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ネギと天かす⑶きざみ葱の怪談_b0355451_07453597.jpg
ぼちぼちホームセンターで家庭菜園用のネギ苗が出てくる
ネギというのは実は冬のものである
秋にタネをまいて次の年の晩秋になる、ネギは時間と手間のかかる野菜でもある
ただ、我々は家庭菜園組は夏に一度掘り上げた乾燥させたネギ苗を植え付ける
新鮮なネギの葉の内部にはぬめりがあるのが特徴でもある
寒さと霜にあたったりしてこのぬめりが多くなり甘さが増す
青ネギでも白ネギでも鍋物にはいいのはこの事情による

薬味に使うネギは青ネギである、
多くは九条ネギと言う品種の仲間である
今が植え付けの時期である位だから、夏にネギの出荷は難しく価格は自然に高くなる
ところがうどん屋やラーメン屋のネギ入れ放題は年中である
これは「きざみ葱」である、カット野菜の一つである
昔から都会のスーパーにはあったが、今は大量のネギを工場できざんで流通に乗せている
しかも、ここ数年、きざみ葱の需要が急上昇である

少しきざみ葱について考えるようになってきた
天かすもきざみ葱も鮮度が命である
そもそも年がら年中ネギが出来てるのだろうか、瑞々しそうに見えるが、よく見るとぬめりがない?
ネギの出荷量が多いのは東京近郊県である
が、九条ネギの本場ということもあってかそれでも京都近郊にもネギ畑が沢山ある

この時期、日照りの中で黄色くなりかけても、ネギ畑も不思議ながら雑草一本生えていない
その隣に、ネギ屋の大型トラックが停まっている
作付け面積が伸びて需要が毎年伸びているのがきざみ葱なのだ
今がネギ屋の売り込みの勝負時かもしれない
讃岐うどん専門店やラーメン屋の繁盛を支えているのはきざみ葱だろう
無料のトッピング、小生もネギ多めとかネギ入れ放題が好きである
精一杯、キムチや天かすやネギをケチってる店に明日はないと予言してやる

ネギは冷凍すると風味が戻らない・・この時期ネギは高い、それなのに、きざんだネギの方が安いのは怪談ものだと思う
京野菜の九条ネギも登録商標ではない、九条ネギの種であればどこで作っても九条ネギである
そんなこんなで、きざみ葱の鮮度(ぬめり)を見ながら店選びをすることにしているのだが・・

写真はネギ苗(※参考)九条太ネギは大阪原種のネギ、冬に美味しい代表的九条ネギ、京都でネギづくりが始まったのは平安遷都の頃と言う
鯵庵(28.8.25)




# by ajiankyoto | 2016-08-25 09:08 | 大衆食堂 | Comments(0)

地蔵盆は消えてゆくのだろうか_b0355451_20543929.jpg
道祖神(どうそじん)と言うのは民間信仰の神である、賽(さい)の神である
誤って迷い込まないように世界の境を守っている
外部の侵入者を防いで村々の安寧を守るものであった
後に神道の猿田彦(さるたひこ)神に習合(しゅうごう)したり、近世になって仏教の地蔵菩薩と混淆(こんこう)したりと言うのが、小生の理解である
街角や、道端や分かれ道に見る"お地蔵さん”はその習合・混淆したものである
何度も言うが現世と来世にまたがるスーパーな佛が地蔵である
様々な形で祀られているが、伝説では少年の形で現れるとも・・そんなことから子供達を守るためにも素朴な童顔の仏にもなる

