カテゴリ:都市( 68 )

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鴨川正面橋界隈に続く

このあたり平安時代には河原院のあったところである
河原院と言うと源融(みなもととおる)の屋敷だとされている
源融は嵯峨天皇の皇子であり、源姓を名乗った、
嵯峨源氏融流、摂津(大坂)の大豪族渡辺氏の祖である
全国の渡辺さんのルーツでもある
源氏物語の光源氏のモデルであるという方が分かりやすいかもしれない

今度は、正面通(極めて細い)を高瀬川を渡って細い道をさらに西に進むと、河原町通りに出る
そこが河原町正面で、正面通は早くも一旦はここで行き詰る
それが渉成園(しょうせいえん・枳殻邸(きこくてい)とも言う)、東本願寺の庭園である
だからと言って、入り口があるのではない
渉成園の裏塀(うらべい)にあたる
河原町通りを通っていて、ここはなんだとたずねる人が多い

この渉成園と、いわゆる東本願寺が(元は本願寺と言った、今は真宗本廟が正式な名称)
・・関ヶ原の戦いの後慶長7年(1602)に割り込む形で徳川体制になって建てられた
家康は京都の都市改造などには何も興味なかった
東本願寺に広大な寺所を与えることによって、正面通と本願寺勢力を分断した
政治的・戦略的な価値を京都という都市に感じなかったということだろう
鯵庵(29.12.17)

(鯵庵自註)
高瀬川に沿って少し北へ上がると簾の下がった京都らしい少し懐かしいそうな建物がぽつぽつと建っている
このあたりがかっての五条楽園の中心になる
京都の街のチョットした事情を思ったまま書こうとこのブログを始めているが
その記事の中でなんとなくアクセスが継続しているのが「五条楽園は休業中?」という記事である
五条楽園や風俗という言葉に興味を持つ人がいるとしたら実は予想外のことである
小生にとっては五条楽園もビッグネームの一つである





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by ajiankyoto | 2017-12-17 08:39 | 都市 | Comments(0)

大仏の正面通

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正面通は東西の通、七条通(しちじょうとおり)の二筋ほど北へ
河原町正面(かわらまちしょうめん)というバス停がある(南行のバス停は六条通より北へ、随分離れているので注意)
例によって京都の街の河原町通と正面通の交わったところです
正面通の正面とは何の正面か?と言うと、豊臣時代に方広寺(方広寺は現存する)にあった大仏の正面と言う意味である
と言ったが、今は豊国(とよくに・ほうこくとも)神社の鳥居が立っている
正面通は豊国神社の前からスタートする
鳥居の前は参道然として広い通りである
正面橋は鴨川にかかる橋としては五条通(国道1号線)の南に架かる

この大仏と言うのが現存していれば話が早いわけであるが、
残念ながら豊臣家に似て数奇な運命を辿る
文禄4年(1593)三十三間堂の北、大和大路に西を向いて大仏殿が完成
大仏は木造漆喰(しっくい)ながら高さ19m、奈良の大仏より大きかったが、
不幸にも完成の翌年の慶長伏見大地震により倒壊した
大仏再興できぬ間に秀吉が没した
関ヶ原の役(1600)により徳川の覇権が成立したのちも
慶長7年(1602)秀頼と豊臣家は銅製の大仏に着手するが、流し込む銅で大仏も大仏殿も焼失
慶長17年(1608)再度再建に着手
ほぼ完成まじかで、徳川家の不興を買う
ご存知の方広寺鐘銘事件(慶長16年・1614)である
大大名豊臣家の財を傾け終わった時期を待って、豊臣家の始末にかかったわけである
約400年前のことである
鯵庵(29.12.15)



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by ajiankyoto | 2017-12-15 17:43 | 都市 | Comments(0)

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秀吉の街づくりで築いたお土居の七口の一つが五条口
伏見街道につながる
伏見街道は京と新しい町伏見をつなぐ街道として整備された
今の五条口、五条通を起点として南へ伸びる道である
本町1丁目から東福寺の前を通って墨染まで道なり、京阪電車が疎水をはさんで並行して進む
京阪電車は粟田口、五条口から伏見の町・大坂天満橋までいわゆる京都・大坂街道に沿って走る電車
五条口から大坂までの最短距離(*京橋駅まで44.7キロメートル)を走っていることになる

