カテゴリ:都市( 74 )

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京都の名菓に"八つ橋"がある
人気があって多くの店が作っている
ここ数十年においてはその生の生地に粒あんを挟んだものがヒットしている

例えば「おたべ」と言い、例えば「聖(ひじり)」と言い、例えば「夕子」と言い、例えば「あんなま」と言いまた「なまやつ」と言ったりである
京都の八ッ橋商工業協同組合には14社も参加しているし、それ以外にもアン入り生八つ橋の商品は多くある
料理やお菓子には特許はない

数年前に京都大学が『私たちはお土産にどの八ッ橋を買えばよいのか』という情報工学的?な調査論文がネットに載っていた
調査結果の中で
「誰もが知っている京都の代表的なお土産である八ッ橋の中でも一味違うところを見せつけていきたい人は仁王門通り○○堂の八ッ橋を・・お土産として買って帰られるのがよいのではないか」と言っている
いかにも工学的な表現で内容の割に非文学的なところが面白い
ここなら自転車で買いに行ったり途中に寄るのにはちょうどのところにある

私は今時の学生や科学者の味覚を信用はしていないが・・
共栄堂は山科が本店だった
鯵庵(30.10.17)

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by ajiankyoto | 2018-10-17 09:36 | 都市 | Comments(0)


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最後に私はマイルドセブンの1ミリグラムを吸っていたが
いずれにしろ私が止めた頃の2倍の値段に驚く
それにしても銘柄が多すぎる・・・・

ついでながら・・・タバコ屋は少ななったね
自動販売機はあるが店番のいるタバコ屋は少なくなった
だが、コンビニがタバコを扱うようになったら、逆にコンビニの数だけタバコ屋が増えた計算だ
タバコを買う人が減ってしまったから市場としては縮小傾向にある?
路地の住民にとってタバコは嗜好(しこう)の第一だったけれど、
この頃は路地の住人には手の届かない値段になってしまった
年金では買えない
あれほど税金払っていながら肩身が狭いのには憤慨したが、結局、小生もやめた
やっとやめられた、と言うところ
医者に言わせえば間に合ったかどうかは分からないと言う
だがしかし、パートに行こうとしたらスモーカーでは仕事がない

街角にあったタバコ屋、看板娘でなくとも、親切なおじいさんおばあさんが店番していた
誰でもタバコ屋をやれるわけではない
当時専売公社の専権事項だった
ゆっくり店番しながら、実は近所のパチンコ屋にタバコを納めていた
一箱何円の売上手数料だ
パチンコ屋の景品の一番はタバコだった時代のことである
バーもスナックもタバコ代はたて替えで、つけで飲むときもタバコ代は取られた

タバコ屋をやっていると世の中の景気も分かった
町内の民生委員みたいなこともあるし、情報通でもある、とある人が言っていた
何よりも町のタバコ屋は防犯ビデオだった、と
タバコ屋にとってかわったコンビニも町のよろずやさん
せめて町内に防犯ビデオくらい寄付してもいいのではないだろうか
鯵庵(30.9.21)

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by ajiankyoto | 2018-09-21 07:56 | 都市 | Comments(0)

京都駅ビルの雨

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今の京都駅ビルは4代目の京都駅舎である
平成9年に完成した
その後・・
京都観光の出発点でもある
何よりも京都最大のターミナルである
が、何十メーターも上から雨が降ってくる

この前の台風でガラス張りの大屋根の一部が割れた
風が一番きつい時にカラスが落ちてきた
電車は早くから止まっていた
電車は止めても・・
そんなことは想定していないから速やかな修理も想定していない
コンコースの上の天井、どうして?いつ頃?なおるのか気にしている

1枚、2枚のガラスだととらえるべきではない
小さな予兆でもある
観光に浮かれる京都にも想定外が潜んでいる
観光客のためだけにある街ではない
それでなくともこれから起こることは皆想定外のことばかりでもある
鯵庵(30.9.20)

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by ajiankyoto | 2018-09-20 08:26 | 都市 | Comments(0)

七条大橋

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七条通り(府道)にかかる全長82メートル鉄筋コンクリートアーチ橋
大正2年(1913)開通、鴨川にかかる大橋で一番古い
京都は水害の街である、何度も鴨川の洪水に耐えた
土木遺産(土木学会・2008)の一つ
橋の下でジャコ釣りしたこともある
鯵庵(30.8.31)

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by ajiankyoto | 2018-08-31 17:59 | 都市 | Comments(0)

JR奈良線を行く

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JR奈良線は京都府内を走る
JR奈良線は宇治川鉄橋を単線で渡る
単線のことを一車線という若い子がいた、その方がわかりやすい?

