カテゴリ:都市( 56 )

ツバメは日本から来る


b0355451_20231477.jpg
京都の今年の満開日は3月28日で平年より8日も早かった
早くも遅くも約1週間のことである
過ぎてしまってから言う訳ではないが、花は毎年のこと、
そう騒ぐほどのことではない
京都気象台がツバメの初見を発表している、3月24日だった、平年より2日早かった
南の方から上がってくるのだから、当然だけど・・ツバメ前線というのもあるのだ

素人がちらっと調べてみるとツバメ前線は満開に前後してやってくることが分かる
桜が咲いて、田んぼを始める、そのタイミングなのだ
サクラの代表ソメイヨシノはクローンである、だからほぼそろって開花する
ツバメはオスが数日早くやってくるということだ、その後家族になる一団がやってくる
その間にやっと人の目に触れる、今年もほぼ今頃の筈だ

ツバメはオンとメンの遺伝子を受け継いでいる、個性的でもあるが一羽ごとの命なのだ
それゆえか、日本に来るツバメはびっくりするほど減ってきている
日本で暮らす子育ての頃が一番危険だ
イタチや蛇やカラスに狙われ続けている
ツバメは戦うことを放棄した鳥なのだ
だから人の近くでしか生きていけない
廃屋の村でもサクラは咲くしカラスはいるが、ツバメはいない
過疎こそはツバメの天敵なのだ
一番の原因はそこにあるのだ

都市のツバメは開けっ放しの駅や24時間営業のスーパーなどによってくる
だが、駅員や警備員は今年は巣を作らせまいと躍起だ
街中でもツバメが暮らせるところが極端に少なくなっている
日本で子供を育てるツバメは日本の鳥だ
ツバメは南から来るのでなく、日本から来るのだ
我らもむかし田舎から出てきた
後を追ってきたツバメぐらいは最後まで守ってやりたいものだ
鯵庵(30.4.6)

[PR]
by ajiankyoto | 2018-04-06 08:00 | 都市 | Comments(1)

サクラ切る人


b0355451_10204801.jpg
今年のサクラは3月中に満開になってしまって予定が狂った人もいるかもしれない
特にソメイヨシノは葉が出てくる前に満開になる
その瞬間の短さが日本の春の景色を作っている
日本列島、北に向かってサクラを追いかけていく人もいる
ソメイヨシノは近世に作り出された園芸品種である
挿し木・接ぎ木でしか増えないクローンだから、極めて老化が早い
寿命は60~70年と言われる
このサクラも今精一杯咲いているのだろーな、とは思ってはいた
近所の工場のフェンス際に数本の大木があった
そこまでは去年の春の話である

その後のある日造園屋のトラックとクレーンがやってきたというわけだ
毎年の剪定かと思いきや、その古いサクラの大木を切ってしまったものだから景色がすっかり変わってしまった
もちろん今年の花見は出来ない
何でサクラを切ったの・・その事情を聞きに新しい役員さんが工場の守衛長さんに面会した
ところが、予想もしない話を聞いて帰ってきた
以前の自治会の役員の一人の方が、その会社に"しつこく”苦情を言っていたようだ
花は一時、それ以外の年間は結構手間がかかるし何かと不十分なことがありますと会社の守衛さんも平身低頭していたらしいが
ついに自治会の要望として会社に相談したのかもしれない・・
確かに散る花びらや消毒や落ち葉にすらきっちり苦情を言いたい人もいるようだ
が、町内の住民も何も知らなかったことも少し不思議だ

公共施設にサクラを植えるのを嫌うという話を聞いたこともある
互いにそれほど迷惑だったということはないのに・・民間会社だから苦情があればこの際と言うことになったのだろうか
近所の住民の花見に開放してくれと言われてるのがいやだったのかもしれない
結局は、寿命が来たソメイヨシノの老木を切ることを決めるなんて会社にとって簡単なことだったのだろう

サクラと言えばソメイヨシノとばかり思っている人も多い
もうサクラも終わったね、と言うがほとんどのサクラの種類はこれからなのである
戦後復興から70年、盛りの最後のソメイヨシノが日本中にある
近所の工場はもうソメイヨシノを植えないだろう
いつの間にか大きな会社になってしまった
同じように大きくなったソメイヨシノなのだが、もはや老木はこの工場のシンボルにはならない
それだけではなくすっかり周りが住宅になってしまっている
今度は郊外に引っ越しを考えているかもしれない

ここにきてソメイヨシノは世代交代が上手く行かない例かもしれない
鯵庵(30.4.1)

[PR]
by ajiankyoto | 2018-04-01 10:22 | 都市 | Comments(1)