この伏見街道、東山区内では〝本町通"という
北行き一方通行の道ながらビッグな名前をもらっている
当時洛外ながら伏見街道であったからか?
五条通の当たる北端が本町1丁目、七条の交差点が6丁目、本町館がある塩小路通が8丁目、JR線をくぐるのが9丁目、東福寺の正面が18丁目というふうに22丁目まである

途中本町5丁目と6丁目の境を東に行くのが正面通
これまたビッグな名前と思えば、正面は当時大仏のあった方広寺の正面のこと
この道は大仏の前を通る
京都と伏見の二大都市を往来する限り秀吉の威勢を見せ付けられる仕組みか
もちろん京都市内で本町通といえばここだけで、本町の地名もここだけのこと
鯵庵(29.12.13)



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by ajiankyoto | 2017-12-13 10:14 | 都市 | Comments(0)

鴨川正面橋界隈

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豊国神社の鳥居を背にして西へ進むと鴨川を渡る
この通りを正面通と言う
現に鴨川に正面橋と言う橋が架かっている
桃山時代の秀吉の京都政策は鴨川治水と方広寺の大仏が目玉の役割をしている
正面通は大仏門前から本願寺(いわゆる西本願寺・(註)天正11年(1583)秀吉から寺地を与えられる)の門を結ぶ道であったである
その名残のビッグネームがこのあたりに多い

正面橋を渡って暫く進むと、右手(北側)に石造りのモダンな建物が見えてくる
初代の山内氏がこの地において花札やトランプの製造を始めた(明治22年(1889))
看板によると丸福かるた・NAPOLEONトランプの製造元「山内任天堂」とある
ここが京都の企業、「任天堂(にんてんどう)」の発祥の地であるということだ
戦後㈱丸福に山内(山内博)氏が社長に、後、社名を任天堂に変える

平成14年(2002)から岩田氏が社長に、今は本社は南区上鳥羽鉾立町にある
資本金100億円の大企業である
だが、平成27年(2015)任天堂をご存知の大会社にした岩田社長が病死
暫く社長空席であったが、27年9月に常務取締役の君島氏(65)が昇格、5代目社長になった
ゲームや株にも興味がないが、今後の任天堂の行く先は?
鯵庵(29.12.11)



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by ajiankyoto | 2017-12-11 14:55 | 都市 | Comments(0)

毘沙門堂のふるさと


山科にある有名寺院毘沙門堂(びしゃもんどう)へ行くとシーズンにはお寺の案内をしてくれる
この毘沙門堂、天台宗の門跡寺院、奈良時代(703)に行基によって・・といわれる
というだけでなく、このお寺の正式寺号は「出雲寺(いずもじ)」ですと教えてくれる
出雲氏の氏寺下出雲寺だと言う
平安時代の前期に天台宗の伝教大師が作った毘沙門天を本尊とするゆえに毘沙門堂ともよばれていた
平安遷都以前からあるお寺である
その後荒廃していたのを徳川家の援助で江戸時代に山科に再建した出雲寺が毘沙門堂門跡である
と、説明される。

鞍馬口というのは鎌倉時代から室町時代に整理された京の街道の出入り口で、
例の豊臣太閤の街づくりの「京の七口」の一つでもある
少しひねって言うと、このあたり正しくは出雲路(いずもじ)という
鞍馬の先は丹波だけれどその先は山陰道の出雲に通じる、というし
このあたり平安京が出来る前の山城盆地の古代豪族出雲(いずも)氏の本拠地でもある
賀茂川のほとりには鴨氏・出雲氏が定住し開墾していた
ここにある怨念の御霊(上御霊・ごりょう)神社も出雲氏の元は氏神であったとするのも定説である

この鞍馬口通が賀茂川を渡る橋が出雲路橋(いずもじばし)という
賀茂川を昔はトントン跳んで渡れた
それからおおむね北に、深泥池(みどろがいけ)の傍(かたわら)を北上して岩倉を経て京都精華大学から二軒茶屋へと通ずるのが鞍馬街道である
今でも鞍馬への道は花脊から丹波の美山から若狭への道でもあるが、実は静原から分かれて大原へ行く別の道でもある

