2019年 02月 10日
皆が行きたくて誰もいないところないですか?

京都嫌いは構わないのだけれど、市民にしてみれば見てしまったと言われるのはつらい
大したおもてなしも出来ないけどそれじゃうち(我が家)へ泊まってくださいと言いたくなる(言いたくなるだけ)
見るところがないというけど、見るべきところは何処だったのでしょうね
京都はすでに観光客の数には不自由していません
でも、それだけではやっていけないのが観光ビジネスです
鉄道だってホテルだってレストランだって土産物屋だってそうなんです
失礼ながら観光寺院だってそれが経営の上で効果的なことを知ったわけです
業者が用意してくれるものは言い換えればそれは多数という名の客が教えた答えなんです
京都の観光業者の気質は京都に来る人の一番多い期待を読んだものだと思います
実は業者も役所も学んでいるのです
特に観光業というのは、結局は一番多い悩みを探してその答えを用意するのを業とするものです
読みが当たれば商売が成り立つわけです、毎年その繰り返しで学習した結果なんです
だからそんな京都が嫌いだという人も増えてきました
この頃やっと旅人の大多数が実は個性的な少数派だとわかってきました
それでも、市役所ですら犬が羊を追うように群れを見てるわけです
そこが落とし穴なんです
観光業は観光客それぞれの期待には永遠に応えられない業種なのです
割り切れない一人一人の割り切りを合算して加重平均したものしか用意できないのです
が、結局はあなたの思いとはミスマッチの結果に終わります
店や業者は割り切れない多数の一見さんを相手にそれで商売が出来るのですが
市長や市民までが群ばかり見て浮かれてしまっては気付けないことになります
2018年 10月 24日
京都の自転車⑻京都人になりたい

レンタサイクルにもおしゃれな自転車が増えています
自転車屋でも自転車を借りられます
歩いてこそ・泊ってこそ、食べてこそ・・旅行者狙いのレストランや土産物屋に実は京都の人が並んでます
本に書いてあればたこ焼きだってうどんだって並びます
並べる店を探してます
穴場も調べておきます
おもてなしというのはそれぐらいは当然です
京都で暮らしているだけでは京都人ではありません
スミマセン、教えてください
どうすれば京都人と呼ばれるようになるのですか
鯵庵(30.10.24)
2018年 10月 17日
京都の自転車⑹八つ橋のお土産

2018年 09月 21日
一番増えたのはタバコ屋?

いずれにしろ私が止めた頃の2倍の値段に驚く
それにしても銘柄が多すぎる・・・・
ついでながら・・・タバコ屋は少ななったね
自動販売機はあるが店番のいるタバコ屋は少なくなった
だが、コンビニがタバコを扱うようになったら、逆にコンビニの数だけタバコ屋が増えた計算だ
タバコを買う人が減ってしまったから市場としては縮小傾向にある?
路地の住民にとってタバコは嗜好(しこう)の第一だったけれど、
この頃は路地の住人には手の届かない値段になってしまった
年金では買えない
あれほど税金払っていながら肩身が狭いのには憤慨したが、結局、小生もやめた
やっとやめられた、と言うところ
医者に言わせえば間に合ったかどうかは分からないと言う
だがしかし、パートに行こうとしたらスモーカーでは仕事がない
街角にあったタバコ屋、看板娘でなくとも、親切なおじいさんおばあさんが店番していた
誰でもタバコ屋をやれるわけではない
当時専売公社の専権事項だった
ゆっくり店番しながら、実は近所のパチンコ屋にタバコを納めていた
一箱何円の売上手数料だ
パチンコ屋の景品の一番はタバコだった時代のことである
バーもスナックもタバコ代はたて替えで、つけで飲むときもタバコ代は取られた
タバコ屋をやっていると世の中の景気も分かった
町内の民生委員みたいなこともあるし、情報通でもある、とある人が言っていた
何よりも町のタバコ屋は防犯ビデオだった、と
タバコ屋にとってかわったコンビニも町のよろずやさん
せめて町内に防犯ビデオくらい寄付してもいいのではないだろうか
鯵庵(30.9.21)
2018年 09月 20日
京都駅ビルの雨