地蔵菩薩のいわゆる縁日は毎年24日であるが、7月の縁日は地蔵会(じぞうえ)と呼ばれる
こちらでは月遅れ8月24日になる、同じく月遅れのお盆に近いことから地蔵盆と呼ばれている
この”お地蔵さん”の受難は明治の廃仏稀釈であり、迷信として退けられ多くの地蔵の祠や石仏が壊(こぼ)たれた
それだけでなく、街路拡張のためにも邪魔になったと見えていじめられた
明治も半ばになって、京都の市民も落ち着きを取り戻すようになってきた
それに伴っての各町内での地蔵会が復活されるようになってきた
地蔵に化粧して供物などを供えて、子供たちにお菓子やくじ引きや子供を中心にした祭りである
地蔵盆の終わりに盆踊りをすることもあった
子供にとっては夏休みを締めくくる重要行事である

京都が独自の文化都市として再出発するのは町が中心となった小学校の設立とこの地蔵盆の風習を残してきたことが大きなことである
町内自治の必要性があったから残り、必要性がない地方では廃れていく事例でもあると思う
縦横のつながりは町内を超えて保育園や幼稚園に移行している
幼稚園の夏祭りがテレビで地蔵盆行事として紹介されるようになってきた
(この項続く)
鯵庵(8.23)


# by ajiankyoto | 2016-08-24 06:03 | 地蔵菩薩 | Comments(0)

駐車違反は運転手の顔を見なくていい_b0355451_15115017.jpg
それは駐車監視員というらしい
全国共通のグリーンの制服を着た人が二人連れでタブレットをもって回ってくるのは知っていた
そういえばひと時交通巡視員と言うのがあった、その交通巡視員?かと思いきや、今は交通巡視員は警察官に吸収されている
10年ほど前(2006)の道路交通法の改正で駐車取り締まりが強化された
この駐車監視員と言うのが出来た、民間会社に警察が委託することが出来るようになった
この業務につくためには警察権を行使するための講習を修了しなければならない、みなし公務員だから収賄(しゅうわい)が禁じられているのは警官に同じ

街中ではその二人連れ(駐車監視員)に何組も会う
職員にしたら〝駐車違反を上げてなんぼ″の世界
そういうノルマは設定していないと警察は言っているようだが・・
しかし駐車違反は運転手の顔を見なくていい、運転手が帰ってくるまでに逃げればいい
商売の町では〝車は停まってるときに仕事しているのだ″と力説していた議員さんがいる
ええこと言うと思った、ただ言い続けて欲しかった
取り締まり方に文句言うのも議員の仕事だ、が、解決はしない
議員さん風に小生が言いなおせば
〝走ってるときは車が仕事をし、停まってるときは人が仕事している、人が仕事をしているときに忠実に従う(待っている)のがいい車″だと言える、それが働く車である

チョット離れた自動販売機に缶コーヒーを補充している間に駐車違反の写真を撮って件(くだん)の駐車巡視員二人が自転車で去った
近所で店番していたおばちゃんはドライバーに知らせに走ったようだが遠くて間に合わなかった
それを見ていた客待ちタクシーの運転手が「ベンツも捕まえろや」と巡視員に精一杯応援ブーイングをしていた
病院の前に停めた介護タクシーもやられていた
駐車監視員二人は素知らぬ顔をして自転車をこぐ
明らかに働く車である、よく働くいい車は主(あるじ)を駐車違反の犯罪者にした
それでこそ駐車監視員はノルマを達成できる
お盆の帰省のために減った獲物もやがて帰ってくる
この頃はバイクが狙われているぜ
仕事としては肉食系の仕事だね
写真は黄蜀葵(おうしょっき・オクラの花)
鯵庵(8.23)

# by ajiankyoto | 2016-08-23 08:22 | ハロー・ワーク | Comments(0)

いなせな氷屋はどこへ

いなせな氷屋はどこへ_b0355451_07392477.jpg
町内の店でなくなったものに氷屋がある
昭和30年代の町の暮らしには冷氷庫(れいひょうこ・本来の冷蔵庫である)があった
冷氷庫はだいたい木製で2段になっていた
前面や扉には銅板をはってそれなりに豪華なもので玄関を入ったところにおいていた
玄関や土間におくのは理由がある、
上段に氷、その冷気で下段の食品を冷やすのである、融けた氷は水になるからである

