
白河殿(白河北殿)と言われ、皇女の住まいでもあった
現在の平安神宮の西、東大路丸太町の西、京都大学の熊野寮があるあたりだとされる
熊野寮にクマが出るのは不思議ではないかもしれないが、去年イノシシが出た
これを、為朝の魂だと言った人は京大生にはいなかった
イノシシを見ても当たり前???寮生というのはまだ田舎者??だから仕方がない
鯵庵(30.5.1)
by ajiankyoto
| 2018-05-01 20:23
| 崇徳院
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