2023年 11月 15日
鳥羽離宮の塔

保元の乱のきっかけは近衛帝(76代)の崩御だった
天皇は鳥羽帝の皇子であったが、生母は藤原の得子(とくし・なりこ)、美福門院であった
待賢門院璋子(しょうし・たまこ)の後、鳥羽の寵を独り占めしていた
異母兄崇徳帝の譲りを受けてわずか3歳で即位した
位を譲らされて上皇になっても絶対的な鳥羽院政の下で崇徳院には何の力もなかった
だが、近衛帝は在位15年で17歳で崩御してしまった
崇徳院側に改めて機会が巡ってくることになったが
あの鳥羽院と美福門院は養子にしていた崇徳院の弟皇子(後白河)を推した
母待賢門院はすでに10年も前に亡くなっているし・・
後白河は自身に皇位が巡ってくることを期待していなかったようではあるが
後白河はその時29歳、近衛帝の異母兄である
崇徳の院政と後白河の親政とが対立することになった
朝廷の中の権力争いは、
摂関家や源氏や平氏も同じく同族の中の権力抗争が表面化対立となった
保元元年、近衛帝の崩御のその翌年7月に鳥羽院が崩御した
同月崇徳院は鳥羽を脱出、鴨川の東、白河の御殿に移った
その時、鳥羽には二つの塔があった
美福門院の墓所となるべき塔であったが、近衛帝が先に亡くなった
近衛天皇安楽寿院南陵これがその一つである
鯵庵(R5.11.15)
おはようございます
少し早いですが今年も楽しまさせて頂きありがとうござい
ます 来年も楽しまさせて下さいね 良いお年を
少し早いですが今年も楽しまさせて頂きありがとうござい
ます 来年も楽しまさせて下さいね 良いお年を
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> yumechiyanさん
コメントありがとうございます 来年は京都の歴史の不都合事情(裏側)をもう少し頑張ろうかなと思っています こちらこそ来年もよろしく
コメントありがとうございます 来年は京都の歴史の不都合事情(裏側)をもう少し頑張ろうかなと思っています こちらこそ来年もよろしく
by ajiankyoto
| 2023-11-15 11:32
| 崇徳院
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Comments(2)