崇徳院の母(中)

b0355451_21264548.jpg

その璋子が7才の時に実父公実を失う
そんなことから白河院の手元で育てれることとなった
我が愛読の頼山陽の「日本外史」(平氏)に記述がある
『鳥羽の太子、禅(ゆずり)を受く。これを崇徳帝となす。帝の母璋子、幼にして白河法皇に養る。これを鍾愛(しょうあい)し、長ずるに及んで衰えず。頗(すこぶ)る物議に渡る。鳥羽ここを以って子視せず。戯れにこれを目して叔父児(おじご)と言う。・・・』
とある
鍾愛とは、"しょうあい"とよむ
深く愛すること、とりわけて大事にすることと辞書にある
問題は、長ずるに及んで衰えずとあることにある
璋子は"たまたま"絶世の美女に育ったことも重大な原因である
絶大な権力の下での話である
しかも鍾愛なのである
この、日本外史の記述は鳥羽帝の后になってからも続いていたことを暗に指摘している
帝王は庶民の道徳と反対のこともに徳の一つなのである

同じような疑いを持たれたのが平清盛である
清盛は祇園女御とは別で白河院に仕えた女房の腹だとされる
種は白河法皇である?
確かに清盛は忠盛の正室の子ではなかった
それでも異例の出世は後ろ盾の白河院の存在があると言われれば説得力はある
白河院のご落胤であるというのなら、それは忠盛や清盛には間尺に合う話だろう

璋子が白河院の養女として、いとこ鳥羽帝に入内したのは1117年12月(旧)である
1119年5月(旧)に第一皇子(崇徳帝)が誕生した
タイミングとしてはめでたい経過である
彰子は満年令19歳の若く健康な母体であった
だが彰子は鳥羽帝よりも3歳年上であった
鳥羽帝は1103年2月(旧)の生まれであり、満年齢16才3か月で皇子が誕生した、としたらなんとなく具合が悪いところもある
そんな具合の悪さがあとに尾を引いたともいえる

白河院の極めて近いところ、手元(?)で二人の英雄男児が誕生した
一人は平清盛であり崇徳院であった
ひょっとすると父を同じくする兄弟であったかもしれないのである・・・?
しかし、一方の英雄崇徳院はそのことゆえに悲痛な運命をたどることになるのである
後の世の歴史はこういう表現も可能である
それが正史とは別に語り物になっていく
それを物語ともいう
この項藤原璋子まだ続く
鯵庵(30.7.6)

[PR]
by ajiankyoto | 2018-07-06 21:27 | 崇徳院 | Comments(0)