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北野天満宮の星をさがそう_b0355451_16512341.jpg
ゴールデンウィークが終わると京都は修学旅行生で溢れる
今日はいきなり北野天満宮で十数台のバスに出くわした
京都旅行の中に天神さん参りが入っているのは修学旅行の目玉である
天満宮の方も修学旅行メニューを用意して熱心に誘っている
クラスごとに神前に進む、初めての経験に中学生は少し照れもあるかもしれない
天神とは日・月や星の天空を司る神のことであり、それゆえ雷や雨の神である
1000年以上も前のこと、京の都に雷が大暴れして、それが先ほど九州でなくなった右大臣道真公の祟りだと言われ、怨霊を鎮めるために北野や九州大宰府で祀られた
菅原道真公の神号は天満大自在天神、と言うことで天神とは道真公、全国天満宮の祭神となる訳である、京都の御霊信仰の一つであった
道真公は学者であり詩人であった、政治家としての出世は学問によるが、藤原北家と位を並べるようになってしまったのでは学問だけでは身が守れない
政治には讒訴(ざんそ)がつきものである
朝廷や藤原氏や政争の勝者は敗者道真の怨念に重大な心当たりがあったということだろう
道真公の不幸は別にして、学問を身につけることは立身の最大の手段である
そんなこんなでいつか学問の神様と言われるようになる
学問にはげむ中学生がお参りに来るのは至極当然であるが
実は学問・学業の神天神様のご神徳はあくまでも学業に励む人にのみあらたかである
神は精進する人にのみご加護がある
だから、一発受験に勝利することを祈願したい人は博打の神様の方にお参りすべきである
そっちは一人こっそり行くことをお勧めする
写真は北野天満宮の空
鯵庵(28.5.13)


# by ajiankyoto | 2016-05-13 08:35 | ご利益 | Comments(0)

伏見一揆を忘れまいぞ

伏見一揆を忘れまいぞ_b0355451_19592323.jpg
徳川体制に入って京都や伏見は天領(直轄地)になった
伏見奉行は大名格の者が務め、伏見の町政、近国の司法などを所管する幕府の高級官僚である
元和(1622)の頃、伏見奉行を務めたのが小堀遠州、もと秀吉の弟豊臣秀長に仕えていたが徳川体制にも大名で残る、近江の国で小室藩(長浜市)主となる、元来、作庭・茶の湯の名人である

伏見の町政を預かって公金横領の重大嫌疑がかかるが、この時は名のある茶人大名で不問となる、その後茶の湯三昧で伏見の観月橋近くの豪勢な屋敷で生涯を終えたとある
それからほぼ160年(安永8年・1779)の伏見奉行、小堀政方(まさみち)の悪政と苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を幕府に直訴する事件(一揆)が起きた
天明5年(1785)伏見の年寄文殊九助(もんじゅくすけ)ら七人らが禁を破って伏見を脱出、江戸に出て幕府に直訴、だが例によって2年の後江戸にて獄死した
この伏見奉行小堀政方は件の大茶人小堀遠州から7代、近江小室藩第6代領主、時の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)派で大番頭を勤め幕閣でも羽振りが良かった
が、とんでもない食わせ者だった、先祖かえりして奉行は領主と同じだと勘違い
御用金10万両を小室藩の財政立て直しのためにと調達・流用・浪費がばれた

幕府直轄領伏見に幕府の目は届いていなかったが、さすがに今度は伏見奉行を罷免した
今なら政権が変わるほどの大汚職事件である
現に、翌年田沼が失脚した後、松平定信(まつだいらさだのぶ)により近江小室藩は改易(かいえき)となり消滅した
という前段が天明伏見一揆、町人一揆の代表的事件である
〝伏見義民事跡″として御香宮神社の片隅に碑がある

一方、御香宮はその先祖小堀遠州による作庭が自慢でもある
この場合、作庭や茶の湯は為政者の道とは別のものだったと知っておけばいい
現代でも政治が好きな文化人には注意した方がいいのは皆の知るところ
庭師や茶人を大名にしたつけを払うのに160年かかったことになるのだから
写真は伏見の酒蔵
鯵庵(28.5.12)


# by ajiankyoto | 2016-05-12 07:50 | 都市 | Comments(0)

ネクタイは何のために?

ネクタイは何のために?_b0355451_08530599.jpg
クールビズ云々で夏のネクタイを止めてもうずいぶんになる
サラリーマンの賞味期限の切れた身分ではネクタイそのものがは偽装になる
だか内心は、もう会社や世間の論理に首を絞められませんよ、言うつもり
ん十年のネクタイ生活から脱出ではあるが、白いシャツにただネクタイを外しただけでは間の抜けたものでもある
営業に長いこと携わった友人が言っていたのを思い出す
営業は売り込み、客の為にならないから営業職が必要なんだ、と
そのためにも、きちっとスーツを着ていいネクタイをしてなければならない、とも
省エネによって売り上げの減る電力関係の会社は矛盾に悩んでいる、その悩みがはネクタイに出る
そういえばあんなけ大きな事故があって発電所が停まっても東京の電力会社の偉い人もなかなかネクタイを外さなかったね
ボーイスカウトのネクタイ(スカーフ?)は伊達ではない
当たり前ながら彼らは営業の為にネクタイをしているわけではない
せめて、ネクタイで汗をぬぐったり手を拭いたりできるなら値打ちがあるのにと思う
やはり、営業の友人の言葉を思い出す
ネクタイしないで人を騙すと詐欺と言われる
ネクタイをして人をだますのが世間と言うものである
だから、謝るときに必要なのがネクタイ姿なのだ
本人にとっても首に巻いているのは首を切られないようにという気持ちの表れだ
だがしかし、それはまじないとしてもはや効き目はなくなりつつあるようだ
どこかの国の独裁者が急にネクタイをしめて出てきた
どう解釈すればいいのだろうか?
写真はボタン、それでもサラリーマンはやはり白いワイシャツがいい
鯵庵(5.8)


