葬式のレール⒃火葬場

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京都市が中央斎場の火葬件数の予想を立てている
市民のほぼ100%が火葬だから、市民の死者の数だと思えばいい
あと15年くらい先の平成43年から47年の5年間ぐらいがピークになる
1日の火葬件数は(最大)138件になる、としている
中央斎場の1日の処理能力は120件(24基ある)程度らしい
やがて減少していくことが見えているので増設はしないということだ
平たく言うと、団塊の世代が85歳前後となる時期が死者のピークということだ
この間毎日18件分、1年で約6500件が生焼けになる(?)という計算だ
団塊の世代は最後の最後まで生きる競争だ、それどころか死ぬタイミングも・・
"阪神淡路"の時に経験したことであるが、焼き場を求めて役場と遺族がさまようこともあり得るわけである
立派な墓を用意して準備したからとて優先してくれるわけではない

もう一つ京都市中央斎場が困ってることがあるという噂だ
京都(近畿圏)は部分収骨である
残りは火葬場で処理してくれる
やはり、遺骨(焼却灰)は土に返すことが本当だと思う
その処理槽を丁寧に「聖土槽」(京都市の場合)と言ったりする
それがそのころには満杯になっている?
当事者になればジョークでなくなる可能性はある
だが、都で暮らしをしてきたものにとってはともかく贅沢(?)は望まない
気にせず東山の樹林の土にしてもらっていい、と市民は思っている
鯵庵(30.11.26)

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by ajiankyoto | 2018-11-26 09:07 | 地蔵菩薩 | Comments(0)

葬式のレール⒁墓守

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墓守の仕事に興味を持ったのは、第3の仕事を求めての話であった
実はハローワークを通じて初めての面接だった、樹木葬の企画会社だった
面接の後すぐに丁寧に断られた、2年も前の話である
詮無いながらもそういうことにも勉強させていただいた
埋葬(納骨)の形は様々であるが、ここの遺骨はお寺の庭で手厚く祀られる
大きな石の墓標はないが、寺の中である、本物感?はある
火葬ゆえに出来ることである、納骨の墓に近い方法だと思えばいい
一番いいことに、墓の将来(死後の姿も)を容易に想像することが出来る
だから、自分用に生前に購入する人が増えている
本山の塔頭寺院だから、年に何回かは厳かに法要も営んでくれるし、友の会もある
そうでなくとも新しい住人が増えてくることは事実だ
しかも、観光客では入れない・・ブランド志向にも対応できるわけである

それはさておき、もし採用されておれば私の仕事は何だったのかと言うと・・
お客の案内をする運転手と墓掃除である
古風に言うと墓守(はかもり)だった
だから、人の墓を守するというそのことに憧れて応募したのに・・・・である
採用されることはなかったけど、いい企画だと思っている
京都の寺院型の樹木葬は都市移民の我々の世代にとっていい落ち着きどころになる
どのような状態であっても、骨は自然のバクテリアのおかげで数十年で土と水となる
樹木の栄養となってもいいとさえ思えば、死後落ち着ける環境である
樹木の栄養になってもいいとさえ思えば、死ぬまで落ち着けることもある
小生も落ち着いて営業と墓守をしていれば、いい罪滅ぼしになったのにと、今でも残念に思っている
鯵庵(30.11.23)

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by ajiankyoto | 2018-11-23 08:55 | 地蔵菩薩 | Comments(0)

葬式のレール⑿焼却炉

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京都のロストル式焼却炉は火床の下に受け皿煉瓦がある
骨(灰)は受け皿に落下、遺骨が崩壊する
少し冷却の時間をおく
下半分の耐火シャッターを上げて受け皿煉瓦を引き出す
頭蓋骨と腕や脚の骨の形が残っている程度
磁石で金属を除去して参列者が骨壺に収骨する・・
この間、約1時間である

そのための技術は生半可なものではない
  ・・・ということだ
ロストルというのは火がよく燃えるように炉やストーブの下部に設けた鉄製の火格子のこと
棺はこの格子の上に乗るので下からも炎が回る
実はこの方式は全国では京都市と東京都の一部である
全国の焼却炉は台車式というもので骨受皿の上に直接棺を載せ
少し時間はかかるが遺骨がキレイという
我が国の火葬は釈迦が荼毘にふされた時のように遺骨を大事にする風習に基づいているという
火葬は仏になる最初にして最大のステップである
初めて魂は肉体を離れて気化する
火葬はどちらにしても遺骨とは言うが成分は灰である
鯵庵(30.11.19)

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by ajiankyoto | 2018-11-19 20:13 | 地蔵菩薩 | Comments(0)

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そもそも、家族こそが一番故人のことを知っていないこともある
10年も20年も病気してたら、おかしくなって家族に迷惑かけたことだけしか思い出せない
とても、皆が言うほど厳しかった人とはとても思えない・・なんてことになる
サラリーマンだって金貸しだって仕事の成果は評価されるが仕事の癖は正しく評価されることはない
葬式は誰のためにあるのかと言えば、残された者のためにあった時代もある
喪主の社会的地位が葬儀を作る
自分の親がどんな親だったのか説明できないこともあった