通りの名としてこの鞍馬口(場合によっては関所)が設置されたところに由来する東西の通りのことでもある
京都の地下鉄は烏丸通を通っているが、それはいいんだけど烏丸通と鞍馬口通の交差点に駅を作ったときに「烏丸通鞍馬口」を略して「鞍馬口」と名付けた
〝何とか口″は〝遠いけれどそこへ行ける″という意味でつける
〝京の七口という歴史的符牒″を知らなければつい鞍馬寺観光にはここから行けば便利だろうと思ってしまう
ここで降りたのでは鞍馬へは行けません(直接の交通手段がない旨を)と地下鉄で案内しなければならないことになる
そういう意地の悪さが京都にはある
歴史(正しくは地史)を知らなければ理解できない
難解地名を楽しむのと同じ感覚である
実はそれは人を煙に巻くのではなく歴史に近づく鍵のつもりである
鯵庵(29.11.26)


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by ajiankyoto | 2017-11-26 06:00 | 都市 | Comments(0)

大宮駅は土木遺産

四条通の地下を走るのが阪急電車、昭和38年に河原町駅まで延伸された
それまで京都の終着駅だったのが今の阪急大宮駅
西院駅から大宮駅までの地下線路は昭和6年に開通
近畿地方最初の地下線路であり、2000年選定の土木遺産(土木学会)として認定されている
大宮駅は四条大宮、四条通と大宮通(実際は後院通)との交差点にある
繁華街としての地位は烏丸駅・河原町駅に譲ったもの、今も京福電鉄嵐山線や京都市内各方面のバスの乗換駅としての性格が強い
京都市の東西南北の地形的に中心に位置する
余談ながら特別な店構えではないが餃子の王将の1号店が駅前にある
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昭和3年に大阪の天六から今の西院まで走らせたのは京阪電鉄系の新京阪電鉄
その後京阪電鉄に吸収され昭和6年に今の大宮駅まで延伸された
開業の時の大宮駅は「京阪京都駅」と言った
昭和18年に京阪電鉄と阪急系が合併、京阪神急行電鉄となるが、
戦後昭和49年に京阪神急行電鉄から京阪電鉄が分離
しかしながら京阪が作った新京阪線は京阪神急行(阪急のこと)に残り、これが今の阪急京都線となっているわけである
大宮までは京阪電鉄、大宮から河原町までの地下線路は阪急電鉄の仕事
鯵庵(29.11.19)

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by ajiankyoto | 2017-11-19 20:07 | 都市 | Comments(0)

妙心寺/花園界隈

平安京は東西に約4.5キロ、南北に約5.3キロ
平安京の中心朱雀大路は今の千本通りに当たる
概ねJRの山陰線が南北に走っているあたりと思えばいい
平安京は羅城(城壁で囲まれた都)ではないがその街並みは中国の都、洛陽や長安をまねている
右京を長安城と言い左京を洛陽城といった
都の中でも朱雀大路の西の方(右京)は早くから廃れた
ということもあって京の都の代名詞が洛陽に擬され、
京洛・洛中・洛外・上洛などというようになったわけである
今でも〝洛″といえば京都を意味している
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大昔は平安京の西の郊外はむしろ山城文明の地である
平安遷都の前には山背(やましろ)の国の国府のおかれたところでもある
太秦(うずまさ)の名は古代の豪族秦氏の本拠地でもある
聖徳太子の広隆寺(こうりゅうじ)も目と鼻の先である
妙心寺の北は一条通、北の端だった
JR花園駅のあたりが平安京西京極(にしきょうごく)大路、都の西の端だった
この妙心寺あたりが当初の平安京区域の西北の端(コーナー)にあたることが分かる
妙心寺が西の御所と呼ばれた意味が分かる