(前項に続く)
だからと言って都の中心通り、「朱雀(すざく)」では振りかぶりすぎる
「千本七条」でもいいが、千本通りとしてはすでにJR線路がかぶってしまって道がない
七条通にまたがって出来るので「七条」もいいが、それでははるか鴨川を超えてある京阪電車の駅に紛らわしい


b0355451_08310178.jpg
「大操車場跡」では地域の発展を大阻害してきた歴史が思い出される
が、それなら逆に梅小路地区への罪滅ぼしと考えるべきである
そんなことをなど考えあわせば梅小路公園で定着した「梅小路」がイメージに近い
罪滅ぼしはまだこれからのことだ
所詮、大阪の梅田貨物駅跡の大開発とは力の入れ方が違うのは仕方がない

歴史的に言って丹波口が一番正しい
がしかし隣の駅が丹波口を使ってしまった
二つ変えるならこちらが丹波口で現丹波口が新丹波口である
しかし、それでは後先が逆になる
駅名としては分かり易さと地域の発展が祈念されているものである
新駅効果としてもう一度七条商店街が勢い取り戻した姿を見たい
四条の錦市場はもはや市民が入れないところになった
それはそれでいいが・・
新駅の西には京都市民が市民生活のための市場と商店街の姿が以前にはあった
駅名も商店街も「七条丹波口」にしたらどうか・・?
もちろんこれは小生の勝手な意見である
開業は平成31年の春らしい
それまでには決定するだろう

いかに京都市やJRが観光地だけのミーハーな観光営業をすすめようとも
京都市民には歴史的地名に関しては譲れないものがある
街づくりは暮らしのためであるところからはずれないでほしい、念じたところである
鯵庵(30.3.24)




[PR]
by ajiankyoto | 2018-03-24 10:30 | 都市 | Comments(0)

b0355451_08143385.jpg
梅小路(うめがこうじ)というのも平安京時代の名でもある
上から七条大路・塩小路・八条坊門小路・梅が小路・八条大路となる
JR東海道線はほぼこの平安京の梅が小路に沿って走っている
またJR嵯峨野線は平安京の朱雀大路を南北に走っている
京都駅から大阪や嵯峨に向かうこの線路の根本のところが明治には七条村梅小路と言っていたが・・
国鉄はここに線路だけでなく東海道線梅小路貨物駅を作った
国鉄が膨大な土地を取得してこの地区の発展を長く阻害してきた
確かに今は半分以上も精算して市役所は大きな市民公園梅小路公園を作った
それでもまだこの地区の東西南北を隔てる巨大な鉄道空間が残っている
だからこそここに苦もなく鉄道博物館が出来るわけである

ところがまたここに嵯峨野線の新駅ができる
新駅と新駅の駅名はその町の発展を左右する
駅名の取り合いになる、しかし決めるのはJRである
もともと「丹波口」も「島原」も歴史を知らないミーハーには意味が分からない
歴史を戻れば平安京の朱雀通り、七条には都の迎賓館である・鴻臚館(こうろかん)などが営まれた土地
平安時代は平家一門の館もあったというが・・
七条の商店街が復活するとこまで行けるのだろうか
(この項続く)
鯵庵(30.3.23)

[PR]
by ajiankyoto | 2018-03-23 09:51 | 都市 | Comments(0)

羅城門から東寺へ

b0355451_07262935.jpg
今回は京都の入り口の案内です
都の入り口、朱雀大路の南には羅城門があった
羅生門(芥川龍之介原作・大映京都1950)と言う古い映画が有名で羅生門と思ってる人も多い
平安京の堂々たる楼門ではあるが早くに荒れて倒壊した
内裏に一番遠いところにあるのが羅城門だから都が荒れれば門も荒れる
しかも、平安京は都に壁がないのだからこの門も交通上の役割としては少ない
この羅城門の上にあってこの門と都を守っていたのが兜跋(とばつ)毘沙門天
毘沙門天は、仏法を守護する四天王の一つである武神で多聞天のことである、が独尊としては毘沙門天と言われる
兜跋と言うのは中央アジアにかってあった兜跋国(とばつこく)のことらしい
羅城門の東・西に作られたのが東寺・西寺、平安京の官寺である
西寺は古くに廃寺になったので残っているのが東寺と言うことになる
東寺は空海が入って(823)栄えてきた

作家司馬遼太郎は京都の寺々を歩くときここ東寺の御影堂(みえどう)で待ち合わせ、ここを出発点にするのがふさわしいと書いている
ここは空海が住まいとしていたところである
今でも空海に毎朝食事を差し上げている
羅城門の上にあった毘沙門天はこの御影堂に隣接した毘沙門堂に祀られている
足利尊氏が西国から戻って来た時、この東寺に入って京都を料理した
秀吉の都市計画では、京都の街のお土居はこの東寺を南端にしている
羅城門跡や西寺跡はお土居の外であった
当然、東寺は西国やなにわへの街道の出発点でもある
国道171号線や1号線を走ってくると東寺に達し、京都の街に入ったことになる
京都駅が隣だ
テレビドラマで東寺の塔と駅前の京都タワーを写せば京都が舞台だという合図になるという根拠の一つです
写真はロームのビルと京都タワー
鯵庵(28.7.15)



