カテゴリ:都市( 74 )

ゲストハウスなら売れる

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kaotti-1(京都ときどき沖縄ところにより気まぐれ)さんとのコメントやり取りで古川町商店街が出てきた
京都の商店街は多くが今曲がり角に来ている、と思っている
その中で大手筋の商店街や出町の商店街を見ればまだ元気だと思える
錦市場は間違いなく年間数千万人観光客のためだけの商店街になろうとしているように見える
そんな時に東山三条の古川町商店街を歩くのがいい
京都らしさを感じられたとしたら、それは町家のせいである

不思議な商店街である
知恩院門前であるからかもしれない
祇園で暮らす人たちの市場だったかもしれない
でもその人口規模はそれほど大きくない
現にスーパーが進出していないことでわかる

ここはゲストハウスの街である
古びた昔ながらの商店の隣は少々凝った町家風のゲストハウスである
京都のこれからは混乱した民泊の街になる
京都というブランドを大阪や東京の人が作り外国の人が泊まる
京都の人が知らない京都が出来てくる
ひょっとしたらそういう中で少し先進的な老舗のゲストハウスかもしれない
ゲストハウスに向いた商店街ならそれも商店街の一つかもしれない
小生はひねくれものだから・・
売れなくなった家は民泊の許可をもらってから売れという大阪型の論理が京都に広まる前兆だと思っている

情緒派の我が友人はそんな古川町商店街の記憶をとどめようとカメラを持って写真を撮りに行った
ブログ友達のkaottie-1さんの話をしただけだが、ひらめいたみたいである
今はまだ、京都人にも好かれる商店街としてのスナップである
だから肩肘張らないいい写真だと思う
古川町が京都の街でなくなっても京都にある限り存在感はある
京都が京都でなくなっても古川町の存在感は残るかもしれない
こんな言い方分かってもらえるかなア
目の前の白川にはカモが歩いていた
鯵庵(30.2.1)


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by ajiankyoto | 2018-02-01 07:00 | 都市 | Comments(4)

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銘文は文学である
文学であればなんとでも難癖(なんくせ)はつけられる
日本の宗教は国家や権力の後ろ盾がなければ実は宗派を維持できない
当時僧だけが学者なのである
学識経験者として物を言えばいいのなら文学論を語るだけでいい
結局多くの僧が権力に阿(おもね)って競い合って学識を披露することはいつの世でもあり得ることだ
意識しないでも陰謀に加担できる
『天下泰平、君臣豊楽』の銘文はただの名文である
それを事件に出来たのは政治である
政治とは陰謀である
それは秀吉に学んだことだった

しかもこの鐘銘事件そのものは家康の寿命と大きな関係がある
この時初代将軍は隠居して大御所家康73才、大坂の陣(1614・1615)は家康73才・74才
その後慶長19年(1616)、豊臣家を滅ぼす生涯の大事業を果たしてすぐの75才の寿命であった
歴史の中でも英雄譚(えいゆうたん)は生まれた時と寿命によって決まる
信長でも秀吉でもなかった家康は、信長の死後と秀吉の死後と言う大きな人生経験に学んだことだけが違っていた
それが徳川家と言う家が200年以上15代に渡って続いたことになる

家康の人物像はほとんど晩年の特に豊臣家との陰湿な戦いに現れたことになる
徳川幕府は京都も豊臣家も完全に無視した
一つだけ残したのがこの鐘である
今は豊臣家が滅んで400年である
豊臣家の滅亡に関係なく、方広寺の鐘は名鐘(音色)ゆえに銘文を削られることなく重要文化財として今も残っている
残したというべきだろう
なおまた、そんなことに関係なく家康の没後も400年を超えた
鐘は音色が大事である、のは真実だろう
鯵庵(30.1.27)



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by ajiankyoto | 2018-01-27 09:22 | 都市 | Comments(0)

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今は妙法院や智積院や京都国立博物館などもあるが
大和大路七条から東・北のこの一帯の地は秀吉(豊国大明神)や豊臣家の菩提寺であり聖地であった
豊臣家としては秀吉の発願になる大仏を完成させたかった訳であるが、豊臣家滅んでも大仏と鐘が残ることになった
が、巨大な銅の大仏は地震で倒壊
この大仏が徳川体制を支えることになる
豊臣家の銅は全て徳川の銅になった
貨幣経済は金・銀・銅の経済であるが、今日流通しているコインと同じである
日常は銅銭で暮らしている
銅銭は中国から輸入した貨幣では不足する
これを寛永通宝という徳川貨幣にしたわけである
家光の時代だという