テレビドラマのように単純でない、しかしドラマほど複雑でもない
例えば、ただの女好きだったと言われるほど単純な生き方をした人は存在しない
家族葬ではもはやそれも必要ない、親は単に親である、子は単に子である
家族が集まって遺品整理の話ばかりしておけばいい
それは世の常家族葬の寂しさでもあるが、死人に個性を感じるのはやはり家族だけかもしれない

人の人生は毀誉褒貶である
世の中いうものはでは人間がみんな集まって出来るだけ都合よいように作ったものである
従って、世間は右と左、上と下、白と黒、・・本物と偽物、正と邪、・・似たものばかりで自分と他人の区別も分からない
世間のことを世間が裁くのが世間たるゆえんである
しかし地獄は現世の資産や地位を認めてくれない上に極端に公平な世界だ
閻魔だけが評価する?誰もが通らなければならないのが地獄の門である

現世での嘘は通じない
地獄でこそ始めて裁かれ、また地獄で始めて救われる人もいるだろう
そのことを知っているものだけが地獄の英雄である
死後のことは天に任せばいいし、自分の身は閻魔に任せるしかない
閻魔に裁かれても心配するな、地獄の責め苦はない
それが火葬だと信じるのがいい、もう既に身は焼かれている
鯵庵(30.6.16)

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by ajiankyoto | 2018-11-16 16:41 | 地蔵菩薩 | Comments(0)

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人は皆、数多くの葬式を見てきている
ひょっとしたら自分の時の参考になるかもしれないと思う
だから、葬儀は進化してきた
葬儀屋に言わせれば客の望みに近づけてきた
その気持ちはお寺さんと言われた僧侶も同じだろう
僧侶の数が故人の偉大さを代弁するとはだれも思っていない
が、引導役の僧侶の位や衣装が葬式の演出をしてきた
逆にその気持ちは葬儀屋も同じだろう
大きな祭壇ほど熱が入るのは当然である

火葬式や直葬で戒名や引導に僧侶が関与しないのは伝統的な葬儀でなく
故人の意思であったからと言って正しい葬儀ではない
と、各地で僧侶を職業とする団体が格安葬儀を牽制している
ならばとばかり、
火葬後の自宅で小規模ながら正しい葬儀をしてやろうと提案している
それもいいだろう
そういう形も自然だし昔からある
そんな時こそ僧侶の存在は遺族の救いである

確かにホールや斎場を使わなければ経済的な負担は小さくなる
その上で僧侶の分をケチらなければ正しい葬儀であるというのは余りに手前みそな話である
極端に言えば宗教的脅迫だと思う
葬儀の僧侶は霊媒師ではないはずだ
我々より数倍も俗っぽい生活をしながら言うことではないと思う
火葬はどんなに短時間であっても故人にも家族にも一番の宗教的行為だと思う
だから小生は、軟(やわ)な気持ちで火葬に同行してはいけないと皆に言う
鯵庵(30.11.11)

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by ajiankyoto | 2018-11-11 18:06 | 地蔵菩薩 | Comments(0)

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葬儀の自由度という言葉は本人(故人)の気持ちである
例えば小生の父はそのことを言い残さなかった
小生は自分の意思で父の葬儀をした
葬儀屋の会場の都合もあった
大きな葬儀ではあったが・・
父の住まいから距離があった
体の調子の悪い父の友人たちの参列が少なくなった
親族の他は多く私の仕事の関係者であった

だが、あらかじめ下あたりした地元の寺院は宗旨の違いで断られていた
父も私も付き合いがなかったのだから仕方がない
生きていた人の尊厳は葬儀が終わるまで守られなくてはならない
長く難病と闘っていた父としての尊厳はかすかなものになっていた
が、私は父の人生を誇りあるものとして見ていると多くの人に語り得た

葬式は誰のためにするのかというのは現代でも命題の一つになり得る
男性も女性も、社会や家族の現役を離れて20年も30年もたっている
寿命を全うすれば・・
それはいかに普通の人になるかという旅でもあり修業でもある
その旅の終わるときに過去の栄光が気になるならそれでいい
最後の見栄という人もいるだろう
が、多くは家族の気持ちでもある

我が国で死亡した人の99.99%が火葬である
火葬場の煙突から陽炎のように揺らめく空気を眺めれば
葬儀が誰のためであってもそんなことが気にならなくなる
昔、荼毘(だび)にふせば大勢で一晩中かかったことも
今は一時間ほどのことである
酸化という化学反応である
残されたものは骨ではなく無機物の灰だけなのである
鯵庵(30.11.10)

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by ajiankyoto | 2018-11-10 09:04 | 地蔵菩薩 | Comments(0)

葬式のレール⑸終活

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告別式会場から霊柩車で火葬場(斎場とも言う)に炉の前に運ばれた遺体は
火夫が故人の確認を行って棺の蓋を閉じる
足元から耐火シャッターのうちに入れられ、炉の扉が閉じられる
化粧扉が閉じられ、僧が読経を行う
それが点火の合図になる
足元先端部のバーナーの火が棺と遺体全体に回る