[PR]
by ajiankyoto | 2018-03-15 21:38 | 都市 | Comments(0)

b0355451_08235077.jpg
この旧丹波口駅、昭和になっては京都市中央市場(昭和2年の開設)の前の駅であった
昭和51年(1976)山陰線の高架工事の完成で丹波口駅は500メートルも北の五条通りまで移動した
駅前の機能と駅前のもたらすはずの効果も全て正面通(あるいは七条通りから)から五条通(国道9号線)に移ってしまった
国道9号線は新しい山陰道である
だから、丹波口という名称はそのまま引き継がれた

かくして正面通は行き止りになった
今は京都の大きな路地の一つである
一方島原(京都)競馬場のあとは、昭和・平成になって開発が進んだ
京都市の中央卸売り市場も来たし、一時(いっとき)球形のガスタンクが林立していた
が、今は、京都リサーチパークというビジネス街が作られた

だが、まだこれで終わらない・・という話になる
平成20年代(2015)になって、JRは現在の丹波口駅(たんばぐちえき)から約800メートル京都駅寄りに高架新駅を作ると発表した
蒸気機関車館や梅小路公園もある
今度、鉄道博物館も開業するということが動機で京都市と話し合ったみたいである
500メートル北へ移動した丹波口駅が800メートルまた南に新丹波口駅が出来るということになる
既設高架鉄道に高架駅を新設することになるので工事としては難しい、費用もかかる

新駅は七条通りにまたがって出来る
ここは往古(むかし)から山陰街道に繋がっていた
このあたりこそが、歴史的な「丹波口」に近い
しかし今更、「丹波口」という駅名にするわけにはいかんやろうね
それならいっそうのこと昔の名前で出ていますと、「島原」駅はどうだろうかね・・
とちらっと思ったわけである
鯵庵(30.3.9)


[PR]
by ajiankyoto | 2018-03-09 20:00 | 都市 | Comments(0)

b0355451_13163086.jpg
島原はその時でも町はずれであった
正面通(しょうめんどおり)の行き着くところは山陰街道の丹波口と書いた
実は明治に入っては鉄道の「丹波口駅」でもあった
元々は京都鉄道の二条~京都間の駅であった
明治40年に京都鉄道が国有化された
明治の間は島原遊郭と島原競馬場(京都競馬場)の前の駅であった

小説家水上勉(みなかみつとむ)の「京都遍歴」に"初めて京都に出て来た時、田舎の和尚さんに連れられてこの丹波口駅で降りた"と書いている
丹波口駅は極めて粗末な駅で駅前広場もなかった
駅前から東へ市電の通る大宮通に出るにはいきなり続く両側妓楼の客引きの中を抜けた記憶を書いている
千鳥格子に化粧ガラスは妓楼の作りである
娼妓は首に包帯を巻いていたという
昭和の初めの頃の風景である

格式の遊郭としては当時は既に相当に寂(さび)れていたとは思う
大正8年の生まれの作家10歳の頃の記憶である
お寺に入るために京都に来た作家にとっては現実の都会の明かりだったかもしれない
それもその筈である
後にも先にも国鉄の駅前通りが遊郭であるのはなかった、とも書いている

京都競馬場はそのころはすでに船井郡の須知町(京丹波町)に移っていた
競馬ブームがもっともっと早かったら島原の丹波口駅は残ったかもしれないし
島原も競馬場の前の風俗街として残ったかもしれない
現に京都の祇園のど真ん中にも中央競馬会が進出している
繁華街や遊郭の一番の客はあぶく銭だからである
鯵庵(30.3.5)

[PR]
by ajiankyoto | 2018-03-05 08:00 | 都市 | Comments(0)

b0355451_20172693.jpg
茶屋とは茶店などと同じで休憩所のことであった
その中で飲食や遊興が出来る家が出てきた
これを江戸時代には出会茶屋(であいちゃや)とか待合茶屋(まちあいちゃや)とか言った
遊里(ゆうり)にあるのは引手茶屋(ひきてちゃや)とか言うのが時代劇に時々登場する
客が妓楼(ぎろう)に上がるまでの間、飲食や遊興を提供した
これが待合(まちあい)である

現代は遊郭(ゆうかく)はない
花街(かがい)で芸舞妓(げいまいこ)を呼ぶのはこの待合に限られる
京都ではこの待合のことを〝お茶屋″という
お茶屋は料理屋でないので仕出しの料理が提供される
貸席業である
芸者と料亭などで飲食したい場合もこのお茶屋を通さねばならない
お茶屋が芸者のいる世界・花街を商業として回しているのである