250年間江戸時代と言われる期間を庶民の経済を支えた
権力の証になんぼ大仏作っても役に立たなかったけど一分銭(いちもんせん)にしたら250年もったということになる
それ以上に豊臣の蓄えた金と銀はそっくり徳川体制に引き継がれていくことになる
それが革命であり、それが政治だと今では分かる
徳川政権は豊国大明神の神号をはく奪した後、天台宗の妙法院などに土地を与え聖地の分断を図ってきた
前政権の聖地は破壊しなければならない
それが、この地の宿命であり正面通の不幸の始まりである
それでも大仏は何度か再建を試みられ、天保時代の大仏も昭和48年(1973)火災で焼失するまであった
だから、今でも京都の人は大仏と言う
鯵庵(30.1.16)



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by ajiankyoto | 2018-01-16 12:00 | 都市 | Comments(0)

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農耕技術だけでなく養蚕・機織りでも同じである
確かに今は機械化によって生産性は上がってはいるが・・
文化としては渡来人たちによって開墾され、教わった技術そのままの形だと気付く
水を張った田に苗を筋のように植えてのち水を切らさない・・・田植え一つ、平安京が出来た当時のままなんです
ご神田のお田植え祭の通り、変ったのは機械、例えば化学肥料など
品種の改良など関係技術は進歩したが、稲作の技術と精神文化は古代のままです
稲作に頼る文化と米を主食とする文化は日本の全ての文化の土台になっているのだ
それは、日本人の持つ宗教感の本(もと)にもなっている筈である
それからの日本人というのは渡来人と完全に同化していったからである

だからと言って、いきなり水利というのはありえない
農作だけのことを考えて欲しいだけの水を欲しいときに欲しいだけ得ることが出来ればそれに越したことはないが、自然を相手にそんなことが叶うはずがない
天候と川の水は元々制御の外のこと
そこに技術と言うものが必要
技術的に言えば不必要な洪水は出来るだけ影響少なく速やかに下って欲しい
稲作文化が氾濫の無いところに育ったことはない
大きく言えば氾濫の無いところに文明が育ったことがない
稲作にしろ治水しろその技術は都、言い換えれば都市を構築する技術だったのだと思う
京都の大土木工事は、秦氏の最初の葛野大堰(かどのおおい)から始まり、桓武天皇による都城建設を大舞台とし、豊臣政権の京都大改造につながっていく
利水と治水の歴史でもある
土木と言うのは都市になるための技術である
このあたりは大堰川(おおいがわ)という
鯵庵(30.1.14)



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by ajiankyoto | 2018-01-14 08:00 | 都市 | Comments(0)

豊国廟と七条通

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七条通の東の端(はて)、てっぺんといった方がいいのが豊国廟である
てっぺんとは阿弥陀が峰(標高196メートル)に祀られたのが正一位豊国大明神(とよくにだいみょうじん)
慶長3年(1598)に死んだ秀吉の墓所だ、秀吉死後豊臣政権は秀吉を神として祀った
阿弥陀が峰中腹に豊国社を立て、吉田兼見(よしだかねみ/吉田神道の宗家)が取り仕切ったとされる
が、豊臣家を滅ぼした家康は、豊国大明神の神号を剥奪、豊国神社は廃絶
豊臣家にまつわるものは江戸期を通じてほぼ打ち捨てられていた

今の豊国廟は明治になって、明治天皇の布告によって再興されたもの
また、明治30年には阿弥陀が峰頂上に五輪塔を建てた
この時、秀吉の遺骸(素焼きの壷に)が発見されたという
300年の時期を経てまた阿弥陀が峰の頂上から京都の街を見下ろこととなった
京都の東を守る青龍は秀吉であることになる

