2016年 05月 17日
千本京極は映画の都
西陣のことである、が今の京都に西陣とつく行政上の地名はない
応仁の乱に由来するのはご存じの通りだ、と
歴史を学ぶと応仁の乱は日本の、ひいては京都の歴史の潮目だと分かる
西陣織りもその一つである
明治・大正と西陣織り工業の発展とともに千本通り界隈に数十件の映画館が立ち並んでいたということだ
日本の映画の父牧野省三はこのあたりを舞台に映画作りを始めたとも言われる
大正から昭和のはじめ京都の地で日本の映画界をリードしていた
尾上松の助や坂東妻三郎など・・
映画は京都だけでなく東京にも多くの映画制作会社が出来、それから娯楽の王者として日本全国何百何千の映画館が出来て、やがて潰れていったこととなる
昭和40年代から娯楽の推移により廃館が続き今残っているのは千本京極と言われたかっての繁華街で「千本日活」が唯一の名残である
この千本日活、成人向き映画専門にして、3本立て500円で一日映画を見ることが出来る(ただし、少し落ち着かない?)
大人には日活と言うだけでも懐かしいが、大げさに言えば映画発祥の都京都の遺産の一つである
この繁華街のもう一つの顔が遊郭〝五番町″でもある
西陣に近い方では上七軒もあるが、あそこは庶民には敷居が高い
一時、上七軒の出稼ぎ場でもあったとも言う
水上勉の「五番町夕霧楼」で聞いたことを思い出す人もいるだろう
1963年には映画にもなった、佐久間良子主演である
京都ではなく、残念ながら東映の東京撮影所の作品だ
主題は金閣寺炎上事件(1950)に関係がある
そんなことで驚いてはいけない
あの辺りは桓武天皇の平安京大内裏の中、大極殿の跡に位置している
そういう街の変化も応仁の乱が潮目になっているのがの京都である
そういうことを分かりやすく教えてくれる歴史家が小生は好きである
写真はクレマチス
鯵庵(5.17)
2016年 05月 13日
北野天満宮の星をさがそう
今日はいきなり北野天満宮で十数台のバスに出くわした
京都旅行の中に天神さん参りが入っているのは修学旅行の目玉である
天満宮の方も修学旅行メニューを用意して熱心に誘っている
クラスごとに神前に進む、初めての経験に中学生は少し照れもあるかもしれない
天神とは日・月や星の天空を司る神のことであり、それゆえ雷や雨の神である
1000年以上も前のこと、京の都に雷が大暴れして、それが先ほど九州でなくなった右大臣道真公の祟りだと言われ、怨霊を鎮めるために北野や九州大宰府で祀られた
菅原道真公の神号は天満大自在天神、と言うことで天神とは道真公、全国天満宮の祭神となる訳である、京都の御霊信仰の一つであった
道真公は学者であり詩人であった、政治家としての出世は学問によるが、藤原北家と位を並べるようになってしまったのでは学問だけでは身が守れない
政治には讒訴(ざんそ)がつきものである
朝廷や藤原氏や政争の勝者は敗者道真の怨念に重大な心当たりがあったということだろう
道真公の不幸は別にして、学問を身につけることは立身の最大の手段である
そんなこんなでいつか学問の神様と言われるようになる
学問にはげむ中学生がお参りに来るのは至極当然であるが
実は学問・学業の神天神様のご神徳はあくまでも学業に励む人にのみあらたかである
神は精進する人にのみご加護がある
だから、一発受験に勝利することを祈願したい人は博打の神様の方にお参りすべきである
そっちは一人こっそり行くことをお勧めする
写真は北野天満宮の空
鯵庵(28.5.13)
2016年 05月 12日
伏見一揆を忘れまいぞ
伏見奉行は大名格の者が務め、伏見の町政、近国の司法などを所管する幕府の高級官僚である
元和(1622)の頃、伏見奉行を務めたのが小堀遠州、もと秀吉の弟豊臣秀長に仕えていたが徳川体制にも大名で残る、近江の国で小室藩(長浜市)主となる、元来、作庭・茶の湯の名人である
それからほぼ160年(安永8年・1779)の伏見奉行、小堀政方(まさみち)の悪政と苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を幕府に直訴する事件(一揆)が起きた
天明5年(1785)伏見の年寄文殊九助(もんじゅくすけ)ら七人らが禁を破って伏見を脱出、江戸に出て幕府に直訴、だが例によって2年の後江戸にて獄死した
この伏見奉行小堀政方は件の大茶人小堀遠州から7代、近江小室藩第6代領主、時の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)派で大番頭を勤め幕閣でも羽振りが良かった
が、とんでもない食わせ者だった、先祖かえりして奉行は領主と同じだと勘違い
御用金10万両を小室藩の財政立て直しのためにと調達・流用・浪費がばれた
今なら政権が変わるほどの大汚職事件である
現に、翌年田沼が失脚した後、松平定信(まつだいらさだのぶ)により近江小室藩は改易(かいえき)となり消滅した
という前段が天明伏見一揆、町人一揆の代表的事件である
〝伏見義民事跡″として御香宮神社の片隅に碑がある
この場合、作庭や茶の湯は為政者の道とは別のものだったと知っておけばいい
現代でも政治が好きな文化人には注意した方がいいのは皆の知るところ
庭師や茶人を大名にしたつけを払うのに160年かかったことになるのだから
写真は伏見の酒蔵
鯵庵(28.5.12)
2016年 05月 08日
ネクタイは何のために?