時代が前後するが・・
島原などの格式のある遊郭で上級の遊女(天神とか)をよぶのは揚屋(あげや)と言った
揚屋は大きな宴席にも耐えるように大きな台所を持った
この場合はお茶屋と料亭を兼ねたことになる
明治の初めまで続いた
この稼業でそれだけのものを用意できるのは相当大きな資本が必要である
花魁(おいらん)や遊女は江戸時代の資本主義のゴミ置き場のそばに咲いた花である
鯵庵(30.3.2)

[PR]
by ajiankyoto | 2018-03-02 09:34 | 都市 | Comments(0)

b0355451_21092815.jpg
作家M氏は、著作の中で格式の高い島原の太夫であっても女性残酷物語でしかないという
客が有名文化人であっても客の消費のための営業戦略に過ぎない
小生は、この論で目から鱗である
太夫は商品としても価値が高いといえる
ただ、その価値とは教養であったのが救いである
そのために遊郭は立派な社交場だと主張する人もあるが、
それこそ設備投資の営業戦略に過ぎないとも言える
買う方から言えば教養を持った肉体を買うためためにはそれ以上の教養か財力がいるのは当たり前のことだ

当時の状況を解説する力は小生にはない
しかし、言えることは島原のこの戦略は早くから斜陽に入っていた
ご一新(明治維新)の明治に入って殷賑の火が消える
・・・幕末新撰組は京の町はずれ壬生に屯所を構えた
京都守護職会津公は徳川の武門の棟梁でありながら勤王の志の高いであった
御所のために働くことが徳川のためであるという信念で生きた人である
京都では言葉さえ通じない田舎者だと言われた、がそれ故に田舎者新撰組(守護職のお預かり)を大事にした
歴史的に他に例のない組み合わせである
だから、浪士隊ながら公金で賄われていた
ただ、機動部隊だから常時うろうろされたのでは困る
潤沢な活動費はあっただろう
そんな彼らが今まで稼いだことのない給金を命の洗濯に使うのは当たり前であろう
社交などというものではない

壬生から坊城通りを下れば島原の大門に達する
彼らは田園の細い道を通って島原に通った訳である
反対の方角に向かえば過激なテロリストがいる京の町に出てしまうのである
それでは遊べない、そっちは職場なのである
壬生からたった1.2㌔ではあるが、島原はそれほどの僻地であるということである
機動隊員である彼らは屯所からそれ以上遠いところでは遊べないということでもある
歴史小説共通の感慨である

正面通が都の中で行きついたのが島原である
だから、江戸期を通じて官許の遊郭なのである
が、その重さが邪魔をしたのかもしれない
天神・太夫などと言っても女性残酷物語である
今となっては浅田次郎の小説「輪違屋糸里」が詳しい
明治・大正・昭和を迎えて遊郭は全盛状態から全滅状態へ移ったけれど、
何故か街中(歓楽街)の五花街だけが雰囲気を残している
売春防止法をとどめに芸者と舞妓の街に変貌を遂げたせいであろう
それはいいけど、遊郭はなくなったわけであるが売春が無くなったわけではない
売春に格式は要らないという結論になったわけであろうか

写真は島原の輪違屋、明治以前は置屋である、多くの遊女を預かっていた、明治以降はお茶屋も兼ねている(現在進行形?)
花街のことはこのエキサイトブログ「花街ぞめき(https://gionchoubu.exblog.jp)」さんに詳しい、鯵庵もフォローしてかつ脱帽している・・
鯵庵(30.2.24)

[PR]
by ajiankyoto | 2018-02-24 19:00 | 都市 | Comments(0)

b0355451_16463911.jpg
都市では遊びごとが必要である
特に男の遊びごとに売笑(ばいしょう)はつきものである
言いかえれば媚びを売る商売は都市でしか成功しない
都市に人が集まり様々な階層の人間が貨幣経済の中で暮らし始めている
貧しさが原点だから・・何時の世にも絶対に無くならない

平安時代は京都が最も平和な時代でその時から職業化してきた
様々な形をとりながら芸能で生きる階層が形成されていた
都は大消費地でありその階層の中でも遊女もまた職業として成り立っていた

室町期も織田・豊臣の時代も権力の許しや黙認を得ていくつかの傾城町(けいせいまち)があった
権力交代によって都の外郭を回るように何度も移転せられながら、
その中の最大のものが東本願寺の北、六条室町(三筋)にあった
徳川体制の京都の町づくり、あるいは経済対策上の施策とし唯一官許としての保護を得てきた
南西の外郭丹波口に移ることによって公に商売の継続が許されたのそれが島原であった

写真は正面通(伝導院)
鯵庵(30.2.13)


[PR]
by ajiankyoto | 2018-02-13 08:14 | 都市 | Comments(0)