2019年 10月 06日
寅の母
母の顔を知らない寅次郎は母を間違う
これが自分の母であったらと思う人ではなく、母は実は口の悪いラブホテルの女オーナーであった
映画は昭和44年のことだから、当時東山安井、毘沙門町は京都一のラブホテル街であった
正にその一軒のケバケバしいホテルで母と再会する
この場合ミヤコ蝶々はいかにも寅の母親にふさわしい
「誰が生んでくれと言った」と寅は言うし
「喜んで子を捨てる親がどこにいる」と母は言い返す
マドンナ役の佐藤オリエは
「おばさんなんてこと言うの、寅ちゃんはね、ただ生みのお母さんに会いたくてただそれだけでここへ来たのよ」
と言うセリフになる
長谷川伸の名作「瞼の母」とこのあたりでダブってくる
「瞼の母」では息子が名乗ってくるのは金目当てだと疑い、親に会いたかったら堅気になってから来いと言う・・し
子である番場の忠太郎は親に捨てられた子がヤクザになるしか生きてこれなかったと言う
ただ、一目会いたかっただけである、瞼の裏にはいつでも母がいる
ともに母は苦労して、料理屋やホテルを営んでいる、同じような設定だ
夫婦の愛は自己愛からスタートしている
だから解消した方が幸せになれると信じたら、いつでも解消できる
しかし、親子は自分以外を愛することから始まる
解消できない関係である
肉親とは親子・兄弟を言う
自分で運命を決められなかった存在なのである
それを血のつながった人と言うが
ただ、長い期間あるいは長い空白の期間を経れば
親を思う子の思いと、子を思う親の思いは必ずしも同じでない
親はこうあって欲しい、子はこうあって欲しいと思うことはただの夢想である
どちらも共通しているのは母親の苦労とたくましさだ
息子に助けてくれとは言ってない
結局、番場の忠太郎は自分の心から親を捨てる
フーテンの寅は現実の親との絆を取り戻す
その違いはどちらでもいい
鯵庵(1.10.6)