2016年 09月 02日
通知簿はいやだ
1クラスに50人(本当は60人だった)だったから、最高の5を貰えるものは3人くらいだった、4は12~13人くらい、3は20人で残りの15~16人が2の評価だった
教育的お情けで登校拒否しない限り1は2にしてくれていた
それでも相対評価である
3だったら親に怒られることはなかったが、4をもらえたら褒められた
4が複数あれば明らかに平均より上にいることの証明になった
音楽と体育はいつも2だったけど、それは別だった
ただ、先生のコメントに落ち着きがないとか、〝ちょか(?)″とか書かれた
明朗とか活気があるという明るい言葉はなかった
それでせっかくの複数個の4を上手く打ち消していた
社会へ出て社員5人おればそのうち仕事しているのは1人であることに気づいた
あとの3人はその1人に引っ張られて仕事している
それでも、最後の1人は仕事はしない
この1人に邪魔をさせないようにさえすればチームは仕事をしていることになる
これが現実だと
サラリーマン生活の最後の頃人事評価が流行った
会社での評価もA・B・C・D・Eの5段階だった
絶対評価だったから最初はD・Eをつけなかった
評価者自身も評価されるのが怖かったこともある
やがてそれが昔の小学校のように相対評価でなければならないと言われだした
評価制度のメリハリが必要になってきたわけである
どうしても一定の割合でD・E評価を指定せよという
小学校の時と違うのはEは落第(整理対象)なのだ
しかも本人に告知せよという
AやBは好き嫌いで選んだ、そのかわり誰にもEをつけなかった
それでもDの人からはちゃんと見てくれていないという不信感ばかりだった
上からも下からも評価をちゃんとしない管理職として評価された
C評価の上司がC評価をくれたら世間がC評価をくれたようなものだ
仕事をしたいサラリーマンにとっては、それが一番の安堵だ
逆にE評価の上司がEをつけた部下はひょっとしたらまれにみる逸材ではないだろうか?
例え本当に仕事をしているのは5人に1人であってもチームと言うのは全員が仕事をしているという錯覚で成り立っているのだ
毎年こね返されているのが評価制度だ
会社にとって要らないと言うなら、そんなめんどくさいことせんでも社長が一人で決めればいい
理由は規則違反でいい
自分のつけを自分で払えるのは会社では社長だけである
NHKのど自慢はスタート時から絶対評価である
3段階評価なのにカネ1つはもう何年も出さない
カネ1つでもいいかと言えば出てくれる人がなくなってしまったとも言える?
評価制度の行きつく先が見えたような話である
写真はニラの花
鯵庵(28.9.2)
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2016年 09月 01日
ガイドブックのチエックをしてるみたいです
パンフレットの説明では、「金閣は舎利殿である」とあるが、本来、「舎利殿が金閣と呼ばれている」である
どちらでもいいのだが、日本人の英訳であることは間違いない
日本語のガイドブックだって同じこと、既成のパンフレットをそのまま写した様な直訳方式が得意だ
ガイドというのは入り口を間違えないようにしてやることが大事
書き手の勉強不足が大きい
一方、ガイドブックに文句を言うのは分かるけど、ガイドブックと違うと言って苦情を受けることもあるとか・・
「旅行者の求めているものがガイドブックです」というのが出版社の答え
ごもっともな話だと思う
ならばこちらも・・
寺や店から見ればガイドブックは一番の広告であるのは事実
観光情報というものは作られたもの、すべて個別の意思と意図を持ったものと知るべきである
インターネットの世界と同じである、せっせと口コミを書いてもらわなければならない
ほとんど自分で書いているらしいが、その時、やはり必要なのは確からしさ
眉唾(まゆつば)では困る〝確からしさ″というのは観光客の心理を分かった上での正に文芸の世界である
情報は知識となるうるが、情報を選ぶのもが知識であると思う
客のほとんどが仏の教えを聞きに来たわけでもなく、本の写真と同じやと感心されてばかりでは、結局旅行者も京都を学べないし、京都の人も旅人に触れられない
世界中、日本全国同じことです
アジアのさる国からきたお客さんを金閣寺に案内したことがある
相手は既に世界遺産のガイドブックで見た金閣寺を見たかったのだ
禅の心は分からないし説明する力もなかった
しきりに金箔を貼った建物をほめていた
お客さんは英語が少しわかる、通訳はパンフレットの英訳を読み上げていた
ちょこっと意地悪に、「60年前に再建されたもので私より若い」と通訳に言うと、それはパンフレットには書いてないと通訳しなかった
結局、旅行者はガイドブックの書き手のチエックをしているようなものなのである
写真はキツネノカミソリ(園芸種)
鯵庵(9.1)
2016年 08月 27日
京都で生きる
読者の一人になってくれとメールが届いた
自分の昔の苦労を枯れた口調で語れるようになればこその話である
でも言いたいことがある、と言っていた
「家庭人にだって家族・家庭として、男と女にもマナーがある。悪意の多くは本人が気付いてないものだし、意図して隠しおおせばそれを裁いてくれるところはない。」という。
離婚に踏み切った時の気持ちの一端を書いている
恨みではない悔しさだと言っている
一部ブログの本文を引用させてもらった