JR奈良線は京都から木津まで34.7キロメートル、奈良線といいながら奈良県には線路が無い
実はこれ古往(むかし)の私鉄路線であったからからだ
今でも京都府内の木津駅は関西線の駅であり、奈良線は木津駅が起点になっている
奈良線が国有化される前(明治40年・1907)は関西鉄道の線路であった
その前は奈良鉄道として明治29年(1895)に京都・奈良間で運転されていた、とある
全線開通120うん年はこの時をスタートとしている

ただ、その頃は京都から奈良へ向かう線路は京都から桃山までは近鉄京都線ルートを通っていた
要は大正10年の東海道線東山トンネルの開通(東海道線に切り替え)によって
それまでの東海道線を稲荷から桃山までつないでが奈良線になった
現在の線形である
レール幅は狭軌(1067ミリ)である

鯵庵(30.8.25)
絵は黄檗山萬福寺の布袋さん
黄檗駅は昭和36年(1961)設置された。ここまで来ると外国人の喧騒から解放される。中国式の禅宗が日本の心を落ちつかせるのが不思議だ。

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by ajiankyoto | 2018-08-25 09:14 | 都市 | Comments(0)

滑石(すべりいし)越え

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JR線が東向きに大津に向かって走って行って概ねすぐにトンネルに入る、このトンネルを東山トンネルという
大正10年(1921)に開通、以後京都・山科から逢坂山(おおさかやま)をもくぐって大津(京都から約10キロ)と現在の線で結ばれることとなる
この山が東山36峰の一つ阿弥陀ケ峰である、山頂の標高は196メートル(今熊野阿弥陀ケ峯町)
歴史的にいうと京都と山科を結ぶ道(渋谷越(しぶたにごえ)や滑石越(すべりいしごえ))にあたるところから戦国時代には山城が築かれていたのが残っている
この峯の頂上が豊国廟(ほうこくびょう)、秀吉の遺言によりここに葬られた
ただ、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡により壮麗な廟は破壊された

今熊野(いまぐまの)から阿弥陀が峰の南麓を通って山科へ抜ける道が醍醐道(だいごみち)または滑石越(すべりいしごえ)という
山科の大石神社に至る、一部離合(りごう)の困難な個所もあるが府道118号として山科への抜け道でもある
大石神社のあたりに元禄の時代赤穂浪士の大石内蔵助(くらのすけ)が一時の寓居があった
大石の寓居から京の遊郭に通うのはこの道が直線距離で一番近いことになるのだが・・
冬は凍てつき通う大石も滑ったから滑り石(すべりいし)との謂れも言われるくらいの道でもある
当時の道路事情を思えばこの話には少し無理があるような気がする

大石が大望を秘しながら遊所に通った気持ちは聞きようはないが、山科から通った道は別の道(大岩街道?)であり
また通ったのは四条の祗園ではなく伏見(墨染・すみぞめ)の橦木町(しゅもくちょう)遊郭だったと言われる
それならば道としては最も近いことになる
これだと駕代で1万円弱?、当時の大石の懐具合を考えらばそんなものかと思われる

閑話休題(それはさておき)
風俗史から言えば、祇園の遊所が盛えだすのは元禄(げんろく)年間(1688-1704)の討ち入りから4、50年も後の頃であり
ちょうどその頃に赤穂浪士による主君の仇討事件(元禄15年・1702)に材をとった「仮名手本忠臣蔵」という芝居が始まることになる
その後また4、50年の後文化文政(1804-1830)の頃には嶋原をも上回る盛り場となる
仮名手本忠臣蔵の芝居の大ヒットは祇園の遊廓としての地位を一挙に上げたということにもなる
鯵庵(30.8.23)

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by ajiankyoto | 2018-08-23 09:36 | 都市 | Comments(0)

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亀岡は京都市に隣接する
維新の頃まで亀山藩5万石、譜代大名松平氏の城下町である
また、園部も2万6千余石、外様大名であるが小出氏の城下町である
京都から亀岡を経て園部まで34.2kmを嵯峨野線の愛称で呼んでいる
小生らが学んだときは山陰本線である
友人どんこ氏の田舎がその先にあって
大昔、京都から出雲市行のディーゼル機関車の普通列車で遊びに行ったことがある
嵐山の渓谷をトロッコ列車のようにくねくね行く

