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白河院政

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白河帝は堀川帝に帝位を譲って上皇白河院となった
堀河帝(73代)は白河院の第二皇子である
母は藤原賢子、藤原師実(もろざね)の養女(道長の孫)である
8歳で即位、摂政は師実、白河院は堀川帝の外祖父師実(もろざね)を重く用いた
師実の跡を継いで関白になった師通(もろみち)は成人した堀川帝をよく補佐しよく政務を取り仕切った
が、剛直な師通は悪瘡を患い38歳で急死した

跡を継いだ忠実(ただざね)はまだ22歳の若さで、地位も権大納言で関白の力がなかった
堀川帝は賢帝であったが、和歌や管弦を好みながら病弱であり29歳で崩御した(1109)
堀川帝の後は皇子鳥羽帝であったが、5歳で即位することとなった
堀河帝の摂政は若き忠実であった

必然的に、治天の君白河院の政治への関与が始まる訳である
忠実は執着心を持った人で、摂関体制と家領(荘園)の維持に執拗だった
院の養女だった藤原璋子(待賢門院)と長男忠通との縁組も断り、娘の入内についても白河院の意思に従わなかった
白河院の怒りをかった忠実は関白を辞し宇治へ退いたが、摂関家は院との対立を深めた
それが白河院と摂関家との関係であった
院が巨大な政治権力を把握し官僚や武士などを従えた
平正盛や源義家などの有力武家が台頭してくる
飢饉が続き世情は極めて不安定であったし、当時関東でも西国でも兵乱が起こっていた
権力者はまた自分の往生のためだけに巨大な寺が建てた

(追記)白河帝は鴨川の東、白河(今の岡崎)に法勝寺を建てた(1076)
白河は白河院の院政の地となった
そこには巨大な寺院が並んだ、白河院が法勝寺に建てた80メートルの塔である
それからも京都は大洪水や大火が続いた
鯵庵(30.6.30)

by ajiankyoto | 2018-06-30 07:59 | 崇徳院 | Comments(0)