東京で結婚して暫く大阪で暮らしていたらしい、それが離婚を期に覚悟を決めて京都で仕事を見つけた
落花は枝に還ることはない
東京にも帰らず、娘さんと一緒に京都で暮らし始めた
覚悟した仕事ぶりでそれから数年で大きなレストランのお昼のマネージャを任されるようになった
東京育ちの奥さんだったのも分らないくらいに仕事にも馴染んでいる
京都人に負けない京都人になってしまった
京都人になろうと思ったら思い切れたと言う、不思議な力を持った人だ
もう一つ魅力がある、きれいな標準語なのに周りの誰も気づかない
教養の都で培った教養は腐らない?標準語になり損ねた京都の言葉も本当はそうだったのだろうな
あんなにドスの効いた"・・どす”なんて言葉は東京の嫌みなドラマでしか出てこない
都であった頃はそんな香り高い人を育てていた町だったんだろうと思った
マナーに反することも許さなければならないこともある世間ではあるが、自分はマナーを守りたい・・そんな人の書く日常生活のブログもいいよな
京都の女(ひと)というのは京都の人のために京都で働いて京都で生きて行こうと決めた人のことである
それが都市としての京都の先進性であるというのが小生の論である
ブログのアドレスが違うが何回も「イイネ」の世界である
それにしてもどこのブログもイイネ一つ何でこんな難しいねん
写真は達磨
鯵庵(8.27)
2016年 08月 25日
ネギと天かす⑶きざみ葱の怪談
ネギというのは実は冬のものである
秋にタネをまいて次の年の晩秋になる、ネギは時間と手間のかかる野菜でもある
ただ、我々は家庭菜園組は夏に一度掘り上げた乾燥させたネギ苗を植え付ける
新鮮なネギの葉の内部にはぬめりがあるのが特徴でもある
寒さと霜にあたったりしてこのぬめりが多くなり甘さが増す
青ネギでも白ネギでも鍋物にはいいのはこの事情による
薬味に使うネギは青ネギである、
多くは九条ネギと言う品種の仲間である
今が植え付けの時期である位だから、夏にネギの出荷は難しく価格は自然に高くなる
ところがうどん屋やラーメン屋のネギ入れ放題は年中である
これは「きざみ葱」である、カット野菜の一つである
昔から都会のスーパーにはあったが、今は大量のネギを工場できざんで流通に乗せている
しかも、ここ数年、きざみ葱の需要が急上昇である
少しきざみ葱について考えるようになってきた
天かすもきざみ葱も鮮度が命である
そもそも年がら年中ネギが出来てるのだろうか、瑞々しそうに見えるが、よく見るとぬめりがない?
ネギの出荷量が多いのは東京近郊県である
が、九条ネギの本場ということもあってかそれでも京都近郊にもネギ畑が沢山ある
この時期、日照りの中で黄色くなりかけても、ネギ畑も不思議ながら雑草一本生えていない
その隣に、ネギ屋の大型トラックが停まっている
作付け面積が伸びて需要が毎年伸びているのがきざみ葱なのだ
今がネギ屋の売り込みの勝負時かもしれない
讃岐うどん専門店やラーメン屋の繁盛を支えているのはきざみ葱だろう
無料のトッピング、小生もネギ多めとかネギ入れ放題が好きである
精一杯、キムチや天かすやネギをケチってる店に明日はないと予言してやる
ネギは冷凍すると風味が戻らない・・この時期ネギは高い、それなのに、きざんだネギの方が安いのは怪談ものだと思う
京野菜の九条ネギも登録商標ではない、九条ネギの種であればどこで作っても九条ネギである
そんなこんなで、きざみ葱の鮮度(ぬめり)を見ながら店選びをすることにしているのだが・・
写真はネギ苗(※参考)九条太ネギは大阪原種のネギ、冬に美味しい代表的九条ネギ、京都でネギづくりが始まったのは平安遷都の頃と言う
鯵庵(28.8.25)
2016年 08月 24日
地蔵盆は消えてゆくのだろうか
誤って迷い込まないように世界の境を守っている
外部の侵入者を防いで村々の安寧を守るものであった
後に神道の猿田彦(さるたひこ)神に習合(しゅうごう)したり、近世になって仏教の地蔵菩薩と混淆(こんこう)したりと言うのが、小生の理解である
街角や、道端や分かれ道に見る"お地蔵さん”はその習合・混淆したものである
何度も言うが現世と来世にまたがるスーパーな佛が地蔵である
様々な形で祀られているが、伝説では少年の形で現れるとも・・そんなことから子供達を守るためにも素朴な童顔の仏にもなる
地蔵菩薩のいわゆる縁日は毎年24日であるが、7月の縁日は地蔵会(じぞうえ)と呼ばれる
こちらでは月遅れ8月24日になる、同じく月遅れのお盆に近いことから地蔵盆と呼ばれている
この”お地蔵さん”の受難は明治の廃仏稀釈であり、迷信として退けられ多くの地蔵の祠や石仏が壊(こぼ)たれた
それだけでなく、街路拡張のためにも邪魔になったと見えていじめられた
明治も半ばになって、京都の市民も落ち着きを取り戻すようになってきた
それに伴っての各町内での地蔵会が復活されるようになってきた
地蔵に化粧して供物などを供えて、子供たちにお菓子やくじ引きや子供を中心にした祭りである
地蔵盆の終わりに盆踊りをすることもあった
子供にとっては夏休みを締めくくる重要行事である
京都が独自の文化都市として再出発するのは町が中心となった小学校の設立とこの地蔵盆の風習を残してきたことが大きなことである
町内自治の必要性があったから残り、必要性がない地方では廃れていく事例でもあると思う
縦横のつながりは町内を超えて保育園や幼稚園に移行している
幼稚園の夏祭りがテレビで地蔵盆行事として紹介されるようになってきた
(この項続く)
鯵庵(8.23)