2018年 09月 18日
八幡大菩薩の松花堂

これら宿坊も明治の神仏分離で全て毀(こぼ)たれた
生き延びて三代も続けば上手くすれば門前の茶店ですらいまどきは高級料亭と言われるくらいの変化はおかしくないのに、石清水には何も残らなかった
松花堂弁当、石清水八幡宮の社僧であった松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう・1584-1639)の宿坊に名前を由来する
八幡社の文化とは直接的なつながりはない
食い物の歴史というのは〝仕掛け″の世界だと思う
今は神仏分離のそのものの形跡がなくなった
仕掛けた名前だけが残ってしまった
おかげで、松花堂跡の名前が案内地図にも残った
そんな手こねのいわれは当の松花堂にもいまさら頓着のしようもないって?
京阪特急のハトは石清水八幡宮のハトらしい
鯵庵(30.9.18)
2018年 08月 31日
七条大橋

大正2年(1913)開通、鴨川にかかる大橋で一番古い
京都は水害の街である、何度も鴨川の洪水に耐えた
土木遺産(土木学会・2008)の一つ
橋の下でジャコ釣りしたこともある
鯵庵(30.8.31)
2018年 08月 25日
JR奈良線を行く

JR奈良線は宇治川鉄橋を単線で渡る
単線のことを一車線という若い子がいた、その方がわかりやすい?
JR奈良線は京都から木津まで34.7キロメートル、奈良線といいながら奈良県には線路が無い
実はこれ古往(むかし)の私鉄路線であったからからだ
今でも京都府内の木津駅は関西線の駅であり、奈良線は木津駅が起点になっている
奈良線が国有化される前(明治40年・1907)は関西鉄道の線路であった
その前は奈良鉄道として明治29年(1895)に京都・奈良間で運転されていた、とある
全線開通120うん年はこの時をスタートとしている
ただ、その頃は京都から奈良へ向かう線路は京都から桃山までは近鉄京都線ルートを通っていた
要は大正10年の東海道線東山トンネルの開通(東海道線に切り替え)によって
それまでの東海道線を稲荷から桃山までつないでが奈良線になった
現在の線形である
レール幅は狭軌(1067ミリ)である
鯵庵(30.8.25)
絵は黄檗山萬福寺の布袋さん
黄檗駅は昭和36年(1961)設置された。ここまで来ると外国人の喧騒から解放される。中国式の禅宗が日本の心を落ちつかせるのが不思議だ。
2018年 08月 23日
滑石(すべりいし)越え

大正10年(1921)に開通、以後京都・山科から逢坂山(おおさかやま)をもくぐって大津(京都から約10キロ)と現在の線で結ばれることとなる
この山が東山36峰の一つ阿弥陀ケ峰である、山頂の標高は196メートル(今熊野阿弥陀ケ峯町)
歴史的にいうと京都と山科を結ぶ道(渋谷越(しぶたにごえ)や滑石越(すべりいしごえ))にあたるところから戦国時代には山城が築かれていたのが残っている
この峯の頂上が豊国廟(ほうこくびょう)、秀吉の遺言によりここに葬られた
ただ、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡により壮麗な廟は破壊された
今熊野(いまぐまの)から阿弥陀が峰の南麓を通って山科へ抜ける道が醍醐道(だいごみち)または滑石越(すべりいしごえ)という
山科の大石神社に至る、一部離合(りごう)の困難な個所もあるが府道118号として山科への抜け道でもある
大石神社のあたりに元禄の時代赤穂浪士の大石内蔵助(くらのすけ)が一時の寓居があった
大石の寓居から京の遊郭に通うのはこの道が直線距離で一番近いことになるのだが・・
冬は凍てつき通う大石も滑ったから滑り石(すべりいし)との謂れも言われるくらいの道でもある
当時の道路事情を思えばこの話には少し無理があるような気がする
大石が大望を秘しながら遊所に通った気持ちは聞きようはないが、山科から通った道は別の道(大岩街道?)であり
また通ったのは四条の祗園ではなく伏見(墨染・すみぞめ)の橦木町(しゅもくちょう)遊郭だったと言われる
それならば道としては最も近いことになる
これだと駕代で1万円弱?、当時の大石の懐具合を考えらばそんなものかと思われる
閑話休題(それはさておき)
風俗史から言えば、祇園の遊所が盛えだすのは元禄(げんろく)年間(1688-1704)の討ち入りから4、50年も後の頃であり
ちょうどその頃に赤穂浪士による主君の仇討事件(元禄15年・1702)に材をとった「仮名手本忠臣蔵」という芝居が始まることになる
その後また4、50年の後文化文政(1804-1830)の頃には嶋原をも上回る盛り場となる
仮名手本忠臣蔵の芝居の大ヒットは祇園の遊廓としての地位を一挙に上げたということにもなる
鯵庵(30.8.23)
2018年 07月 15日
単線/正面通の行きつくところ