「火葬」を省略できないのが葬式である
だから、言い換えれば火葬を行うために付随したものが葬式ということになる
人の死に対して火葬の儀式だけは平等である
絶対に差があってはいけないのである
その平等性が守れるのであればそれらに付随するのもは逆に自由であって差し支えない
ただその自由度は一番先に故人の気持ちの反映であるべきである
自分の末路として自分の葬儀の形を選ぶのは望ましいことである
が、実行されるかどうかは分からない

平たく「終活」などと言う言葉はそのことを言っている
気が付いた時には間に合わないのもこれである
鯵(30.11.9)

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by ajiankyoto | 2018-11-09 08:01 | 地蔵菩薩 | Comments(0)

葬式のレール⑶無縁死

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孤独死のもう一つの寂しさは葬式である
いわゆる"直葬”になる
火葬のみである
「チチキトクスグカエレ」、遅れて死に目に会えなかったというような文学の世界ではない
むしろ、腐敗した屍として他人に発見される生物学の世界である
"行きだおれ"ということもあるかもしれない
身元が分からなければ「行旅死病人」として自治体のお世話にならなければならない
そこまで行くと身内に葬式をしてくれる人すらいないのだ
それが「無縁死」という状態なのだ
750年前親鸞が亡くなった時、清水の鳥辺山で親鸞を荼毘にふした
親鸞であっても荼毘にふすということは宗教を超えた瞬間かもしれない
肉体がなければ拝まない古代の宗教観を超えた瞬間かもしれない
現代こそどんなに無縁であろうと火葬だけは行わなければならない
それを・・例えば「直葬」(※ちょくそうというのが普通・音が誤解の元になるが・・・
小生は時々じきそうと言ったりする)とよんでいる
どんなにみすぼらしいことであっても選択肢はそれしかないのである
ただ、葬儀である限り個人と遺体の尊厳は守らなければならないし、守るべきである
実は火葬こそほぼ1000年近い歴史があるのだ
鯵庵(30.11.6)

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by ajiankyoto | 2018-11-06 20:17 | 地蔵菩薩 | Comments(0)

葬式のレール⑴火葬

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葬式は辛いものだ
しかし、葬式を成し遂げることで自分の死という別の辛さを感じることができる、という
今の葬式は火葬という極めて厳粛なしかも化学的な酸化によって肉体の処理をする
現代では誰もが避けて通ることのできないことになっている
魂は気化し、他人には捕えられない宇宙哲学の世界に入ってしまう
地獄で裁かれるのは仕方がないとしても肉体がさいなまれることは実感がない
火葬の一番の利点は地獄まで肉体を持って行かないことである
鯵庵(30.11.4)

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by ajiankyoto | 2018-11-04 08:15 | 地蔵菩薩 | Comments(0)


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ある墓地の宣伝で、〝自分のお墓のないことははかないことです″と言うのがあった
ジョークにしてはインパクトがある名文句だと思う
また、一方ある宗教グループは「お墓は無くてもいい」という運動をしたりしている

肉体は火葬したら、それで終わる
各地の自治体の条例では、もちろん火葬後すぐに遺骨は引き取られるものとなっている
前回に述べたが、わが京都市も慣習は部分収骨である
実際、火葬場に残された灰は丁寧に処理される
そのことではなく、全ての遺骨を受け取らないという運動だ
形としては火葬場で遺骨を受け取らない・・ということになる

その実現にはおそらく遺家族で大きな悶着となる
それが故人の明確な哲学であったとしても、それを実行する遺族には多大な負担がかかる
だが、世間は広い、一方でお骨を引き取った人がそれで困るというのもの現実である
所によっては大きな骨壺にすべての骨を引き取らされることもある

ずっと骨壺と一緒に暮らしているというのも心なき行為と言われる
遺骨でお地蔵さんやアクセサリーにしてくれる業者もいる
ここで言いたいのは、遺骨はそれぞれのお墓におさめられなければならないということになればである
行くべきところに行かない遺骨こそ成仏できない遺骨となる
だから、石屋が言うように「墓がないとはかない」ということにもなるのだが、
しかし、墓がなければその悩ましき束縛から逃れられるというのも本当だと思う

たしかに「墓がなくても」人間の生存の証に不足はないという考え方もあってもいい
人間が死を前にして生きる苦しさを救うのも宗教だろうし、
そのために形式を決め淡々と儀式を行うのも宗教である
一昼夜休むことなく多くの人が薪をくべながら荼毘に付した時代もある
50年前は土葬だったのが、貴賤の区別なく焼却炉で火葬という埋葬方法がやっと定着したのである
数十分で苦しむことなく、肉体(有機物)が灰(無機物)になるということを受け入れられるのなら・・
灰は既に土と同じである
既に成仏していると考える方が自然である

肉体と灰の間に自分を
置いてこそ、魂のことを考えられるかもしれない
最後に残された儀式の場が墓である
それがただの儀式なのかどうかはあなた自身が考えればいいことだと思う
この項続く
鯵庵(7.15)



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by ajiankyoto | 2017-07-15 08:00 | 家族 | Comments(0)