2016年 12月 22日
僧侶が作る病院
永観堂は東山にある壮大な寺院である聖衆来迎山(しょうじゅうらいごうざん)禅林寺と言う
12世のご住職が法然上人に帰依して後浄土宗のお寺である、ということでご本尊は阿弥陀如来である
紅葉で有名であるが、周知なのでそんなことは書かない
阿弥陀如来の念仏の道場としてのことの方が大事である
が、それも書かない・・もう一つが明治の初めの歴史である
明治の始め三条通りの東、粟田口村の天台宗の寺院「青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)」に「京都療病院(りょうびょういん)」が開設された
なんと明治5年のことである
元処刑場のあったのが三条河原である
そんなことからか医学研究に解剖場も併設
この療病院の設立は実は当時京都の実力寺院(観光ではなく)の僧侶たちの社会運動だった
明治元年に神仏分離令、それにより廃仏稀釈の波が全国に広がった
仏教界の他、一般府民や医師、薬種商なども出資、花街(かがい)の冥加金(みょうがきん)まで多くの資金が集まったという
京都における近代医療の始りであり、首都でない都市としては早かった
梅毒退治や精神医学の魁となっていった以後京都は近代医学の先進都市となった
これが梶井町にある今の京都府立医科大学となる
この永観堂にも癲病院が設置されていた時期もある
廃仏稀釈は大寺院も土地をとられ、らしからぬ僧侶は還俗、そんな時期だからこそ仏教界や市民・府民が一緒になって作ったことの意義が大きい
病院は宗教の最も明確な救済活動だとするヨーロッパのキリスト教の影響も大きかったと言える
この療病院というのも聖徳太子の創設したものに習ったという宗教家の存在は大きかった
でも廃仏稀釈運動の危機感と言うものは本当にその時だけだったのだろうか
現代の京都の僧侶の職にあるものは市民の救済のために何を訴えられるのか?
鯵庵(12.22)
2016年 12月 18日
3条のレールは交わらない
2016年 12月 15日
情報の99.99%は要らない
2016年 12月 13日
上手なタバコのやめ方
2016年 12月 12日
ドングリの夢
知っているようでいるようで知らないのがドングリの夢
ドングリは乾果(かんか)の一種、果皮が固いブナ科の果実全体をさしている
子供達がはかまと言っているのは殻斗(かくと)である
それがブナ科の特長でもある
ドングリの森にはブナやナラ類の明るい森もあるし、シイやカシ類のように暗い森もある
スダジイというのがある
名は余り聞かないという人がいる、常緑である、シイタケのほだ木にも使われる
実は炒って食べられる
イタジイ、ナガジイともいう、一般のシイの木のことである
ジイ(爺)というのは懐かしみを感じるが、スダジイという名の語源を小生は知らない
京都のシイ類の群落は円山公園・清水寺裏、松尾大社裏、法然院・銀閣寺町などが知られている
神域で開発の手が入らなかった所などが分かる
この群落は守られなければならない
もう一つ平地は鎮守の森である
クスノキやシイ類の大木は神社の森に多い
鎮守の森は神のいる世界を区別するための森だ
そんな偶然で京都の森はギリギリ守られている
東山七条の女坂(おんなざか)を上がっていくと新日吉神宮(いまひえじんぐう)にあたる
三十三間堂や今熊野(いまぐまの)神社は後白河院政の法住寺殿(ほうじゅうじでん)の一連の建物である
後白河院が日吉神社(ひえじんじゃ)を祀って新日吉神社とした、今は後白河院も祀る
本殿裏に樹齢500~800年というスダジイの大木がある
新日吉神宮がここに来る前からあったと言われている
京女(きょうじょ)の京都女学院が随分大きくなって校舎が迫っている
明治になって京都女学院も来たが神社も来たから守られたと思う
小生ら夫婦はこのスダジイがかぶる本殿で数十年前結婚の祝詞(のりと)をあげてもらった
おかげで(?)まだ続いている
ドングリも押し花にしてと孫が言う
鯵庵(12.12)