元は二条駅が出発になる
明治30年、京都鉄道二条~嵯峨間開通
その年、二条~京都駅延伸開通、丹波口駅・大宮駅営業
明治32年、大宮駅廃止
明治38年、大宮駅再開業
明治40年、国有化
明治44年、大宮駅廃止
昭和51年、高架化、丹波口駅移転
平成2年、電化
平成6年、梅小路臨時駅を短期間営業
平成22年、二条~京都複線化  
これからのこと
丹波口~京都駅の間に新駅を開業予定

亀岡方面から京都に来る人は気がつきにくい
それなのに大阪方面から京都に新快速で来る人は気が付いている人が多い
梅小路にあんなけ線路が走っているのに
嵯峨野線に関しては線路が一本しかなくなる
ちょうど、タキイ種苗の前あたりである
特急も快速の普通電車も京都駅に入ってくるのに一本の線路で出入りしていることを
あんな巨大な京都駅が営業上大成功だと
鉄道博物館が華々しく開業してそこに新駅ができて
新駅と京都駅の間がいまだ単線でしかもおいそれとは解決しようがない・・??

神戸~大阪間の鉄道は明治7年に開通した
京都の鉄道は西(大阪)から伸びてきた
しかし、なかなか伸びなかった
明治9年に京都駅(大宮仮駅)までが開通した
初代の京都駅は今の京都タワービルの位置にあり今の中央郵便局も線路敷だったのである
今はずっと南下している
そんな経過を知るにつけて嵯峨野線の線路一本分が確保できなかった不思議を感じる

どこかとぎれとぎれの正面通のようで戸惑を感じる
輸送力と鉄道の安全性を考えた時、複線と単線では雲泥の差がある
二条京都間は本当に正面通の行き止りなのである
京都線と嵯峨野線は交通軸と時間軸の違う線路だと思わされる
明治30年からあまり変わってないのかもしれない
大宮駅や丹波口駅廃止の祟りであるとしか思えない
そこに今新駅を作ろうとしているがこの問題の解決にはならない
鯵庵(30.7.15)

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by ajiankyoto | 2018-07-15 20:08 | 都市 | Comments(0)

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ハンゲショウ(半夏生)と言う植物がある、こちらはドクダミ科の多年草、日の当たる湿地を好む
特色は葉の表面が真っ白に変化することである
したがって半化粧などと言われたりする、カタシログサと言われたもする
ドクダミに似た匂いもするが生薬としては用いない
花は穂のような花序、夏至を過ぎる頃から花をつけ葉の表面が白くなる。ということで、
名前がハンゲショウ(半夏生)として名が通ることになった
建仁寺(けんにんじ)の塔頭(たっちゅう)ではこの時期に合わせていつもは拝観できない庭を有料で公開するのが定着してきた
大勢の観光客と言うことだが、が、路地小生まだ、調査が出来ていない
それとハンゲショウには悪いけれど・・この花を主役に見立てて見るにはもう少し悟りか仏心が要るような気がする

それでも半夏生を見てみたいという人は
嵯峨の大覚寺に行けば大沢池の口のあたりにハンゲショウのほぼ自然な清楚な姿を見ることが出来る
池の傍を散策しながら見るのに丁度いい
もっとという人には山科の勧修寺を勧めることにしている
夏至の頃からは雨が多くなる
青一色のアジサイは見事だし、氷室の池のスイレンと一緒に群生するハンゲショウを見ることが出来る
時々ウシガエルの大きな鳴き声が聞こえる
小雨降るのがいい、梅雨なればこその風景である
拝観料はいるが、植物園で見るよりも自然である(手間をかけている言う意味)
そういうところが拝観料を取るお寺のいいとこだと思う
花の季節が終わりかけると、時々ハンゲショウの苗を分けてくれたりする
仏と一緒に花を見ることだ出来るのを花の寺と言うべし
鯵庵(30.6.20)

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by ajiankyoto | 2018-06-20 08:52 | 都市 | Comments(2)

源義経ゆかりの地の一つが神泉苑
もちろん当時の神泉苑は御所の南に隣接する広大な禁苑
二条から三条に及ぶ
後白河法皇の時代、平家を瀬戸の海に沈め滅ぼした後の義経が容姿端麗の静(しずか)を初めて見た場所という
この神聖なところで法皇の命により雨乞いの舞を舞う白拍子が静
時の都の英雄が義経
この時、静を見初めたというわけであるが
現代の芸能ニュース並みの話である
であるが、義経は政治家、静は芸能人、元来スキャンダルの要素を含んでいる
室町時代に書かれた伝説的英雄物語「義経記(ぎけいき)」による