根来寺智積院から新日吉神宮(いまひえじんぐう)と脇を通り抜けながら参道が続く
が、今は京都女子大学の女坂(おんなざか)と言うほうが分かり易くなっている
女坂をまだ登ると京女を超えて豊国廟(とよくにびょう)
女学生もいなくなるが上る人もほとんどいない
赤いバスだけがたむろしている
ここからまだ山上までの石段が秀吉のご廟の本当の参道
が、そこまで行くと神主さんが声をかけてくれるかも
鯵庵(29.1.12)



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by ajiankyoto | 2018-01-12 15:41 | 都市 | Comments(0)

リニアと新幹線

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近頃の京都本には自虐的なネタが多い
亀岡は京都か?宇治は京都か?とか宇治市と滋賀県大津市とではどちらが都会かと言うようなことがテーマになったりする
リニア新幹線の計画があった
名古屋~大阪のルートは奈良の方を通るようだ
京都としては何とか京都市を通過させたいという運動をまだしている
京都は既に日本列島の軸が通っている
今更、トンネルばかりのリニアが街中に入ってこられても困る
何度も言うが京都は都市である、観光地ではない、観光で一番になる必要はない
奈良より京都だと主張する根拠が分からない
それどころかここはしっかり先輩古都を立てるべきところだ

北陸新幹線のルートも決まった
京都からは南周りで大阪へ行くという
新幹線などどこを通っても同じであるが、駅が出来るということなら話は別である
何んと京都から京田辺を超えて大阪府域の松井山手へぬけてから大阪へ行くという
奈良線から学研都市線ルートへワープする
京都府は学研都市の開発に失敗したともいえる
JRも学研都市線の伸びが悩みになっている
街を作るのはJRではないが、鉄道以外にインパクトのある手段がない
・・のでは仕方がない
その代わりと言う訳でもないが、リニアのことはもう言わないというのが京都の生き方かな
鯵庵(29.12.25)



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by ajiankyoto | 2017-12-25 09:38 | 都市 | Comments(0)

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鴨川正面橋界隈に続く

このあたり平安時代には河原院のあったところである
河原院と言うと源融(みなもととおる)の屋敷だとされている
源融は嵯峨天皇の皇子であり、源姓を名乗った、
嵯峨源氏融流、摂津(大坂)の大豪族渡辺氏の祖である
全国の渡辺さんのルーツでもある
源氏物語の光源氏のモデルであるという方が分かりやすいかもしれない

今度は、正面通(極めて細い)を高瀬川を渡って細い道をさらに西に進むと、河原町通りに出る
そこが河原町正面で、正面通は早くも一旦はここで行き詰る
それが渉成園(しょうせいえん・枳殻邸(きこくてい)とも言う)、東本願寺の庭園である
だからと言って、入り口があるのではない
渉成園の裏塀(うらべい)にあたる
河原町通りを通っていて、ここはなんだとたずねる人が多い

この渉成園と、いわゆる東本願寺が(元は本願寺と言った、今は真宗本廟が正式な名称)
・・関ヶ原の戦いの後慶長7年(1602)に割り込む形で徳川体制になって建てられた
家康は京都の都市改造などには何も興味なかった
東本願寺に広大な寺所を与えることによって、正面通と本願寺勢力を分断した
政治的・戦略的な価値を京都という都市に感じなかったということだろう
鯵庵(29.12.17)

(鯵庵自註)
高瀬川に沿って少し北へ上がると簾の下がった京都らしい少し懐かしいそうな建物がぽつぽつと建っている
このあたりがかっての五条楽園の中心になる
京都の街のチョットした事情を思ったまま書こうとこのブログを始めているが
その記事の中でなんとなくアクセスが継続しているのが「五条楽園は休業中?」という記事である
五条楽園や風俗という言葉に興味を持つ人がいるとしたら実は予想外のことである
小生にとっては五条楽園もビッグネームの一つである





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by ajiankyoto | 2017-12-17 08:39 | 都市 | Comments(0)

大仏の正面通

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正面通は東西の通、七条通(しちじょうとおり)の二筋ほど北へ
河原町正面(かわらまちしょうめん)というバス停がある(南行のバス停は六条通より北へ、随分離れているので注意)
例によって京都の街の河原町通と正面通の交わったところです
正面通の正面とは何の正面か?と言うと、豊臣時代に方広寺(方広寺は現存する)にあった大仏の正面と言う意味である
と言ったが、今は豊国(とよくに・ほうこくとも)神社の鳥居が立っている
正面通は豊国神社の前からスタートする
鳥居の前は参道然として広い通りである
正面橋は鴨川にかかる橋としては五条通(国道1号線)の南に架かる

