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祭/時代祭の梶女(おかぢ)のこと_b0355451_17203199.jpg
時代祭の京都の女についてもう一人語りたい
江戸時代婦人列のことだ
この行列で受けるのは幕末14代将軍家茂に嫁いだ考明天皇の異母妹和宮とややこ踊りの出雲の阿国ぐらいである
歴史(政治史)を知る人にとっては知らない方が不思議な女たちだ

この列には往時の都の庶民が出演するのだから、地味である、簡単に言えば良く分からない
京都の人も知る人が少ないのが、お梶(かぢ)と孫の玉蘭(ぎょくらん)である
お梶というのは5代将軍綱吉の元禄の時代に祇園社(八坂神社)の南門近くに茶店を構えていた
恐らくぼちぼち流行り出したお茶屋であろうか、だが、少女の時から歌をよくやるとして名があった

梶も14、15才で江戸に下ったといわれる
旗本某家の養女になったと指摘する研究家もいる
ただ、嫁いだ先を離縁になり、京都に帰ってきてお茶屋の主に戻ったのではないか
お梶の歌才は際立っていた、全国から歌人や風流人がお梶の歌を訪ねてくる
お梶の出自は不明となっているが、先の研究者はお梶の父は公卿の正親町(おうぎまち)家と推測している
お梶の生活と歌の後ろ盾であった可能性がある
それぐらいの血筋と素養と手ほどきとがなければあれほどの才能は発揮できるはずがないと考えるのが自然である
独身の茶屋の主と言うこと自体が仮の姿だったのだろう
それは歌人としての仮の姿であったろうが、死ぬまで京でこの祇園で生き抜くという本物の京女の形が出来つつあるころの話でもある

今はお梶のことだけしか語る間がないが、そのお茶屋を継いだお梶の養女が百合である
百合は母に負けず歌をよくしたが、祇園に隠棲していた徳山某と一緒になり町を産んだ
徳山某が江戸の徳山家を継ぐことになり身を引いてその後一人で娘の町を育てた
町こそ稀代の貧乏画家池の大雅と一緒になった玉蘭(ぎょくらん)のことである
当時の三人の女の生き方を説くには歌や絵画やに知識不足である
女3代これだけの才女が続いたということがテーマである

ただ、それが、時代祭の行列にふさわしいかどうかが小生にもわからない
時代はイコール歴史ではないし、歴史はイコール政治史でもない
身分いやしきと言われた祇園の茶屋の主が皇女和宮と一緒に行列する違和感はどうしてもなくならない
この列の特色でもある、どうしても解説がいる
ひょっとしたら、お茶屋が建ち始めた祇園の界隈にもこれほどの文化人がおったことを言いたいのかもしれない
時代祭は市民奉仕である、もう少し市民に説明しなければ梶や玉蘭を演ずる人はどんな歩き方をしたらいいのだろうか?と戸惑う筈だ
見物する人は、艶やかな巴を探していると行き過ぎる、江戸時代の都の庶民お梶も見て欲しい
時代祭の行列は10月22日だ、あなたがどう楽しもうとあなたの勝手だ
写真はフジバカマ
鯵庵(28.10.20)

# by ajiankyoto | 2016-10-20 07:41 | おなご編 | Comments(0)

私の林住期?

私の林住期?_b0355451_07163083.jpg
林住期とは生きるための仕事からリタイアして、人生とは何かを思考する季節・・・と作家の五木寛之が「百寺巡礼」で書いている
さて、これからは趣味も楽しみたいがどれも中途半端だし、病気にはなりたくないが先のことは分からない
家族のことも同じで、心配の種は尽きないが、いまさら零に戻すことも出来ない
多くの人たちと同じように特別な幸運は望むべくも無いが、いつか帳尻があったら人生“可(よし)”とするか
という気分である
たしかに、過去に誇りたいものもある、しかし、思えば過ちも無いわけではない
いいことだけを思い出すのも楽しいかもしれないけれど、過去を美化していくことは、それも一つの老化現象だと思う
どんな鋭利な頭脳の持ち主も意識しなければ老人化は防げない
いい思い出だけを語るなら、いっそのこと何も語らない方がいい・・のではと思ってしまう
結局今までのもので誇るべきものは何もないが、それでも今までと同じように生きていかねばならない

仕事もないと落ち着かない、社会との付き合いである
何も出来ないが何もしないよりはマシだろう
勿論その程度のことで何か見返りを期待しているのでも無い
いつまでも出来るとは思わないし、もっと何かをするかもしれない
社会の邪魔はしないつもり・・
やらしてもらっている間は世の中への義理も感じるのだが・・
他人に分かってもらわなくとも差し支えはない

この件に関しては未完成につき、予告なく変更する場合があります
写真は柿紅葉
鯵庵(10.18)

# by ajiankyoto | 2016-10-18 07:24 | 往生 | Comments(0)

若冲は伊藤若冲を知らない_b0355451_17140742.jpg
例によってJR奈良線稲荷駅の改札口は外国人ばかりである
何んとかその波を外れてランプ小屋の前を、石峰寺(せきほうじ)の方に向かう
それにしてもJRは国鉄時代の貴重な遺産(ランプ小屋)に無頓着だ、タバコの吸い殻が散乱する
住宅街の中を通って稲荷山の脇を上がっていく
石峰寺は京都の画人伊藤若冲(いとうじゃくちゅう・1800没)の墓がある寺である

寺の案内書によれば黄檗山萬福寺(※)の住職によって開かれたとある
「若冲の五百羅漢」が知られている
山の中に釈迦の誕生から入滅までを釈迦の教えにとともに数百の聖者たちの姿だ
若冲が絵をかいて、それを石工が彫ったということである
恐らく、人間臭い表情豊かな石仏群であったに違いない
木々や竹の隙間から光が入ればきっといい絵(写真)が取れそうな気がしたが、写真もスケッチも禁止であった
今はホトトギスが庭を飾っている
蚊に食われますよと若き住職さんが団扇を貸してくれた
今は、前には住宅が迫り来ててこの山の裏手は京都市立の深草霊園でもある

