親鸞の女人正機

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煩悩の一番多いのが女性である
いや、女性には五障という障りがあると経典に書かれていることだから
仏の前では女性は埒外だった
29歳の親鸞は比叡山を下りた
京の街の中の唯一の寺六角堂に籠った
青年親鸞は法然を師として専修念仏・念仏往生の道を選んだ
もう一つ親鸞が決意したのが”女犯(にょぼん)”の道である
この時代、既に僧侶の妻帯は珍しくなかった
六角堂に籠った親鸞を夢で導いたのは救世観音(ぐぜかんのん)であった

救世観音は、"われ玉のような女となって犯されんと、そなたの妻となって一生涯そなたを飾り、
命の終わるときには西方の極楽浄土に生まれ変わらせようと"・・告げた
性という人の根源的な宿業に正面から挑みその苦しみ中でも救いの道を探しに行ったのが親鸞であった
専修念仏の罪で僧籍をはく奪され法然は土佐へ親鸞は越後に流される

男にとって女性はどうしても性欲の対象である
が、女性にも性欲はある
性欲だけが煩悩なのだろうか
そう言う訳でもないが、もともと仏の前では男も女も無い方がいい
・・なら・・第一に女性が救わるべきだというのが女人正機なのである
女性を阻害する理由は無いのだから
阿弥陀如来の本願により既に救われている?
念仏さえ唱えれば、女人は女人のまま往生できることを示した
・・のが親鸞の女人正機なのである

応仁の乱(1467)の後、親鸞の後、八代目になって蓮如が出現する
庶民というものをはっきり対象として、
念仏以外に極楽往生の道はないことををはっきりと説いた
初めて女性が伸び伸びと暮らすことができる
信仰による講というものが女性を解放する
現代風に言えば自己解放だともいえる
親鸞の女人正機が蓮如によって思想的に完結するのである
鯵庵(30.4.28)

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by ajiankyoto | 2018-04-28 21:04 | 親鸞 | Comments(0)

神泉苑と二条城

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整った日本庭園を見て、自然が一杯ですねと言って感心した人がいる
気持ちはありがたいしわからないでもないが、
京都の街中は極端に自然は少ない
日本庭園は全て人工であって、自然とは対極にある
平安京造営の際大内裏に南にあった大庭園も例外ではない
二条から三条までに達する池を中心とし天皇や公家たちの宴遊の苑が神泉苑
都の整備をするにあたっても特にこのあたりは沼沢の地であったのだろうと思う
泉は神の恵みであり池を掘り、堀を作って水道として大事にしていただろうことは当然である
自然の水の湧くところに巨大な庭園を作った
おかげで禁裏の中で舟遊びも花見も月見も楽しめたわけである

時代が下がって中世になって、徳川二条城は平安宮内裏の跡(東南端)とこの神泉苑の地に築かれた
一つはこの地が当時の都の大通二条通を城門で行き止まりにする位置であったことにある
二条通を境にし北(上京)に内裏や公家、南(下京)に都の商工業者や庶民
西の二条城の堀に近いところは武家の屋敷という配置である
あるいは築城論で言えば、その中の城にそれほど大きな堀は必要としない
それより潤沢な泉や井戸があるところであることが大事である

平安京は右京が長安城、左京が洛陽城といった
平安京が出来てから北斗の方角が玄武の居る北、北が上とばかり頭の中にある
実は右京・長安城は早くから廃れた
残された都そのものが城である
二条城は中世になって秀吉の整理した都市(ほぼ洛陽城)の西の端に当たる
京都を睨む街づくりのための城であり、その地である必要があったのだと思う
北斗の方向に権威を見ていた首を西に向ければそこに二条城がある
覇権は向きにこだわらなくともいいが
都に東面するこの城が内裏のような役割になる訳である
江戸政権安定の京都征服の城である
(この項続く)
鯵庵(30.4.26)