この大仏と言うのが現存していれば話が早いわけであるが、
残念ながら豊臣家に似て数奇な運命を辿る
文禄4年(1593)三十三間堂の北、大和大路に西を向いて大仏殿が完成
大仏は木造漆喰(しっくい)ながら高さ19m、奈良の大仏より大きかったが、
不幸にも完成の翌年の慶長伏見大地震により倒壊した
大仏再興できぬ間に秀吉が没した
関ヶ原の役(1600)により徳川の覇権が成立したのちも
慶長7年(1602)秀頼と豊臣家は銅製の大仏に着手するが、流し込む銅で大仏も大仏殿も焼失
慶長17年(1608)再度再建に着手
ほぼ完成まじかで、徳川家の不興を買う
ご存知の方広寺鐘銘事件(慶長16年・1614)である
大大名豊臣家の財を傾け終わった時期を待って、豊臣家の始末にかかったわけである
約400年前のことである
鯵庵(29.12.15)



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by ajiankyoto | 2017-12-15 17:43 | 都市 | Comments(0)

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秀吉の街づくりで築いたお土居の七口の一つが五条口
伏見街道につながる
伏見街道は京と新しい町伏見をつなぐ街道として整備された
今の五条口、五条通を起点として南へ伸びる道である
本町1丁目から東福寺の前を通って墨染まで道なり、京阪電車が疎水をはさんで並行して進む
京阪電車は粟田口、五条口から伏見の町・大坂天満橋までいわゆる京都・大坂街道に沿って走る電車
五条口から大坂までの最短距離(*京橋駅まで44.7キロメートル)を走っていることになる

この伏見街道、東山区内では〝本町通"という
北行き一方通行の道ながらビッグな名前をもらっている
当時洛外ながら伏見街道であったからか?
五条通の当たる北端が本町1丁目、七条の交差点が6丁目、本町館がある塩小路通が8丁目、JR線をくぐるのが9丁目、東福寺の正面が18丁目というふうに22丁目まである

途中本町5丁目と6丁目の境を東に行くのが正面通
これまたビッグな名前と思えば、正面は当時大仏のあった方広寺の正面のこと
この道は大仏の前を通る
京都と伏見の二大都市を往来する限り秀吉の威勢を見せ付けられる仕組みか
もちろん京都市内で本町通といえばここだけで、本町の地名もここだけのこと
鯵庵(29.12.13)



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by ajiankyoto | 2017-12-13 10:14 | 都市 | Comments(0)

鴨川正面橋界隈

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豊国神社の鳥居を背にして西へ進むと鴨川を渡る
この通りを正面通と言う
現に鴨川に正面橋と言う橋が架かっている
桃山時代の秀吉の京都政策は鴨川治水と方広寺の大仏が目玉の役割をしている
正面通は大仏門前から本願寺(いわゆる西本願寺・(註)天正11年(1583)秀吉から寺地を与えられる)の門を結ぶ道であったである
その名残のビッグネームがこのあたりに多い

正面橋を渡って暫く進むと、右手(北側)に石造りのモダンな建物が見えてくる
初代の山内氏がこの地において花札やトランプの製造を始めた(明治22年(1889))
看板によると丸福かるた・NAPOLEONトランプの製造元「山内任天堂」とある
ここが京都の企業、「任天堂(にんてんどう)」の発祥の地であるということだ
戦後㈱丸福に山内(山内博)氏が社長に、後、社名を任天堂に変える

平成14年(2002)から岩田氏が社長に、今は本社は南区上鳥羽鉾立町にある
資本金100億円の大企業である
だが、平成27年(2015)任天堂をご存知の大会社にした岩田社長が病死
暫く社長空席であったが、27年9月に常務取締役の君島氏(65)が昇格、5代目社長になった
ゲームや株にも興味がないが、今後の任天堂の行く先は?
鯵庵(29.12.11)



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by ajiankyoto | 2017-12-11 14:55 | 都市 | Comments(0)