2017年 06月 10日
乙女には水無月

京都では6月に入った途端、町内の和菓子屋でも「水無月」「みな月」を売りだす
水無月は水の月、旧暦の6月のことを言う
旧暦だったらたしかに夏の気でむんむんするときである
水無月(みなづき)とは外郎(ういろう)に小豆のせ、三角形が特徴の菓子である
白いういろう(外郎)部分は氷に見立てたものと言う
宮中では氷、庶人は水無月の菓子と言うところである
涼しさを楽しむだけでなく「夏越の祓い(なごしのはらい)」の神事に関わっている
格好のいいものでなかったかもしれないけれど、食い応えのあるおやつだった
あのボリュームには意味があったのだろうね
魔除けだとしたら意味が分かる
やっぱりこれもクックパッドにもちゃんと載っています
上手に出来るかどうかは別にして、
日本の少年・少女にはお好みの味だと思う
お母さんの水無月で育った乙女はいいお母さんになれるはずです
写真はみなづき
鯵庵(29.6.10改)
2017年 05月 24日
女三代の家

子供は社会が育てるもの
男性は最後に社会に育てられなければ社会に入っていけない、社会と家を守るのが目的
女性もそうなんだけど、女性の甲斐性は女性が育てるのがいいというのが、小生の意見
男性社会で女性が苦労するという話の理不尽さは理解できるが、
今まだ同じ土俵での話、男を目標にするのは目標が低すぎる
蟻や蜂の社会生活は君臨するのも戦うのもメスの役割
社会の仕組みを子孫に教え伝えていくのはメスの仕事
今時・・人間のオスにも出来ることまであえてすることはない
だからというわけではないが娘の教育は母親が担うべき
娘は子分や友達ではない
人を育て子供を育てるということは自分を越える女にすること
男類と女類があるとしたら男類は所詮戦うことしかしない
親とも子とも戦うのが男類だ
自分を超えるものにすることは女類である母親しかできないのだ
だから母親を越える女が二代も続くと家も栄える・・・
女三代、女の道を大事にすべし
鰺庵(5.25)
2017年 05月 01日
女紋が似合う女

家によっては裏紋とか替紋といってもう一つ二つ持つ家もある
この他にあるのが女紋、家の紋ではなくあくまでも女性が個人で持ち、個人で引き継いでいくもの
女系の名残りかもしれない
このような風習は京都・大坂あるいは近畿地方だけともいう
由緒のありそうな家系育ちの女性にはお持ちの方も多いかもしれない
婚姻の時は実家の家紋であっても構わない
むしろ案内状などではこちらを使う、家の紋だからだが、それでは結婚後は使えないし自分の子にも譲れない
貸衣装の女性の礼服では五三の桐やツタの紋章などで女紋を代用したりしている
何処の家でも家紋があるだけでなく、日本はデザイン性でも奥深い文化を持っているといえる
わが国は長い封建文化により家を継ぐものとして男系で相続していく、その象徴が姓と家紋である
一方、実生活では女系の意識も根強いものがある
娘が嫁に行くときは女紋を持っていくというのが個人のプライドである
祖母の母から祖母に渡り娘である母にも渡りして、今は妹が継いでいる筈だ
姓は継がなかったけど代わりに血とプライドを継いでいるのが女紋である
無くても困らないしものなのだが・・ならば、
貧富にかかわらず・・何処にいても自立できる誇り高き女性なら是非とも定めておくことをお勧めする
あくまでも一個の女性が家と別に持つものだからだ
重々しくなく自分の好みでのデザインを選べばいい
既成のものから決めても差し支えない
これなら別れても別れなくとも自分の紋であるわけ
ぜいたくを言えば文箱や化粧小物に自分の紋を入れてもらえばいい
将来同じように嫁に行く娘に同じ紋を持っていかせればいい
ひょっとしたら最後は母娘のつながりだけしか信じられないかもしれない
女紋を持てば浮世の風は冷たくも、背筋が伸びてきりきりしゃんと生きていけると信じているからである
女性個人の誇りでもある、が
そのためには女はいつも親を超える女にならなければならない
家が滅びれば家紋は役に立たない、女は女紋を抱いて死ねるって?
それは分かったけどいらぬお節介だって・・鯵庵(5.1)
2017年 04月 29日
男らしさ?
2016年 10月 01日
男の性根は母譲り

しかし、今思えば違うような気がする
きっと当地の女学校に通っていた母の思い付きであるような気がする
母の里はそんな由緒の家ではない
でも思い付きであってもそれは当時大陸に行こうと決めた母の気位だろう
女一人で支那や満州に行くということは、それを距離を数十倍する根性と気位が必要だ
真っ白いワンピースにきちっとベルトを締めた当時(18才)の母の写真を見たら
凛(りん)としたという言葉の通りである
戦争に敗ける寸前に、満州から夫になる人の家に帰ってきた
我が京都もまだ田園であった
支那で約束した夫が帰ってくるまで、戦争が終わってさえ2年もかかった
誰も知らない他所(よそ)でどこにいるか分からない夫を待ったという
そして、その後生まれた小生を育てるために母として肥桶を担ぎ・・である
その頃、京都の町の半分以上が肥桶の町だったと知ってるだろうか
いずれにしろその家に気位があるとすればそれはそこの女の持っている気位であるのは間違いがない
小生だけではない戦争後に生まれた団塊世代のスタートは地べたであったのである
女紋は母から娘へ引き継いでいくものと書いた
女紋は形である、形は信仰である
男も女も父から命をもらい母から心をもらう
もう一度言う・・その家の気位があるとすればそれはそこの女の持っている気位である
母が肥桶を担いでいた70年前も今も日本の女が続いていると思える人にはそのことがわかる
写真は赤とんぼ
鯵庵(28.10.1)