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by ajiankyoto | 2018-04-26 08:22 | 都市 | Comments(0)

京都市電は標準軌

京都電気鉄道は狭軌から続く

明治45年(1911/大正元年)から烏丸線など市営路線が開業
しばらく民営と市電の競合時代が続くが、大正7年には京都市が京都電気鉄道株式会社を買収
市営路線は標準軌(軌道幅1435ミリメートル *注)JR新幹線や多くの関西私鉄に同じ
だから競合時代は三本レールも
また市電に買収後は、狭軌からの標準軌への改築などが実施され市電カラー一色となっていくわけである
市営化後も堀川線は狭軌(1067ミリメートル)のまま残ったが昭和36年(1961)には廃線
最初の電車伏見線も昭和45年に廃線となった
市営鉄道ゆえの廃線であったのではないだろうか
その市電も昭和53年(1978)に完全廃止
京都市電は京都の都市計画と一体であり、京都の街路を整備していく事業でもあった
碁盤の目にあわせておおむね循環型の路線網となり、それからの京都の街の骨格を作ることとなった
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と、言えば都市作りの上の歴史的意義はある思う
だが、しかしここにきてむしろ残念感が残る
現代のこの京都の街に仮に市電が走っておれば・・と思うことが多い
それはノスタルジーでしかないというけれど、梅小路公園で野ざらしで保存されているのは少し非情なようだ
その隣にはあれほど立派な鉄道博物館があるんだよ
せめて動かないなら市電博物館ぐらいにしてもいいのではないか
公園や水族館の案内所に利用したり、写真のように業者に売店として利用さしたりでは貨物のコンテナ並みに扱いだと思う
物質は酸化(錆びる)する、文明は風化する、文化は腐敗するものだから・・
京都の市電が広島や仙台で走っていると市電ファンが言う
標準軌だから嵐電(らんでん)とも乗り入れすることも出来たはずだ
京都電気鉄道を買収しても、市電は標準軌だったことに値打ちがあった

大阪は京都にマネて市電を走らせた
京都は大阪をマネて市電を廃止した
今また、民泊で大阪のマネをしようとしている
観光行政ではまた大阪のマネをしようとしているのが気になって仕方がない
鯵庵(30.4.23)



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by ajiankyoto | 2018-04-23 20:17 | 都市 | Comments(0)

京都電気鉄道は狭軌

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我が国最初の営業用電車が走ったのは明治28年
この年、京都駅前(近く)から伏見油掛まで
続いて京都駅前から岡崎の内国勧業博覧会会場までが開通した
これは琵琶湖疏水と水力発電、潤沢な電力を利用しての事業だった
この路面電車、博覧会に合わせて計画された当時の京都経済界の事業
首謀者は京都商工会議所初代会長高木文平(天保14年現南丹市生まれ)
初代社長にもなる
京都電気鉄道(私鉄)、市電ではない

順次路線を拡大、明治33年(1900)には北野天満宮まで延伸
その後市内を環状に結ぶまで路線を拡大していった
当初からこの頃までは単線、停留所なし
電車の前を〝電車が通りまっせー″とばかり前走り(さきばしり)の小僧がおったという話
ポイントも手動
なおかつレール幅が狭軌(1067ミリメートル *注)JR在来線に同じ)であった
これがポイント
大正7年(1918)市内の電車の運営は京都市電に買収された
(この項京都市電に続く)
鯵庵(30.4.22)

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by ajiankyoto | 2018-04-22 08:21 | 都市 | Comments(0)

風俗という言葉

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そもそも、「風俗」と言う単語は矮小に言葉が変化した
法律に一番なじみにくい性質の言葉だったのに、
着ぐるみ(風俗営業法)を着たみたいで本当の顔が見えなくなってしまった
性風俗だけが風俗と思われるようになってしまった
あえて、風俗と言う言葉を使うべきである

