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葬式のレール(11)戒名は必要か(その2)

あなたが新しい都市の住民としたら、私は葬儀のこの時が考え時だと思う
いまさら、故郷の寺と縁を戻したりあるいは宗旨を変えたりしてまでお寺と付き合う必要はない
信徒や檀家と言われ家の寺を持つことは結構心休まることだけど
同じことなら、好き勝手にお寺周りや写経などする方がもっと心休まる
教団の経済との付き合いかか、人の生き方の問題かなのである
そもそも信仰は選択、場合によっては拒否さえできるのものである
信仰心は究極の文学であり、哲学であり美術であり芸術であっていい

今、小さな葬儀を売りに葬儀社が変わろうとしている
人の死は仏になる第一歩かもしれないが、死はあくまで個人の最後の尊厳そのものである
人の最期にのぞんで死後の名前(戒名)に階級を設けるという
その浅ましさに僧侶自らが気づかなければならない
大きな葬式であれ小さな葬式であれ、僧侶に進行を委ねない葬式を葬儀社に提案したい
言い換えれば戒名がなくても、それでも集える葬儀を目標にすべきである

葬儀で喪主を務めるチャンスがそうあるものではない
だが、喪主を勤めなければならないとしたら・・自分の葬儀と思って勤めるべきである
父母であり、配偶者であり、家族の葬儀は自分の葬儀と同じである
父母の葬儀に学び、やがて自分の始末をつけなくてはならない
生きてるときに出来ないことは死してなお出来るものではない
家族がなくとも・・仮に、あなたが家族に恵まれなかったとすれば
自分の最期を演出するのに遠慮はいらない

このブログ、孤独死から始めた
昔から冠婚葬祭は確立された次第というものがある
葬儀そのものはそれほど難しいものではない
金がないから家族がいないから身内がいないから孤独死になるのではない
名がないから人生がないから孤独死になるのである
”終活”などと言って葬儀社のパンフレットなどを取寄せて勉強してるのは終活にならない
葬式業界の営業戦略に乗ってしまっては逆に身内に迷惑をかけることになる

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親鸞には戒名はない
ただの釋親鸞である
戒名も法名も仏弟子になったしるしである
仏弟子になるということであれば、生前でも可能である
ならばどうすればいいのか
自分で決めればいいのである
まずそこから始めるべきである
鯵庵(3.4.9)

by ajiankyoto | 2021-04-09 07:52 | 葬式のレール | Comments(0)