後三条院


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第71代後三条院は後朱雀帝(69)を父とし、三条帝(67)の皇女禎子内親王(陽明門院)を母する
後三条帝は位について間もなく第一皇子(白河帝)が生まれ皇太子にした
白河帝の母は藤原氏道長の孫茂子であった
が、三条帝の皇子小一条院の孫源基子の間に出来た第二皇子(実仁親王)・第三皇子(輔仁親王・三の宮)と順に皇位を伝えたいと思っていた
後三条天皇はそのため在位4年で自ら退位し、上皇となられた(1072)
72代の帝は白河帝、白河帝の皇太子に第二皇子実仁親王とした

摂関家の勢いに負けずの事績のあった帝であった
大江匡房や源師房等の学識優秀な官僚を用いたが、それには寿命が短かった
上皇になった翌年早くも亡くなった(1073)加えて、その後皇太子が実仁親王が病死

皇嗣の決定権は白河帝に移っており、白河帝は自らの皇子(堀川帝を)を皇太子とした
しかも、即日に位を譲って上皇となった(1086)
堀河帝(73)に皇子(鳥羽帝)が生まれることによって白河院の血筋が皇位を継承できる
後三条院や白河院の院政と言われるが最初は皇位継承の確認が目的であった
三の宮輔仁親王の子有仁親王は源の姓をもらって臣籍に下りた
皇位を継げなかった後三条の皇子三の宮は阿弥陀如来の手に五色の糸を結びそれを持って念仏とともに往生したといわれる(1119)
白河院にとっても父帝の意思にそむくことになるのだが、異母弟に皇位を譲る訳にはいかなかった??
・・としたらやむを得ないことである
自分に力のあるうちに譲りたいものに譲ってしまわなければならない
それが白河院の明確な意思であるとしてもそう不思議なことでもない

世は末法の時代に入っていた
釈迦が入滅して2千年、それが先代後冷泉天皇の時代(1053)になる
釈迦の教えも、行をする人もなく、悟りもない
以後人間の精神が堕落する
修養も意味なく、努力しても無駄で、動物のように本能のまま憎しみあい果てしなく闘争、地獄の世界がこの世にあらわれるとする観念である
当時それが人の心を暗くしていた、現に既存の有力寺院の僧兵たちが暴れまわっていた時代だったのである
仏教の教えの一つである末法思想がいまさら庶民の生活に直接入って来たわけではない
権力者にとっては戦略眼として必要だったかもしれない
朝廷にも武力が必要だったし、荘園の領有を守るためにも武力が必要であった
我が国の末法は暴力の時代に入ったというのが分かりやすいのかもしれない
それが政治にあらわれたのが保元の乱である
崇徳院シリーズその5です
空也上人(903-972)の立像(六波羅蜜寺)のスケッチです
鯵庵(30.6.28)

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by ajiankyoto | 2018-06-28 08:18 | 崇徳院 | Comments(0)