風俗とは、本来、人の営みの歴史みたいな言葉である
人が寄れば醸し出され、社会が出来れば制度・文化に変わるほどのパワーを持った言葉である
服装・飲食・住居・年中行事・遊び・芸能・信仰・身分制度・商業経済・交通通信・教育・保健衛生などなどカテゴリーに限りはない
文学はそれそのものであるし、今時のブログを書く人は皆肌で知っている
風俗という言葉をみんなが使わないと言葉と一緒に風俗が見えなくなってしまうのではないか

小生思うに風俗に一番近い言葉は世相、次が生活である
長い長い時間軸を縮めて述べれば歴史になる
そこにも男と女がいるのは当然のことである
男と女のことではなくてその前のことだと思う
人の時間の軸で述べればどうやって大人になっていくかだと思う
その先どうやって暮らしていくのかということだろう
鯵庵(30.4.19)

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by ajiankyoto | 2018-04-18 21:00 | 大人の恋 | Comments(0)

鎮西八郎為朝の勇気


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少年雑誌は昔月刊だった、2~3紙あったように思う
風邪をひいて休んだら雑誌を買ってもらえた
どれだったか覚えていないが「源の為朝(ためとも)」というのが記憶に残っている
為朝は為義(ためよし)の八男、京を追われ阿蘇地方で暴れていたから鎮西(ちんぜい)八郎という
何んと身長が2メートルを超える、しかも弓の名手で左腕がはるかに長かったという
傍若無人な性格だったが父には従順なところがあった

そのため保元の乱で兄義朝(よしとも)と戦った
義朝は父に弓し、為朝は兄に弓を引いた
物語によれば、兄を射殺す機会に弓を射なかった
義朝は崇徳院(すとくいん)の白河の仮御所に火を放った
後白河帝・清盛・義朝側の勝利であった
崇徳院は同母弟後白河によって讃岐に流された
乱の後、父為義は義朝に切られ、為朝は筋を切られ伊豆大島に流された

伊豆大島を従え再び暴れた為朝も後白河院の追討を受けて自害して果てたとある
平家全盛の頃である
この時、為朝は洋上琉球に逃れ、初代の琉球王となったと、琉球の歴史では記されている
・・様々な伝説にも登場する
義経と同じようである

京都堀川今出川の白峯神社はこの時(保元の乱)に敗けた崇徳院の魂を祀っている
考明天皇のご意思を明治天皇がついでかなった神社である
その傍らの供緒社(とものをしゃ)はこの時崇徳院に従った為義・為朝父子を祀ったものである
武道・弓道の上達にご利益あり?
崇徳院が同母弟後白河に敗れただけでなく、藤原氏も平家も源氏も家を二分して戦わざるを得なかった
そんな時代の武者というものがどんなものであったか
個人の武術というものが意識された時代だったのかもしれない
為朝の弓が義朝に向かって矢を放てば、あるいは乱の結末は大きく違っていただろう
しかし、それでは武力ではなく暴力になってしまう
少年雑誌に為朝が登場していたのは少年が憧れるに値する勇気だったということだろう
鯵庵(30.4.16)

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by ajiankyoto | 2018-04-16 17:38 | 崇徳院 | Comments(0)

歌の崇徳院

主役は崇徳上皇と左大臣藤原頼長の筈だった
武士では源為義、平忠正がついた
都がここに定められてもう260年、平安時代は政治的に極めて安定した時代だった
が、ここにきて敵味方に分かれて天下を争う事態に至った
兄崇徳院は同母(待賢門院)弟、後白河が帝位についたとき
「文にあらず武にもあらず」と後白河の器量について言った
皇位の継承などと言うのはあり得るべきでは人ではない
また、本当にそうであった、弟は道楽者なのだ