今年は若冲の生誕300年になるということもあって京都では若冲のブームである
京都市美術館でも若冲展をやっている
若冲はここで晩年10年ほどを暮らした
今も石峯寺は静かである
そもそもバスや車で入ってこれるところでないのが救いである
若冲に無縁な小生の勝手な話であるが、あるがままそのままこのままであってほしいと思う

外国人が日本の文化に憧れる 
お寺にも神社にも押し寄せてきている
隣接する伏見稲荷の参道や境内は外国人ばかりである
外国の方が多いので日本の方にはスミマセンね、と言うたら差別になるらしい
そう思うとなおさらあるがままそのままこのままそっとしてほしいと思う
人気画家ではあったけれど若冲は奇抜すぎる自分の絵が世間に評価されるには1000年かかるだろうと予言して85歳で没した
しかし、それから200年で歴史はいとも簡単に若冲に光を当てている

そのことを墓の中の若冲は知らないのである
喜んでいるとは限らない
そっとしておいてほしいというのはそういうことでもある
若冲が最後に選んだ五百羅漢とは仏陀の弟子である、インドから中国を経てはるばる日本に来た聖者である
思えば大勢の外国人でもある
日本の国はいつもそういう合理的矛盾を抱えている国だと思ってしまう
小生、芸術論を語っているつもりはない
写真は若冲の墓
鯵庵(10.17)


# by ajiankyoto | 2016-10-17 06:28 | 京都の水 | Comments(0)

「巴は京女」に続く

義仲がいなければ都に来ることもない女だった
戦(いくさ)に連れていくための妾と言われるが、女武者でもある
馬乗りは得意だったかもしれないが、当時武芸というものはまだ出来ていない
闘争心のままに長刀を振り回すだけの女である
庶人が知る歴史は「物語」でしかない
荒削りの男のために精一杯武器を持った一人の女へのはなむけだろうと思う
最期を共にするはずが義仲に見限られた巴は鎧を脱いで落ち延びた
その後の巴のことは物語の外の話である

実はそこらからが能「巴」が始まるが、そのことを語る力は小生にない
亡霊になって義仲を慕うのも巴かもしれない
近江の粟津「義仲寺」にある義仲の墓の傍にある巴塚は見逃す人が多い
でも歴史に現れるのはこの都落ちの瞬間だけだ
平家物語の中でだけ輝く女武者だ
女を通し、かつ、それでも最後一人で戦っても討死しなかった巴の強さゆえの哀しさが京都人の涙を誘う
義仲と最後を一緒しなかったこの女を張った強く誇らしげな姿こそが哀れである
それは誰でも持てるものではない美しさだ
勝ち負けを超えた、善悪を超えた自分をはっきり主張している
それが京女の根性である?

平安時代婦人列ももちろん市民奉仕である
が、市民と言っても京都の花街や地域女性連合会がこれにあたる
行列に続く紫式部や・清少納言・小野小町というのも同じではある
しかしながら、鎧をつけて白馬にまたがって背筋を伸ばすことは気合の入ったプロの芸妓でも難しい
これが出来ると京女の代表と胸をはることができるらしい?
来年の時代祭のポスターになれる
生きるということは芝居気が必要だと思わされるのだが・・
鯵庵(28.10.13)

# by ajiankyoto | 2016-10-13 08:15 | おなご編 | Comments(0)

祭/巴は京女

10月の時代祭りは平安神宮の祭礼である
明治28年に平安遷都1100年を記念して始めた
今は1220年ちょっとだから、120年になるが、まだ120年ともいえる
平安京ゆかりの桓武帝と考明帝の神輿が主役であるが、維新以前の各時代の行列が出る
10月22日が行列の日である、京都観光の目玉にしたいという思惑である
もう一つの特長は市民奉仕である、出演は一般市民である
祭/巴は京女_b0355451_16503456.jpg
一番の見ごたえを言えば、平安時代婦人列の先頭、巴御前である
後白河院政の時代だだから平安時代が終わろうというときである
1184年7月に入京した源氏の棟梁義仲、義仲についてきた巴にとって都で暮らすことはどういうことだったのだろうか
信濃・木曽の山国育ちを卑下することなく、武者として、それでも女としての栄誉もあったろう
都の水で化粧することにも馴染んで行ったろう
だがしかし、都の風に戸惑った義仲は平安朝政界をしくじって、翌年1月に頼朝軍に京を追われ近江で死す
都での羽振りはたった半年のことなのである
巴は、女として京都に残ることなどに何の未練もなく、最後まで将軍だった義仲についていく
「木曽殿(義仲)に最後の軍(いくさ)して見せ奉(たてまつ)らん」というのが平家物語のセリフだ

都を落ちていく武将に戻ったが、その時は既に京女であった
京都で生まれたわけでもない、たった半年で何時の間にか京都の女になっている不思議な女性だ
巴は「色白く髪長く、容顔(ようがん)まことに美麗(びれい)なり」と平家物語にある
なお、それでもその時の巴が一番美しいと京都の人は感じた
華やかな時代祭行列で白馬に乗って胸張った巴御前というのは・・
実はたった数騎で義仲にしたがって都を落ちていく時の姿だと言えば読者の皆様はどう思いますか
歴史というのは男の舞台でもあるが、また女の舞台でもある・・
(この項、続く)
鯵庵(28.10.12)

# by ajiankyoto | 2016-10-12 07:39 | おなご編 | Comments(0)