# by ajiankyoto | 2016-05-08 08:57 | おとこ編 | Comments(0)

京都の庭園は自然志向?

京都の庭園は自然志向?_b0355451_17225199.jpg
京都府立植物園は大正12年12月に完成・開園したとある
京都で代々お世話になったということで三井家10代当主八郎衛門、男爵でもあった三井高棟が大正天皇の即位の記念事業に京都府に多額の寄付をして完成させたものであると碑文にある
今は北山通と北大路通の間にある
が当時は下鴨、上賀茂二村の間にあった半木神社の鎮守の森であったという
哀しいかな戦後は12年間も連合国進駐軍に接取されていた
あの地に進駐軍の将校の家族の住宅が建設されていた
彼らは森や林の中の家を理想とする

昭和36年今から50数年前に植物園として再開したとある
我が国の自然保護は鎮守の森に始まると唱える人がいる
人々が安直に手を入れることが出来ないのが神域である
たとえ子供の遊び場であっても森が守られてきた謂れがある
船岡山もそうだし上賀茂の裏山や下鴨の糺の森などのことを思えばいい
原生林の名残である

ちまちました庭園を作ったって森や林にはなりはしない
京都へ来てお寺や別荘の庭園を見て、自然が一杯だと感心する人は多い
だが残念ながら、それは大いなる勘違いである
庭園は人工物である、自然とは対極にあるものなのだ
そもそもが都の中は人工物のかたまりなのだ
それが都市だった
都市は時に拡大し時に縮小しその歴史の中で残されたものなのだ
そんなことを考えるときに元鎮守の森だった植物園の木々や花園の意義は大きい
いかに自然に、自然らしく見せるのかと言うことをテーマの一つにしている

ただ、いつもながら・・いかにもそれらしくしようとあっちを掘ってみたりこっちを掘ってみたりしているのは余計なことだと思ってしまう
またそういう工夫したところほど枯れたりする
どうしようもないほど茂ってしまえば植物の勝ちである
そんなところが残るだろう
人間が変に手を加えずに100年もたてば自然と言ってもいいようになる
鳥や昆虫にも優しくなければならない
そんなところは春夏秋冬美しい
写真は植物園でも見ることのできないキクナの花
鯵庵(28.5.7)

# by ajiankyoto | 2016-05-07 20:21 | 都市 | Comments(0)

火盗改め鬼平の京都

江戸で活躍の鬼平が20年ぶりで京都へ来る
当時、西町奉行に就任(1772)した父の赴任と従って足掛け2年を平蔵の家族も京で暮らした、という話である、
平蔵の父もその後の平蔵も徳川の実在の官僚だったからそこまでは史実とほぼ重なる

それから20年その父の墓参りにやってきたのは小説だけのことだろう
テレビは何度も再放送されている、「艶婦の毒」と言う題であった
艶婦とはお豊と言う西国をまたにかける盗賊団の引き込みで、若いころの平蔵に京都で出会った
”お前がおれば主もいらんし親もいらん”と言わしめた相手であるが、平蔵にとっては若い時の京都での大失敗である
女優山口果林がいい40女を演じている
何んとテレビ映画「鬼平犯科帳」平成6年(1994)約20年も前の作品だ
その女を幕府のお先手弓頭兼火盗改めに出世した鬼平が20年後の京都でまた見かけたて捕えた
女優が誰であろうと、小生なら昔のよしみで見逃してやる
鬼平は自分の若い頃と京女が憎かったに違いない
火盗改め鬼平の京都_b0355451_07362582.jpg
鬼平年譜によれば京都で暮らした20年前の平蔵は結婚して息子辰三が出来ていた
父がも少し長く奉行を務めておれば、京都で暮らしてたかもしれないが、早々と父の役宅をたたんで江戸へ帰ってしまう
1年にも満たない京都暮らしであった
京都では大言だけを残した人であった
世は田沼政治の時代、28歳で長谷川家の当主となるが、無役の旗本、それからしばらくまた放蕩が始まるという、ところがやがて幕臣として頭角を現す
その上昇志向は大言壮語だけでなく三河以来と言う長谷川家の家柄によると研究者は言う
思えば地方都市京都では暮らせない人であったと思われる
明治になって都が東京に移るまで京都は都だったというのは京都人の意識的な勘違いである
鬼平の時代には既に古都だったのだから・・
写真は線香
鬼平の再放送ばかり見ている鯵庵(28.5.6)



# by ajiankyoto | 2016-05-06 07:41 | 京都の水 | Comments(0)