その道楽者後白河天皇には藤原信西入道がついていた
切れ者官僚である
合戦のことは武士に、と言って清盛や義朝に任せた
鴨川を挟んでの布陣だった
崇徳院の臨時御所白川御殿は夜討ちにあって火をかけられた
崇徳院側は摂政関白家の左大臣藤原頼長が学識に自信あり戦のことまで差配した
源氏の長者為義といかな勇猛な為朝でも相手の夜討ちに敗走した
しかし、この時の主役は為義の八男鎮西八郎(ちんぜいはちろう)為朝であった
保元元年(1156)7月の一晩のことだった  
この事件を見る限り、政権は武力で決まるということが明らかになった

白河御殿を逃げ出した崇徳院は行くところもなく、仁和寺の同母弟の法親王をすがった
だがしかし、摂関家を二分して、武士を二分して戦ったこの戦いの相手も同母弟後白河であった
許されるものと思うのは間違いであった
讃岐に流されることになる
おおよそ8年後都と弟後白河院への怨念を抱いたまま世を去った
新院と言われてからも十何年も歌の道を探究してきた
崇徳院にとって帝と言うものはそう言うものであった
約100年を経て選ばれた歌集(小倉百人一首)に恋の歌をとどめることになる
白河(1086)・鳥羽(1129)という院政は後白河(1159~1197)によって引き継がれることになる
我々は歴史の結果をを知っているが、現実に生きているものについては生きるか死ぬかの選択だけだった
生きたものもまた選択の試練に合う
つい何代かは歌が上手いことが帝位にも政治にも必要だったかもしれないが・・
土地の支配には実力が必要になってきていた
これを武士の台頭という・・・・
写真は白峯神宮にて
鯵庵(30.4.15)

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by ajiankyoto | 2018-04-15 09:45 | 崇徳院 | Comments(0)

「資産寿命」が尽きる時


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「老後」というのは使い勝手の良い言葉だ
誰にでもあるけど、幾つになっても進行形である
いくらでも心配できるしいくらでも脅かせる
「健康寿命」など言うのも同じだ
寝たきりでは生きてる値打ちがないと老後を鼓舞してくれる
ケツを押したり足を引っ張ったりどちらでも使える
「資産運用」も使い勝手が良い
ない人もある人も増やすことが出来るならそれに越したことはない
その都合から
「資産寿命」という言葉が生まれたのだろうか
証券会社や生命保険会社が余計な計算をしてくれる
老後の日常生活費は月22万円(平均)
だがゆとりある暮らしは月35万円、その差額は月12万円
老後スタート時(65才想定)の貯金(退職金を含む)3500万円(平均)
3500÷12÷12で24年・・で、90歳を前に底をつく
年3%で運用すれば、105歳まで生きることが出来るという
安全な投資信託などで資産を運用をしないと健康寿命より資産寿命が尽きてしまうぞ
と、脅かす

でもな、10年前のリーマンショックの時だ
投資信託は自分の元本を削って配当してくれていることが分かった
素人は皆、うかうかしてるうちに解約が遅れ大幅な元本割れを起こした
多くの人が退職金と老後資金を減らした
今の銀行や証券会社にはそのころの社員はもういないらしい
それにしても月35万のゆとりある老後生活が出来るとしたら
我が国の経済はそれだけで既に数%以上の成長率を続けていただろう

確かにそういう人もいるだろうな
入ってくるものが有り余るなら毎日宮廷料理でも食えばいい
80になっても90になってもまだそれだけのコストがいるのだろうか
そもそも、老後の生活でゆとりとは何なのだろうか
ほとんどの人が入ってくるものでしか暮らせないのは当たり前である
年金で足らない分を家族で万引きをして暮らす人もいる
そんなゆとりだけは勘弁してほしい

老後というものは多くのものを整理して捨てて生きながらえていくことでもある
資産寿命が尽きた人に宮廷料理のメニューを見せて何をしたいのだろうか
それこそわずかな貯金をまた吸い上げてやろうというのだろうか
写真は塀の外に落ちた椿、踏まれまいぞ、その気持ちわかる?
鯵庵(30.4.13)




