2023年 04月 09日
(32)介護の遺伝子③楢山節考から70年
長男同士だと何かと話が合うとこのブログで書いたことがある
親の介護の経験や世話で悩む人には他人の話は切実だ
極端な話、私の父母はともに末っ子だった
私はその長男である、そんな事態に至って何かと気持ちが行き違う
と、思ったことが嫌ほどある
介護することは難しいのは事実だが
本当は介護される側こそ難しいのだ
その難しさは家族ゆえに拡大され爆発する
親と子の夫と妻あるいは舅と嫁とか
それぞれの尊厳と尊厳の戦いだからだ
年老いて汚くなった父母を見て
小説のセリフ・・「こんなにまでしてまだ生きたいのだろうか」
介護が始まったとたん間違いなくそう思う
思うのは当然かもしれないが、
実際に介護の長いトンネルを越えて初めてそれを越えられる
それが介護の遺伝子なのだ
家族の犠牲を当たり前のように期待するのは家族に対して横暴だ・・?
と気づくのも介護の遺伝子だ
個人主義、マイホーム主義や核家族は50年でほぼ定着した
おかげで親を介護する遺伝子は今は介護保険と老人ホームに引き継がれているのである
老後を自分の金で老人ホームへ行くことも子供孝行かもしれない
おかげで親を介護しなくとも親孝行ができると言うことだ
家族は最小の単位であるが、それが夫婦だけになり、最後は自分一人になる
配偶者があってもなかっても、子供がいてもいなくとも、最後のところは同じなのだ
小説「楢山節考」である
そうだ姥捨て山のことだ
皆必死で死ぬまで自分の肉体の始末を考えていかなければならない
コロナは一つの試練を与えてくれたかもしれない
時代が進んで親の生き方は自分とは違ったものになった
だが親の死に方は自分の死に方なのだ
家族の死は自分の死につながる
それだけが家族の絆として残る
(ここでこのテーマは終わる)
鯵庵(R5.4.9)