サラリーマンの賞味期限の切れた身分ではネクタイそのものがは偽装になる
だか内心は、もう会社や世間の論理に首を絞められませんよ、言うつもり
ん十年のネクタイ生活から脱出ではあるが、白いシャツにただネクタイを外しただけでは間の抜けたものでもある
営業に長いこと携わった友人が言っていたのを思い出す
営業は売り込み、客の為にならないから営業職が必要なんだ、と
そのためにも、きちっとスーツを着ていいネクタイをしてなければならない、とも
省エネによって売り上げの減る電力関係の会社は矛盾に悩んでいる、その悩みがはネクタイに出る
そういえばあんなけ大きな事故があって発電所が停まっても東京の電力会社の偉い人もなかなかネクタイを外さなかったね
ボーイスカウトのネクタイ(スカーフ?)は伊達ではない
当たり前ながら彼らは営業の為にネクタイをしているわけではない
せめて、ネクタイで汗をぬぐったり手を拭いたりできるなら値打ちがあるのにと思う
やはり、営業の友人の言葉を思い出す
ネクタイしないで人を騙すと詐欺と言われる
ネクタイをして人をだますのが世間と言うものである
だから、謝るときに必要なのがネクタイ姿なのだ
本人にとっても首に巻いているのは首を切られないようにという気持ちの表れだ
だがしかし、それはまじないとしてもはや効き目はなくなりつつあるようだ
どこかの国の独裁者が急にネクタイをしめて出てきた
どう解釈すればいいのだろうか?
写真はボタン、それでもサラリーマンはやはり白いワイシャツがいい
鯵庵(5.8)
2016年 05月 07日
京都の庭園は自然志向?
京都で代々お世話になったということで三井家10代当主八郎衛門、男爵でもあった三井高棟が大正天皇の即位の記念事業に京都府に多額の寄付をして完成させたものであると碑文にある
今は北山通と北大路通の間にある
が当時は下鴨、上賀茂二村の間にあった半木神社の鎮守の森であったという
哀しいかな戦後は12年間も連合国進駐軍に接取されていた
あの地に進駐軍の将校の家族の住宅が建設されていた
彼らは森や林の中の家を理想とする
昭和36年今から50数年前に植物園として再開したとある
我が国の自然保護は鎮守の森に始まると唱える人がいる
人々が安直に手を入れることが出来ないのが神域である
たとえ子供の遊び場であっても森が守られてきた謂れがある
船岡山もそうだし上賀茂の裏山や下鴨の糺の森などのことを思えばいい
原生林の名残である
ちまちました庭園を作ったって森や林にはなりはしない
京都へ来てお寺や別荘の庭園を見て、自然が一杯だと感心する人は多い
だが残念ながら、それは大いなる勘違いである
庭園は人工物である、自然とは対極にあるものなのだ
そもそもが都の中は人工物のかたまりなのだ
それが都市だった
都市は時に拡大し時に縮小しその歴史の中で残されたものなのだ
そんなことを考えるときに元鎮守の森だった植物園の木々や花園の意義は大きい
いかに自然に、自然らしく見せるのかと言うことをテーマの一つにしている
ただ、いつもながら・・いかにもそれらしくしようとあっちを掘ってみたりこっちを掘ってみたりしているのは余計なことだと思ってしまう
またそういう工夫したところほど枯れたりする
どうしようもないほど茂ってしまえば植物の勝ちである
そんなところが残るだろう
人間が変に手を加えずに100年もたてば自然と言ってもいいようになる
鳥や昆虫にも優しくなければならない
そんなところは春夏秋冬美しい
写真は植物園でも見ることのできないキクナの花
鯵庵(28.5.7)