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by ajiankyoto | 2018-04-13 07:35 | 往生 | Comments(1)

椿の寺の墓守

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鹿ケ谷の霊鑑寺から法然院は椿街道だ、その途中にあるのが法然院墓地である
小生ここほど手入れの行きわたっている墓地を知らない
近代霊園ではない、しかも誰でもが立ち入ることが出来る
上の方には谷崎潤一郎の墓もあるがさりとて特別なことはない
その墓地で毎日のように地面にへばりつくように草を引き、掃除をしている人を見る
法然院の坂からここまでは小さな花の大きなツバキの木が多かった
法然院は椿の一番似合うお寺だから、落ちたツバキの花を掃除しながらも要所要所に花を残している
カメラを持っている小生にそんなことをあかしてくれた人がいた
私も写真が好きです、とも言っていた
ツバキの花は落ちてからが美しい、が、どこに落ちてもいいというものではない
しかも、お寺や墓地は清浄であらねばならない、それが美学だなと思った
あれから数年たったが今でも同じである、だが少しずつ大きなところが整備されていく
町では落ち葉もゴミだと多くの人が感じるようになってきている
これからは落ちたツバキの花も見る間もなく掃き捨てるのも仕事かもしれない
墓守さんの守備範囲も狭まって、草挽き仕事ばかりになってしまうのだろう
墓守さんなどと言ってはいけないのだろうけど、
花の心を分かる人のいるここだけは墓守さんの仕事も残ってほしいと思ったりしている
もう一つの名物谷崎桜も盛りである
写真は谷崎桜とツバキ
墓守志望の鯵庵(28.4.4)


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by ajiankyoto | 2018-04-11 20:05 | 翁草 | Comments(0)

寺町通・今出川通の交点に近く大原口の碑(道標)がある
ここは出町と呼ばれる
ここから葵橋、御蔭橋を渡り出町柳駅を横目に花園橋を右へ高野川沿いに北上するのが旧の大原・敦賀街道である
八瀬まで叡山電鉄叡山線と並行する
八瀬から比叡山にケーブルカーで登ることが出来る
大原へ向かう途中に花尻橋がある
バス停の前には土井のしば漬け工場とレストランがある
その川向いが花尻の森である

寂光院に隠棲した建礼門院を見張るため頼朝が武士を置いたと言う
ここが大原(あるいは京の)の入り口だからだ
少しこんもりした土地であるが、ここは薮椿の大木が茂る名所である
NPO大原里づくり協会が"春には落椿で一面に真赤に染まります"との立札がある
ここは椿でも落椿の名所なのだ
小生がフィルムカメラを持ってここに始めて行ったのは20年ほど前になる
椿は高野川にかぶっていて清流にも落ちた花も他所にない風情だった
夏はバイクで行ってカワムツを釣ったこともある
落ちた椿がカワムツになるという作り話を信じたくらいだ
思えばそのころは贅沢な椿だった
この頃はそんな看板を出さなければわからないほどに椿の森も褪せている

大原に入れば多くのしば(紫蘇)漬けの店がある
夏野菜を赤紫蘇の葉とともに塩漬けにし日にちをかけて乳酸菌発酵させたものである
だから、生柴漬けは季節で味が微妙に違う
現に今は紫蘇の苗を作ってる頃なのだ
大原の里は都の生活物資の供給源であったが、柴漬けは京都では作られなかった
冬に雪に閉ざされるこの地ゆえのものだという
それが長い間大原の「ちりめん赤紫蘇」の種を守って来たという
大原三千院まで行く満員のバスでもここで降りる人は少ない
しかも橋を渡って椿を見に行く人はほとんどいない
ここからが大原の里
だと思える場所である
写真は石垣ではない、漬物石だ、今は休んでいる
鯵庵(30.4.10)



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by ajiankyoto | 2018-04-10 01:00 | 路線バス | Comments(0)