2018年 07月 08日 ( 1 )

崇徳院の母(後)


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白河院がなくなって鳥羽院が治天の君となって廷臣を統率
白河院の後ろ盾を失った崇徳帝の人生が暗転する
それは、待賢門院璋子も同じことだった
鳥羽院は璋子に変わって美福門院(びふくもんいん・とくこ)を寵愛し、やがてその3歳の皇子に帝位を譲らせた、それが近衛帝である
権勢を失った待賢門院は西ノ京、双ヶ岡(ならびがおか)の寺に入って落飾する
それが法金剛院の再建につながる
数年を経ずして40余歳で亡くなった

その後10年の後、近衛帝が17歳で崩御することで歴史がまた動き出した
鳥羽院は最後に、後白河を帝位につけて崩御する
母は待賢門院である
院は崇徳院、帝は後白河、母を同じくする兄弟が並び立ったのである
崇徳は自らの皇子を帝位につかせたかったが、鳥羽院はそれだけは許さなかった
崇徳院は院政の継続も期待したが、弟後白河はすでに壮年
父(鳥羽帝)は最後まで自分の子として認めなかった
母が同じでも・・父系の系統から言えば遠い、その疑念をはらしようがなかった
帝位は時の絶対権力者鳥羽院の血筋でなければならなかったとすれば当然のことだったのかもしれない
この後、すぐに始まるのが保元の乱である

崇徳院は弟後白河対して「文なく武なく・・」と帝位に相応しくないと明らかに苦々しく思っていた節がある
その「・・武なく・・」と評した後白河帝に、一日の闘いで負けてしまうことになる
物語を読み、歴史の流れを知る我々には分かることだった
崇徳院には分らなかったのは仕方がない
待賢門院は兄弟が闘う悲劇を見ることはなかった
10年前に亡くなった待賢門院は知らなかった方がいいのかもしれない
待賢門院はまた絶大な院政に名を留める後白河の母でもある

待賢門院は法金剛院の五位山の背中、花園西陵に鳥羽の皇后璋子として眠る
法金剛院、今は花園駅の前、関西花の寺、蓮の花咲く時期には境内が一杯になる
璋子が生きたのは今から900年も前の話である
絵は法金剛院に残された待賢門院
鯵庵(30.7.8)

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by ajiankyoto | 2018-07-08 07:42 | 崇徳院 | Comments(0)