2018年 07月 03日
頼長の登場
崇徳帝は白河院と養女藤原璋子(待賢門院)の子であるというのが当時の周知であり、それであれば鳥羽の叔父となる
その叔父に帝位を譲るというのは鳥羽には耐えがたきことであったかもしれない
長子が家を継いでいくということは我が国の家の継承の最大の規律でもあった
ただ、この時は若き鳥羽にも祖父白河院に対抗するべく力はなかった
白河院の時代は40年の長きに渡ったが白河院が亡くなって、今度は孫の鳥羽院が院政を始める(1123)
帝は崇徳帝であった、その時摂政は忠通であった
鳥羽院は白河院政をひっくり返すような施策を進める
宇治に引退していた太閤忠実を宮廷に復帰させるなどとした
ワンマン鳥羽院とともに家領の整理拡大を図ることとなった
ただ、忠実と嫡男関白忠通とは白河院の時からの確執があった
忠実は執着心が強い、忠通は今まだ子もなく和歌を得意とする
忠実はそんな忠通に摂関家の再興再建を託すには物足りなさがあった
三男の頼長は天才的な学才であり果断な実行力を期待されていた
頼長には立派な男子(忠実の孫)がいた
忠実は忠通の権を頼長に譲らそうと、頼長を忠通の養子にした
やがて、やがてである
崇徳が新院となって近衛帝の時代に左大臣になる
近衛帝の内覧の地位に達す
氏の長者も頼長に継がした
院は鳥羽院と新院崇徳院、院が二人並び立つ時代に
太閤忠実と内覧左大臣頼長、に対して関白忠通が対抗する構図になった
摂関家は当時全国に150もの荘園を持っていた
院は鳥羽院と新院崇徳院、院が二人並び立つ時代に
太閤忠実と内覧左大臣頼長、に対して関白忠通が対抗する構図になった
摂関家は当時全国に150もの荘園を持っていた
天皇家に匹敵する勢力であり多くの武士も抱えていた
単なる兄弟げんかではなくなってくる
兄弟というものが闘うのは何のためだろうか
これから多くの親子兄弟が覇権をかけて命を奪い合う時代に入る
それを末法というのかもしれない
崇徳院シリーズ7です
単なる兄弟げんかではなくなってくる
兄弟というものが闘うのは何のためだろうか
これから多くの親子兄弟が覇権をかけて命を奪い合う時代に入る
それを末法というのかもしれない
崇徳院シリーズ7です
鯵庵(30.6.3)
by ajiankyoto
| 2018-07-03 15:05
| 崇徳院
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