氷屋がリヤカーに乗せて運んできた氷の塊を1貫目(3.75㌔)とか2貫目とかの大きさに切ってくれるわけである、それぐらいしか入らない
そのうちに八百屋の荷車がきてごつごつしたトマトやとげとげのキュウリなどを入れた
余り甘くないまっかも冷やせば食えた
入れるものは最大一日の食品であった

昭和40年代後半になると裕福な家庭には電気冷蔵庫が流行り出した
電化製品が三種の神器(さんしゅのじんぎ)と言われた
テレビ「サザエさん」に出てくる電気冷蔵庫は昭和50年代の東芝製品である
その時にはもう氷屋さんは急激に減っていた
電気冷蔵庫が氷を作れるようになって、家庭用の氷かき器や水割りウイスキーが流行った
冷凍庫が当たり前になり、ドアの数も増えて、どんどん大きく機能的になっていった
今は1週間以上の食材が入っている

30年代に何千件もあったようなあの時の氷屋さんはその後どこへ行ったのだろうか
朝早くから陽が高くなるまでの仕事である
大きなノコギリでザクザク氷を切る姿は”いなせ”である
氷屋さんはもてそうで、子供心ながら憧れたが、大人になったら氷屋がなくなっていた
それでも今も昔も″男は気で持て”と言われている
写真はキンノカエル
鯵庵(8.20)




# by ajiankyoto | 2016-08-20 06:45 | ハロー・ワーク | Comments(1)

小生の趣味の一つにホームページ作りがある
人に頼まれたりもしているが、自分でも京都の歴史を断面的に見ようと試みたサイトを続けている
パソコン教室で、WEB言語であるHTMLやCSSも小学校卒業くらいの知識までなら学んだ
今はWEBの世界でもあるが、それ以上に書籍は内容が信頼できる
実は古本屋によく行く
この前に買った本に
『もっとも分り易き平家物語の解釋(柴田隆著・昭和4年日本出版社発行定価1圓)』がある
それはいいのだが・・
その本の後ろに
『樟蔭女子専門学校福本淑子』(もちろん実名です)ときれいな字で持ち主の署名がある
樟蔭女子専門学校(大阪)は大正15年(昭和元年・1926)の開設である
高等女学校卒業後に入学して3年だから卒業は20才になる
本は昭和10年の10版発行だから、推測するに昭和10年(1935)にはざっと16か17歳くらいかと思われる
仮に大正8年(1919)の生まれだとしたら、今年は97歳になろうかと推察できる
平家物語を学んでいた乙女である
97歳になろうと98歳になろうとしっかりしておられるはずであろうが、そうでなくとも仕方がない
本の持ち主の娘さんあるいは息子さん
小生を含めてあれから何人かの手垢はついたかもしれないが
必要ならばお返しする、と言う連絡である
もっとも分り易き平家物語の解釋_b0355451_09521296.jpg
一番多感で頭脳がさえた時代に彼女がこの本で勉強したはずであるし、本にもその形跡が残っている
卒業したって女子の生きる道は限られていたはずなのに、平家物語の歴史と解釈を学んでいたことは驚く話である
つくづく、日本の女子の教育レベルが高かったことが分かる
申し訳ないが、現代の樟蔭女子大学の学生たちからは想像すらできない
この学園も学校経営に成功し、今年は創立100周年になるらしい
大阪の名門である、大正・昭和・平成と3代にわたって学んだ人も多いだろう
ただ、女子教育は100年記念と言うより100年の落差を知るべきかもしれない

小生の母親は大正13年の生まれである
事情あって別居しているが、貧しくともしゃきっとしていたそのころの高等女学校時代の写真がある
たかだか高等女学校生であるけれど毅然としている
今も毅然と生きている
母親から受け継ぐものが多いけど真似のできないのも男の特長でもある
鯵庵(8.19)


# by ajiankyoto | 2016-08-19 07:37 | 往生 | Comments(0)