花園上皇(95代天皇)の院(仙洞御所)を寺に改めたのが臨済宗の妙心寺だからだ
開祖以来禅の修行を重んじる禅風で多くの塔頭(たっちゅう)を抱えているのは誰でも知るところ
本山の中、数十の塔頭寺院で大町内をなして、妙心寺内の道路は通行が自由である
ジョギングする人、自転車で通り抜ける人、車でお参りに来る人
しかし、特にシーズンになると狭い石畳を人の後ろから車が迫ってくる
お寺の中までどこまででもマイカーで行こうとする人は京都には似合わないのだが・・
北門からでも南門からでも西へ都を出れば、隣は太秦(うずまさ)、もう嵯峨(さが)
嵐山も意外と近かったことが分る
まさに花園の地は都の内庭だ
鯵庵(11.4)



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by ajiankyoto | 2017-11-04 08:50 | 都市 | Comments(0)

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国際観光都市などと言われることはほとんどの市民が嫌ってます
それでも国際的にはまだ知名度が低いなどと観光協会や市役所が煽ってます
京都のいいものが全部なくなっていきます
京都に暮らしていることが嫌になる日が増えてきてます

春・秋のシーズンはバスもタクシーも一杯です
渋滞ははなはだ激しいし、そんなところに車自慢のマイカーがどこまででも入ってきます
歩くのも難しいのにそこを時代錯誤の人力車までがうろうろします
こちらは静かに歩いているつもりなのに頭の上であの外国語会話が飛び交ってます
あの国の旅行者のことを時々悪く言いますが、京都では我が国の人も皆、あの国の人のマネをします

そうでなくても皆が修学旅行生のようです
「京都で暮らしていると毎日が旅行みたいでイイですね」
と女学生が言ってくれました
これぞディスカバージャパンですね
もちろんハイと答えました
皆さんは見ることのない路地のサクラもモミジも見ることが出来ます
素直な可愛い人には優しく答えます
"大人の女"になったらもう一度京都に来て下さいね、と
違った京都が見えてきます
出来れば京都でお暮らしなさい、とも・・

あの国の人は神社の裏まででもどこまででも入ってきます
我らは路地で暮らしています
ただ、路地の裏までいつか入ってこられるかもしれません
それが怖い日々です
鯵庵(10.14)


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by ajiankyoto | 2017-10-14 22:17 | 都市 | Comments(0)

消費地が都である


400年前から東京が首都であるに続く

江戸を中心として見た場合でも三都と称されるのは大坂・京都である
時代が変わって政権が江戸へ行っても当時京都の人口は58万人もあった
それは西陣織などの繊維業が興隆を極め、呉服商や両替商などの繁栄が京都を一つの都市として支えるものであった
江戸の武家政権に対抗しうる力は実は京都の工業力とそれに伴う商業力(資本力)にあった
この工業力と資本力がいずれ政権の都に吸収されていくのは消費の力であり、消費地に向かって資本が擦り寄って行くというのが当然であった
元禄時代以降100年後の江戸の繁栄はそれが都であるということをむしろ如実に語っている
幕末の頃、一時薩摩藩が京都で政権を担うという幻想的バブルがあったが、廃藩置県により京都府(京都裁判所)となった頃の京都はおよそ25万にまで半減していた、という
そこから新しい京都が始まったという人が多い
鯵庵(10.9)



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by ajiankyoto | 2017-10-09 07:05 | 都市 | Comments(0)

古都というのは一地方都市であるに続く

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徳川体制は武家の社会である
もう一つの特色は身分社会であったこと
戦国時代のように身分がひっくり返らないことが武家政権の安定の基盤
それがひっくりかえったのが明治維新
だが、ひっくり返した人はまたひっくり返らない仕組みを考えなければならなかった
最後は外国という大敵にひっくり返されてしまった
大都市であればあるほど大きな影響があった
それが首都である
栄えた歴史は滅んだ歴史でもある
ハッキリ言って、首都である東京で起こったことから比べると京都の震度は地方都市らしいことだったと思う
ただ日本全国多くの都市のように、この一地方都市でも多くの家が栄え多くの家が滅んだ
首都から大都市へ、大都市から地方都市へ、都市から田舎へ、震度を落としながら波は伝わっていく
改めて言うが・・400年前から東京がこの国の首都である
鯵庵(10.4)

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by ajiankyoto | 2017-10-04 21:14 | 都市 | Comments(0)