2018年 08月 23日
滑石(すべりいし)越え
大正10年(1921)に開通、以後京都・山科から逢坂山(おおさかやま)をもくぐって大津(京都から約10キロ)と現在の線で結ばれることとなる
この山が東山36峰の一つ阿弥陀ケ峰である、山頂の標高は196メートル(今熊野阿弥陀ケ峯町)
歴史的にいうと京都と山科を結ぶ道(渋谷越(しぶたにごえ)や滑石越(すべりいしごえ))にあたるところから戦国時代には山城が築かれていたのが残っている
この峯の頂上が豊国廟(ほうこくびょう)、秀吉の遺言によりここに葬られた
ただ、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡により壮麗な廟は破壊された
今熊野(いまぐまの)から阿弥陀が峰の南麓を通って山科へ抜ける道が醍醐道(だいごみち)または滑石越(すべりいしごえ)という
山科の大石神社に至る、一部離合(りごう)の困難な個所もあるが府道118号として山科への抜け道でもある
大石神社のあたりに元禄の時代赤穂浪士の大石内蔵助(くらのすけ)が一時の寓居があった
大石の寓居から京の遊郭に通うのはこの道が直線距離で一番近いことになるのだが・・
冬は凍てつき通う大石も滑ったから滑り石(すべりいし)との謂れも言われるくらいの道でもある
当時の道路事情を思えばこの話には少し無理があるような気がする
大石が大望を秘しながら遊所に通った気持ちは聞きようはないが、山科から通った道は別の道(大岩街道?)であり
また通ったのは四条の祗園ではなく伏見(墨染・すみぞめ)の橦木町(しゅもくちょう)遊郭だったと言われる
それならば道としては最も近いことになる
これだと駕代で1万円弱?、当時の大石の懐具合を考えらばそんなものかと思われる
閑話休題(それはさておき)
風俗史から言えば、祇園の遊所が盛えだすのは元禄(げんろく)年間(1688-1704)の討ち入りから4、50年も後の頃であり
ちょうどその頃に赤穂浪士による主君の仇討事件(元禄15年・1702)に材をとった「仮名手本忠臣蔵」という芝居が始まることになる
その後また4、50年の後文化文政(1804-1830)の頃には嶋原をも上回る盛り場となる
仮名手本忠臣蔵の芝居の大ヒットは祇園の遊廓としての地位を一挙に上げたということにもなる
鯵庵(30.8.23)
by ajiankyoto
| 2018-08-23 09:36
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