白拍子は歌舞の一種
今様(いまよう)など歌いながら舞った
「平家物語」で妓王や仏御前、静の母磯の禅師なども白拍子である
当時の白拍子は神に仕えた巫女(みこ)が起源だという
諸国を漂泊し、人の集まるところで歌や舞を見せ、かつ侍(はべ)るという
極めて自然なことだと思う
それを傀儡(くぐつ)と言っていたが、歴史的には平安期特に院政の頃都市(都)に定住することになる
白拍子はその中で芸に秀でたものが、当時台頭しだした武士の支持を得て貴族社会にも浸透しだしていった
そのことによって表社会に出、かつ職業的になっていった
倒錯的な趣味であり、決して庶民の愛したものではない、貴族を相手にした芸能であった
都でしか暮らせない女としての京女の代表的ルーツでもある
白拍子は遊女である、しかし、職業的であるということは、見識が高いということでもあった
白拍子はおおむね下げ髪で立烏帽子(たてえぼし)を被り白い小袖に緋色の長袴(ながばかま)をつける
白巻きの太刀を帯び男装で今様(いまよう・当時の流行歌みたいなもの、即興で歌うことが多い)を歌い舞う
その美貌と才能で法皇や貴族まで、また武士の棟梁など最上級な階級の者たちに愛されるようになった
それは現代と同じように芸能というものの花の部分であった
白拍子と言われて名の残るものはそれこそスーパー芸能人であった

室町から桃山期の芸能に詳しい宮川講師によれば、
男装の巫女であれば今の世でもよだれが出る
室町時代の初めまで〝あるき白拍子″と呼ばれるものによって、その白拍子の舞は続いていたと言う
それが傀儡(くぐつ)の女なことを言ってるのだと思う
面白いことは、白拍子はその後の近世の遊女のルーツであるとともに、
その舞は猿楽や能やひいては歌舞伎などの舞踊のルーツでもあるという二面性を持っているという
公卿・僧侶や武士でなかったら場合によっては読み書きもできなかった時代にあっては、
舞踊や音楽は重要な表現手段であり、言葉は教養であった
宮川講師の念押しによれば、「芸能は身分社会においてもっとも有効な才能であった」と言う
鯵庵(30.5.13)

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by ajiankyoto | 2018-05-13 20:53 | 都市 | Comments(0)

醍醐の水と花/伏見街道

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山上の湧水〝醍醐水″と言う
京都の名水の一つに選ばれている
上の醍醐の山上で湧いているもんで、健脚でないとそう易々と味わえるものではない
お寺の霊水でもある
ただ、下の三宝院まででいいという人には、ペットボトルに入ったものが売られている
広告によれば超軟水(硬度15程)、1本300ml、200円である
24本入ったケースならインターネットで注文も可能である
この世の中今になって宅配の水も商売になる世界だから、一度霊水醍醐水を頼むこともいいかも・・
お茶を入れれば天下人のお茶の味に近づくかもしれない

閑話休題(それはさておき)醍醐の山上に湧いた醍醐水の水滴は醍醐のせせらぎとなって
山科盆地の山科川を経て伏見で淀川に入る
伏見から淀を下って大坂に至る
この川筋は秀吉が自分の大河に置き換えたかもしれないとしたら面白い
天下を取る醍醐味というシャレになりそうだ

歴史上の醍醐の花見は旧暦慶長3年3月15日のこと
満月の日、新暦(グレゴリオ暦)に換算すると1958年4月20日になる
20日に花見では少し遅いのではないかと思う人がいるかもしれないが
醍醐寺のサクラもヤマザクラやシダレザクラだったと思われる
ヤマザクラは奈良時代から盛んに平地に持ち込まれた野生の桜
元来は成長が遅く大木になる
日本全国サクラは自然交配で多くの品種があるが
当時は多くは野生、豪気な花見を演出するには絶大な権力が要る
秀吉は下醍醐寺の三宝院などの伽藍の整備に長年力を注いでおり
あわせて、各地の多くのサクラの木を運び入れたと推察できる

その権力の表現が花見であった
花は神であるという当時の人たちの信仰を土俵にしたものだと思うべきである
家族に恵まれなかった秀吉の一族の花だった
この年8月に秀吉没す、秀吉にとっても一世一代の花見だった
水と花の饗宴だった
この2年後にはもう天下がひっくり返った
鯵庵(30.5.11)

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by ajiankyoto | 2018-05-11 18:26 | 都市 | Comments(0)